愛知大学21世紀COEプログラム・2004年度国際中国学研究センター国際シンポジウム

2004年10月9日、愛知大学)

激動する世界と中国−現代中国学の構築に向けて 第2パネル:日中関係−共生のための条件

 

日中関係の新段階に向けて

 

川島 真 shin@juris.hokudai.ac.jp

(北海道大学大学院法学研究科助教授)

 

●総論―― 日中関係は確かに多くの問題を抱えているが、現在のところ、新しい枠組み作りに向かう過渡期にあるといえる。いまは「忍耐の時代」ということもできるが、「再構築の時代」だとも言える。こうした遷移は、交流が政治外交優先で、経済を中心とした民間交流がその下に置かれ、「友好」を精神的支柱としていた時代から、膨大かつ総体的なヒトとモノの移動と多様・多面・多層的な関係、精神的には「友好」だけでなく互いの「利益」を対等に主張し、まさに相互に衝突をしながらも、「競存」「競栄」を相互に模索しえる時代への遷移だと筆者は考えている。これを政府レヴェルで考えるなら、従来の一定のキーパーソンを軸とし、「友好」という原則論の下で、中国側の「管制」に対応した政治外交面から関係を主導してきた状態から、より包括的な関係が大規模に進展しているという状況、および政治外交が主導できる範囲が狭まっていることを前提とし、いかなるガバナンスを国際標準と地域的論理の中で構築するかということを、民間と調整しながら構想しなければならない時代にはいったということであろう。そうした意味では、政治外交から「行政」、あるいはより実質的な実務レヴェルの「国家関係」が頻繁な調整と濃密な連絡体制の下に築かれなければならないといことである。そして、その先には、1972年と1978年の共同声明、平和友好条約という二国間関係の原則の賞味期限の到来、そして新たな「外交的な枠組み」が見えてきているように感じる。朱総理訪日時にも日中間の懸案事項を挙げ目標設定をしているが、もう一段上の大枠の再構築が求められているのではないだろうか。昨今の「新思考」や胡政権からの「共栄」というメッセージは、こうした方向で理解できるであろう。

 

● 「政冷経熱」――これが2004年の日中関係のキーワードのようだ。小泉総理の靖国参拝ともなう首脳交流の凍結、尖閣列島問題、サッカー・アジアカップにおける反日的応援とそれをめぐる報道など、確かに政治的には「冷」のように見える。他方、経済は日本の貿易相手として中国がアメリカと同等となるだけでなく、対中貿易が黒字となり、経済面での「中国脅威論」は急速に萎み、「共存共栄」的な言論が国内経済紙に目立つようになった。

だが、この「政冷経熱」関係はそれほど不思議であろうか?確かに小泉首相の靖国訪問は中国からの反発を買い、「政冷」は深まっている。だが、「経熱」主導となって、政治が補完的役割を果たすということについては、今後とも続いていくことが考えられる。中国が次第にグローバル化に対応し、国内体制を調整する中で、関係が「経済社会」中心になることは必然であろう。これは、「政冷」がそのままでいいということを述べているのではない。筆者は、なぜ小泉総理が靖国参拝することを自民党にせよ、友好議員連盟にせよ、「止められなくなったのか」のかということを考慮しなければならないと考えている。これは日本政治の「失われた十年」と日中友好運動の衰退、そして小選挙区制というビックバンにも関係することである。これまで日本政治における「友好論」は日本各地で根強かった(必ずしも左派には限定されない)「友好運動」に支えられてきた部分があった。だが、この運動はこの十年で担い手の高齢化、社会(民主)党の弱体化という危機に直面し、さらには(少数派閥を除去しがちで、党本部および総理の主導権を自動的に保証する)小選挙区制の導入によって、「中国との関係」について「友好」という側面で圧力をかけることが一層難しくなったということを看過してはならないだろう。また小選挙区制に基づきながら、トップダウン制を採る議会制民主主義の下での「総理」は、直接選挙に基づく大統領よりも、周囲からの抑止を受けなくなるという制度的な問題点も重要だろう。その分、もし日中関係上の懸案を争点化するならば、二大政党の片方である民主党への「工作」が大切になる。なぜ総理の行動が抑制されないかということの背景をふまえた、従来とは異なる「対日工作」が求められているのである(中国側は十分に認識しているであろう)。

 

●交流の姿の変容

 日本は、中国が経済・社会面で発展し、次第に国際社会に参加することを希望して援助を実施し、また友好関係が維持できるように、多くの財政支出を繰り返してきた。結果的に見て、中国が経済発展し、グローバル化に向かおうとする現状は、日本が望んだ中国像のひとつであり、そうした意味では日本の対中政策は「成功」したと考えられる。他方、日本語学習人口、また留学生政策などにより、日本を知る人は着実に増えてきているし、昨今は観光客増加に期待がかけられている。こうした現象は日中関係の緊密化の表れでもあるし、また政府の交流政策の結果でもある。確かに、日本発のソフトカルチャーの普及同様、こうした現象が反日感情を緩和することにはならないとか、逆効果であるという側面も否めないが、交流の基礎的段階としては必要なことであり、そうした意味でも方向付けは誤っていなかったと思われる。こうしたこれまでの成果は成果として認めていくべきであろう。そして、いま現在の問題は、「交流」それじたいに目標を設定した以前と異なり、いかなる関係を構築するのかという具体的な目標を設定ことにあり、それが明確でないために摩擦ばかりが目立つということだろう。

他方、特に経済面において「援助」「支援」を基礎としたということも、再構築に迫られている。この面でも、中国の「近代」社会構築に日本のODAは確かに貢献してきた。これはこれでしっかり評価していいだろう。だが、いまはオーソドックスな近代化支援、発展支援だけでは、立ち行かなくなってきている。新幹線誘致問題でJR東海が技術協力にメリットを見出せないと判断したことなどは、「援助的協力」への警鐘として注目に値する。これはODAにも関わることであるが、現在、中国側が求めているのは最早より先端的なところである。政府レヴェルで言えば、近代財政制度のことなどではなくて、財政投融資のシステムとか年金制度、保険制度の詳細な制度設計に関する部分であろう。こうした部分は、「援助」という発想ではおこなうことが難しいのではないだろうか。無論、内陸部重視、環境重視といった対中ODAに関する外務省の方針には賛成だが、ODA的な「援助精神」に依拠した関係作りもまた限界になるのではないだろうか。双方ともが国益を明確に認識した上で、「友好」という方程式抜きに認識しあい、議論することが求められている(国益の明確化こそが容易でない、ということもあるが)。

また、文化交流についても、上記のように多くの成果をあげてきたものの、既に2002年の「日本年・中国年」のイヴェントに見られていたように、関係が民間主導になる中で、民間でできることを政府が税金を使用しておこなうことの正当性への疑問符が付されることになる。日中間の文化交流に関する予算増加を求める新聞記事などを目にするが、政府として何をするのか、方向付けをおこなわなければ民間でもできることを、非効率的におこなうということになってしまう。

総じて、日中関係は「対話/友好合作」から「協働」する時代に入ったということであろうか。こうした意味で、パートナーシップや共存共栄という中国側から送られてくるメッセージを受け止めなおす必要があるのかもしれない。

 

● 歴史認識とナショナリズム

 歴史認識問題は、両国間の最大の問題の一つである。だが、たとえば2004年8月15日、9月18日における中国側の対応はきわめて冷静であった。8月15日には、平成天皇および小泉首相の「言葉」をほぼ全文掲載し、コーテーションつきながら「反省」にも言及、9月18日には長春の街でさえ特に大掛かりな宣伝はおこなわれていないようであった。テレビではケ小平生誕百年の記念番組で、ケが新幹線に楽しく乗る姿を映し出し、「日中間の健康な関係を築いた」指導者としてのケを映し出すなど、対日宥和の方向付けがなされている。実際、中国では95年前後の反日歴史教育キャンペーン以後、政府レヴェルでは97−98年には対日宥和方向に舵がとられてきている(注意すべきは、中国の場合、外交部以外にも様々なアクターがおり、それらが統一的に対日政策を展開しているわけでは必ずしもないことである)。これまで多くの論者が指摘しているように、こうした中国の姿勢はほとんど日本で報道されず、マスコミを情報源とする読者の対中国認識に影響を与えている。こうしたディスコミュニケーションは確かに問題であるが、メディアに価値性がつきまとうのはある意味で避けがたいことであり、メディアによる問題の取り上げ方を批判し、「こうあるべきだ」と主張しても、商業的基盤にたつメディアが論調を変更することは難しいのだろう。この点については、明確な解決方法を持ち得ないのだが、たとえば教科書問題については、それが戦前期から存在していること(当初は日本側が中国の教科書に抗議)などを明らかにして、現在の問題を歴史的な視野の中から捉える方向付けをおこなうこと、そしてそれをテレビの歴史番組や新書などの、比較的影響力のあるメディアで紹介していくことが求められよう。これらについては、社会への働きかけが研究者として求められているものと考えている。

他方、中国のナショナリズムは、他国のナショナリズムを受け入れない点で「健全なナショナリズムでない」とする批判がある。これは確かに要を得ているのであろうが、これは何も中国だけでなく、日本の言論にも同様の部分がある。その日本の言論、日本の動向は、直ちに中国ナショナリズムを刺激し、先日のサッカー観戦にも見られるような「激情」を生み出すことになる。欧米型の民主主義に立脚しない中国の政権は、逆に社会から与えられる(制度的)正当性に敏感であり、日本以上に常に世論や社会情勢を確認し、それを踏まえなければならない側面がある。そうした状況の下では、中国の世論を動かす力のある日本の動静は中国にとっても重要であり、安全保障的観点にたっても不安定要因に数えられるのではないだろうか(それを意図的に日本側が利用するとまでは考えられないが)。中国側にとって、少選挙区制導入によって特に都市部で誕生した外交を売りにする国会議員やメディアに働きかけをおこない、日本の世論に働きかける必要性があるように感じる。日本が中国の世論にいかに働きかけるかという問題は、以前から指摘されているが、中国側にもそうした必要性が生じているのである。こうしたことから、日中が相互にPublic diplomacyを展開することが必要であると思う。そのためには、相手方の国民などへの宣伝行為などもある程度含んだ文化協定を締結するべきなのではないだろうか。

以上の点をふまえ、日中関係を規定してきた72年と78年の大原則を克服するかたちで、新たな枠組みを作り出す必要があると考える。