「中国人留学生と日中戦争」シンポジウム
2006年3月4日、於神奈川大学
「日本占領期華北における留日学生をめぐる動向」
川島 真 shin@juris.hokudai.ac.jp
はじめに
(1)北京で耳にした朱紹文、李徳先生たちの話
⇒鐘少華編著・泉敬史、謝志宇訳『あのころの日本−若き日の留学を語る』(日本僑報社、2003年)
(2)留学生史の研究史に対する問い
特に留日学生史における1937年以降の空白への「問い」
⇒河路由佳他著『戦時体制下の農業教育と中国人留学生』(農林統計協会、2003年 )
⇒大里浩秋・孫安石編『中国人日本留学史研究の現段階』(御茶の水書房, 2002年)
(3)対日協力政権の研究、特に華北の手薄さ
新たな史料、『新民報』、『中国留日同学会 季刊』など
(北京市档案館所蔵新民会档案は非公開)
1.新民会の組織
〈新たな文化工作〉
事変後に於ける文化工作は、此の事変の歴史的意義文化史的意義を拡充徹底して、支那の文化的復興と思想的再建、畢竟支那それ自体または東亜自体建直しが眼目でなければならぬ。事変前の、自由主義的な、線の細い、「文化事業部」的文化工作とは、全然面目を異にする所以を知らるべきである。…従って今後に於ける文化工作は、…実に社会各階層共同の仕事なのである。更にまた、新しき文化工作は、支那の現地に在りて支那人を対象としてのみ行はるるものにあらずして、日本国内に於ける一切の文化運動、思想運動も亦そのままに対支文化工作の意義を帯びるものである。
(中谷武也「対支文化工作の諸問題−新民運動に尽す−」(『文芸春秋』1938年3月)
〈新民会と文化活動〉
●新民学院の開設
⇒ 臨時政府為養成官吏,設置新民學院,招生入學後以基本之訓練…
(「新民学院続招第二期新生」『新民報』1938年2月13日)
・1938年3月10日 新民学院第一期卒業生、各国家機関に勤務する以前に日本に観光へ。
(『新民会』1938年3月7日)
⇒出発は3月13日、学生60名、東京・関西地区・広島。
●新民日語学校の附設
・1939年8月26日 第一期卒業生(『新民報』1939年8月27日)
●新民会職員の訪日(『新民報』1939年9月11日)
〈北支民衆工作と農村問題〉
「北支に於ける民衆工作はこの貧困裡にある北支農民の把握なしには到底堅実なる前進を企図し得ないと云ってもいい」
「要するに北支に置ける長期建設の根本問題は権威並びに知識階級に依り貧困化せる農民大衆を獲得し、此の獲得を通じて農民をば其のゲリラ戦を通ずる匪性化から救ふと共に進んで積極的に支那人による新秩序の長期建設完成に邁進することにある。」
(松岡孝児「北支民衆工作の基礎問題」『文芸春秋』1939年9月号)
⇒農村合作社運動の提唱(華北零細農民の提携、生産力向上)
梨本祐介「中華新政権の歴史的使命」(『中央公論』1938年2月号)
2.「日満中」文化交流事業の展開
●留学事業 ⇒ 【史料1】留学生をめぐる状況
●教育視察団
満洲国日華北教育視察団(「在京日程及団員名単」、『新民報』1938年2月20日)
●学生交流
「日派権赴華北学生使節」(『新民報』1938年2月22日)
松井中将が52名の学生を引率。華北、満洲に。新民学院、新民会などを訪問。
「農院赴日見習生」(北京大学農学院、『新民報』1939年9月26日)
●観光交流
「中日満三国携手 遠東観光計画」(『新民報』1938年3月4日)
★イギリスなどの外国学校の封鎖
「加強反英陣容 封鎖英人学校」(『新民報』1939年9月5日)
3.日本語教育・日本留学の位置づけ
⇒【史料2】興亜院華北連絡部『北支に於ける文教の現状』
●日本外務省文化事業部「中国問題研究会」設置(『新民報』1939年3月22日)
中国研究の必要性、日本人の中国留学奨励、留学生交換奨励
●東方文化協会北京事務局成立(1938年2月9日、『新民報』2月10日)
●教科書編纂
文系諸科目、抗日教科書の意識的書き直しがおこなわれる。
(小田嶽夫「北支新教科書」、『文芸春秋』1938年3月)
●日本人教員の小学校、中学校などでの増加
(「加強文化提携 各中小増日教員」、『新民報』1938年2月4日)
●日本語教育
〈ラジオ放送・語学教室〉
北京中央広播電台(1938年2月10日の番組表) ⇒ 17時半から日語講座(柯政和)
〈日本語学校〉
・新民会「新民日語学校招男女生」(『新民報』1938年2月10日)
⇒初級男子四班、女子一班(各班五十名)、速成班も同様の班構成(各五十名)
中級二班各五十名、高級一班五十名。
⇒卒業生に対し、日本留学希望者には本稿から相当の日本の学校を紹介する。
・北京市社会局「日語講習所今日開課」(『新民報』1938年2月10日)
・北京近代科学図書館「日語中級講座」(『新民報』1938年2月13日)
・華北大学添設日文課程(『新民報』1938年2月22日)
・京奉局添設「日語講習会」(『新民報』1938年3月4日)
・教育部外国語学校(日文、英文、徳文、法文)(『新民報』1938年3月11日)
〈日本語教育の管理〉
・「教部舉辦日語學校登記」(『新民報』1938年2月17日)
教育界息, 教育部鑒於京津兩地日語學校林立,個中難免有投機份子籍以圖利,貽洖學子,為整頓及取締計,將擬舉辦日語學校登記,並對日語教員,加以甄別,以期整頓云.
・「教育部制定表格 調查日語學校 令各省市教育廳局填報」(『新民報』1939年8月29日)
●日本国費留学枠
北京市:日本外務省文化事業部 ⇒ 中国教育部(北京市25名、河北省5名)
⇒ 11名を教育部直轄の各校院、二つの師範学院附属中学からそれぞれ1名推薦
11名を京師体育専科学校、公立各高級中学、市立師範学校、高級職業学校から各1名推薦、残余三名は柔軟に。(「選抜赴日学生」、『新民報』1939年9月9日)
河北省:試験を実施、5名選抜。(「選抜留日学生」、『新民会』1939年9月12日)
★北京、河北省ともに、どの学校を誰が選んだかを報道。
「本年度官費留学生各校選抜竣事 名単已呈報教部市署」(『新民報』1939年10月2日)
●自費留学生管理
「自費留日学生 教部規定推薦法」(『新民報』1939年9月17日)
⇒ 教育部「発給留日自費生留学証書暫行条例」(39年9月までに7名が自費留学)
3.留日学生同学会の組織
⇒【表3】留日学生同学会、第六届理事・幹事・評議員・会務基金委員・事業資金委員
●成立
・「中国留日同学聯絡感情」(『新民報』1938年2月23日)
一部分留日同學,為彼此聯絡感情起見,擬組織中國留日團體,…
・「中國留日同學會 內部設施籌備就緒」(『新民報』1938年3月4日)
1938年3月15日に成立式実施予定。湯爾和理事長。
組織体制 ⇒ 欧美同学会を模倣する。
・「留日同學會 成立會程序及本年度工作計畫」(『新民報』1938年3月13日)
・「留日同學會組織草案 全文計十一章三十一條 俟成立大會通過後施行」
(『新民報』1938年3月13日)
⇒ 第二章(四) 会員:凡曾留學日本, 不分性別, 願入會者, 須先填具入會志願書及履歷表,有會員二人以上之介紹, 經本會幹事會審查合格並發給會員證及徽章後,始得為本會會員
・各政府機関、軍関係機関の日本留学経験者を組織(『新民会 晩刊』1938年3月13日)
●留日学生同学会[1] ⇒ 【史料3】中国留日同学会の留学事業への関与
(1)会員数の増加企図
(2)職業紹介
日華学会などと協力して、留学卒業者リストを関係各機関に配布して就職斡旋。
1942年実績で希望者21名中、9名が就職。
(3)留学補助
留学生の派遣、監督、1943年6月、11月に寺村幹事を東京に派遣。
教員派遣 ⇒【表2】留日学生同学会派遣(民国30年度)国立各校教職員赴日留学生名簿
(4)治安強化運動
治安強化運動への協力。宣伝活動。
映画上映会(大東亜戦争影片、日本科学影片、岡村部隊軍楽隊奏演音楽、日本近代文芸影片など)
(5)日本語関連
・日本語作文コンクールの実施
小学校、中学校、大学。1942年10月6日−12月13日の募集期間に101件。
本会理事、周作人らが審査委員。テーマは治安強化運動など。
・日本語講習会
・日本語等級検定試験施行
(6)中国留日同学会叢書の刊行、銭稲孫訳注『櫻花国歌話』など
(7)諸社会活動
図書室開設:児童図書室など/日中児童交歓会/少年少女遊芸舞踏会/映画会、音楽会/座談会/いけばな会、日本舞踏会/日本武道会/結婚式場、観月会、納涼会、会員宿泊所/日本商品陳列会など
(8)会員懇親会実施
(9)地方組織の活動[2]
( i ) 開封分会 1939年10月成立。査岳君会長。
事務主任1名、事務員2名、雇員2名、傭人3人。場所は当初、中央日本語学院と同一の場所。陸軍特務機関に依頼して軍の管理する房舎を利用することに。
留日学生、帰国者の登録。
中央日本語学院とは別に附属日語学院をもつ。
治安強化運動の実施(ほぼ中央に同じ)
( ii ) 済南分会 1938年4月 朱桂由会長、会員60余名⇒90名に増加。
出版事業、学術講演、日本語学校、留日学生への補助活動。
(YMCAの事業・財産を「接収」、その上で中華基督教会本会に移交)
(iii)徐州分会 1942年8月10日成立。会員数49名。
日本写真展覧会開催。拒毒運動。講演会。留日同学会館の建設。日本語学科王解説。月刊、季刊の刊行。
(iv)青島分会 1943年2月7日第二回全体会員大会開催。
日本語弁論大会。青島海水浴場に会員用の更衣室設置。中国将棋大会。
暑期帰国留日学生の歓迎会。会誌の発行。治安強化運動実施。座談会など。
(vii)山東分会 1942年10月の会員84名。
東光学校開設(YMCAを接収して、その場に開設。日本語学校)、食糧増産への協力。
(viii)保定分会 河北全省留日同学の調査。懇談会開催。治安強化運動。興亜高級中学の入学試験実施(保定会場、受験者四名)。中日交歓テニス大会。
(ix)太原分会
●興亜高級中学校[3]
・「中國留日同學會 創辦興亞高中 籌備就緒不日招生」(『新民報』1939年8月31日)
・「興亜中学校 明日挙行開学礼」(『新民報』1939年10月5日)
(1)組織: 董事定員10名、日中半数。董事会を毎年一回開催。
董事長 朱深
副董事長 別所孝太郎
董事 方宗鰲, 祝書元, 劉玉書, 西村乙嗣,北浦豐男, 原田龍一
校長 殷同 ⇒ 劉玉書(兼)
校務長 國府種武[4]
学校職員 職員五名、教員八名、講師九名。
学生

(2)設置形態 【史料4】北京興亞高級中學校概況
(3)校舎など 1939年9月1日 和平門内絨線胡同45号中国留日同学会内に設置(仮校舎)
1940年7月20日 西城兵馬司38号、39号
(4)設備 1941年8月 理科室、標本室、機械室、工作室。
1941年12月 作法室、純粋な日本家屋。もともと女子学生が利用。男性も必要に応じ。また女子学生用の裁縫特別教室。
図書の蔵書。中国書1353冊、日本書2162冊。男女の閲覧日を分ける。
寄宿舎、60人。
(5)教科 男子:修身、国文、歴史地理、日本語、英語、数学、理科、日本事情、図画、作業、体操。予科32時間、本科35時間。うち日本語、予科は20時間、本科は12時間。
女子: 女子には上記と別に家事、裁縫、音楽などがある。その分理系科目が減少。
(6)教育方針 【史料4】北京興亞高級中學校概況
訓育之一般方針, 以養成將來學生留學回國後,為華北建設指導者的人物為主眼.
(7) 学費 20元、体育費2元、図書費2元。
(8)入学試験 毎年7月上旬に実施。試験科目(国文、日本語、数学、理科、史地)
身体検査(肺病患者は特に警戒)。口述試験、日本語会話、本人・家庭状況重視。
試験会場は北京、天津、青島、済南、保定、開封、太原の留日学生同学会にて。
(9)日本留学
第一期生 【史料5】興亜高級中学卒業生を外務省文化事業部補給生とする件
【表1】北京興亜高級中学校第一期卒業生名簿(1942年2月派遣)
第二期生 第一高等学校文科一名、理科一名/北海道帝国大学予科医類一名/東京工業大学附属予備門二名/東京商科大学商業専門部一名/三重高等農林学校農学科一名/盛岡高等農林学校農学科一名/仙台高等工業学校土木工学科二名/桐生高等工学校機械工学科一名/秋田鉱山専門学校冶金科/金沢医科大学附属臨時医学専門部一名/東京女子医学専門学校一名、同薬学科一名/日本女子大学家政学部二名
留学生の奨学金: 大東亜省奨学金55元、教育総署50元。一ヶ月で105元
戦時下での配給の対象にも(詳細は不明)
留学生をめぐる新規計画
自費留学生向けの特別別科を開設。七月と二月に開学、一ヶ月の授業。日本語と日本事情などを教授。
●年表
1939年3月 【留日学生同学会】留日学生同学会成立
⇒ 済南、太原、開封、青島、太原などにも同会成立
1939年9月 【北京興亜高級中学】1日、北京興亜高級中学成立、10月7日開学。
1940年6月 【留日学生同学会】済南、太原、開封、青島、太原などの各会が支部となる
1940年10月 【留日学生同学会】 天津、保定にも支部が成立
1941年8月 【北京興亜高級中学】新理化室完成、理化実験開始
1941年9月 【北京興亜高級中学】北京全市各中学日本語作文コンクールで最優秀賞
1941年12月 【北京興亜高級中学】作法室完成。日本式礼儀作法学習に。
1942年1月 【北京興亜高級中学】第一期学生卒業式(男子21名、女子3名)
1942年段階 【留日学生同学会】
会員数⇒597人(青島127人、保定46人、太原76人、開封43人など)[5]
日本への留学(大学)紹介、11件、政商学各界人士の日本への観光紹介6件
1942年2月 【北京興亜高級中学】第一期学生卒業生(男子21名、女子3名)日本へ留学
1943年1月 【留日学生同学会】
会員数⇒766人(天津116人、済南78人、青島136人、保定62人、太原104人、開封59人)
1943年1月 【北京興亜高級中学】第二期学生卒業生(男子13名、女子5名)卒業
1943年2月 【北京興亜高級中学】第二期学生卒業生(男子13名、女子5名)日本留学
1943年7月 【北京興亜高級中学】25日、第五期入学試験合格者発表56名。
4.内務省警察講習所への警察留学 【史料6】警察官の留学について
5.そのほかの留学関連
●その外の学校での日本留学の推進
「崇貞学園四女生 留学東京抱負不凡」(『新民報』1939年2月25日)
「覚生女子中学 組訪日旅行団 此行目的在接近日本文化」(『新民報』1939年3月21日)
⇒学生は50名、学校は私立。
「北京生活学校畢業優秀学生九月中旬赴日深造」(学生7名、『新民報』1939年8月28日)
●日本側の受入
早稲田大学、中国学科新設(『新民報』1938年2月13日)
●各大学の在華校友会の開設
「明治大学校友会 昨晩開成立会」(『新民報』1939年10月2日)⇒会員200名
おわりに
日本の敗戦/終戦では「終わらない」留日学生、留学生史
●中国留学日本同学会总会致毛泽东主席函」(1950年3.月25日)
(中華人民共和国外交部档案、105-00012-01)⇒中華人民共和国への忠誠
●关于美国扣留我国留学生的办法及主要事实(1950年11月2日-1952年7月2日)
(中華人民共和国外交部档案、110-00052-01(1))
●我已归国的留学生反映美国扣留留学生情况(1953年11月15日-1954年2月12日)
(欧美同学会抗议美国政府阻扰中国留学生回国,1953年11月5日)
(中華人民共和国外交部档案、110-00052-4(1))
【表1】北京興亜高級中学校第一期卒業生名簿(1942年2月派遣)[6]

【表2】留日学生同学会派遣(民国30年度)国立各校教職員赴日留学生名簿[7]

【表3】留日学生同学会、第六届理事・幹事・評議員・会務基金委員・事業資金委員[8]

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【史料1】留学生をめぐる状況
●「支那留学生の料簡」
白鳥庫吉 あれは日露戦争の時かな、支那人の留学生が日本に来たのは。
石田幹之助 日清戦争後ぼつぼつ来るやうになったでせうが、目だって多くなったのは日露戦争以後ではないかと思ひます。
竹田 復 さうですね、一高あたりに沢山来たのは。
白鳥庫吉 日露戦争以後支那の留学生が殖えて、それを相手に学校商売が始ったのですね。
石田幹之助 神田あたりに大分出来た、あれですね。
白鳥庫吉 学校商売で大に儲けようとした。さうするとそれを支那人が見透かしたのだね。だから仲々支那人が威張って、自分等が居なくなれば、日本の学校は立たないだらうといふのだ。大いに学校も優待して居た気味がある。それでは支那人を教育しようとしても駄目で、金を取る主義だといふことを見透かされては、支那人はその方は敏いからね(笑声)
石田幹之助 上は手ですからね。
白鳥庫吉 その時支那人が日本に留学してくる本音を聴いて見ると、日本に来るのは、何も日本の文化を慕って、日本の学術が優秀であるが為に来るのではない。日本人は我々よりは一歩先に西洋の学術を学んだ、それで西洋に行くには費用も掛る、日本に来るのは近いから費用も要らん、滞在費も廉く済むから、西洋の文物を学ぶ為に日本に来る。かういふ訳なんだ。その精神が今日に於ても残って居やせんかと思ふ。
小柳司気太 大に残って居ります。
市村瓉次郎 さうだらうね、どうも日本の固有の文化を慕って来るのではない。
小柳司気太 先般来た支那人の説を聴いて見ると、要するに今白鳥さんの仰しやる通りで、こっちに来て西洋科学なり、技術なりを練習して行けば、直ぐ自分の国が日本のやうに強くなる。かう思って居るから、私はそれは大なる誤った考である、固より日本は西洋の科学なり文化なりを採用して強くなったことは事実であるけれども、決して日本が強くなったのは、それだけで強くなったのではない。まだもっと外に原因があることを知らねばならん。それを忘れて唯西洋のものを真似しても、丁度昔からあなたの国がその流儀があって、実は西洋の文化を輸入することは、日本より支那の方が早い。にも拘らず何時まで経っても却って日本に後れをとるのは、どういふ所に原因があるか、そこを能くあなた方は研究しなければ、唯軍艦を備へた、いや速射砲を備へたからと云ふて、決してその国は強くならない、そこをあなた方お考にならんといかんと云ふたが、白鳥さんの云ふやうに、今でもその考が支那人の頭にこびりついて居る。
飯島忠夫 それは大変面白いお説ですね、それを支那人は考へてもどうにもすることが出来ない。
(「支那学者時局を憂ふ・座談会」、『文芸春秋』1939年1月号)
●「支那留学生の待遇」
赤松克麿(衆議院議員)
それに支那から来る留学生の扱ひ方をモット考へなければいかぬと熟々感じたのです。支那人に会って日本人の良い所を知って居る者は、日本で中産階級的な人と交際した者です。下宿にごろごろして居る連中は、下宿屋から馬鹿にされたりボラれたりして、ジメジメした気持ちで支那人同志で交際して居る。だから日本人の良い所を知らない。日本で好印象を受けない連中が排日になる。…それと反して上海から亜米利加へ留学した大学生は割合に亜米利加に対する印象が好いのです。ハーバードやエール大学の先生が上海に来た場合には、母校に対する非常な懐かしさを以て盛んな歓迎会をやるのです。日本留学生にはそんなことはない、日本の大学教授が行っても歓迎会をやりはしない。又同窓会などはありはしない。それを近頃のやうに抗日風潮の盛んな関係もあるでせうが、留学生の大半といふものは日本に対して好い思ひ出を持って居ないのです。
(「『見たままの支那』を語る座談会」『文芸春秋』1938年7月号))
【史料2】興亜院華北連絡部『北支に於ける文教の現状』
●(二)日本語教育
日本語の普及は言葉を通して我国に対する親和の情を醸成すると共に、日本精神及日本国情を支那人各界に理解認識せしめ、以て東亜新秩序建設に協力するの精神を培ひ、東方文化の発展振興に資する目的とし、日本語を東亜新秩序に必須なる言葉たらしむ如く普及する方針である。(1)学校に於ける日本語教育 学校に於ける日本語教育の徹底的実施は日本語普及の最捷経である。即ちこの具体的方法として イ.学校の種類、程度に応じ最も適切なる日本語教科書を華北政務委員会教育総署直轄編審会をして編纂せしめる。…ロ.優秀なる支那人日本語教員を多量に養成せしめると共に、努めて日本人教員を各級学校に配置する。…(2)一般民衆に対する日本語の促成普及 イ.日本語検定制度 現に公私立各機関、団体等に、服務してゐる者及公私立各機関、団体等に服務を志願する者の日本語文学習を奨励する目的で、日本語検定制度を設け毎年一回之が検定試験を実施することになり、その第一回を昭和十六年より実施した。…(3)其の他日本語教育 華北日本語普及協会 本会は華北に於ける日本語普及の中心的指導機関として中央日本語学院を経営し、華北日本語教育研究所を附設して中国人日本語教員の養成並に一般民主に対する日本語教育を行ひ、日本人日本語教員講習会、日本事情紹介講演会等を開催し、又日本語教授法其の他の日本語普及に必要なる事項の研究及其等に関する図書パンフレット等の発行を為しつつあり。
●支那側学校ニ派遣セラレタル日本人教員規範/服務上ノ諸注意
●北支文教指導要綱
第一 指導方針
従前ノ容共抗日教育ノ残滓ヲ芟除シ欧米依存ノ弊風ヲ徹底的ニ是正スルハ固ヨリ、東亜ノ新事態ヲ理解セシメ東亜各国共存ノ必然性及必要性ヲ確認セシムルト共ニ日本精神ヲ中枢トシテ東方固有ノ道徳ヲ顕揚実践セシメ依リテ以テ企図スル新秩序ガ支那及支那民衆ヲ匡救シ大東亜永遠ノ平和ト繁栄トヲ招来スル唯一ノ方途タルイコトヲ深ク体得自覚セシメ以テ東亜新秩序建設ノ根基ヲ啓培セントス
第二 指導要領 六 大学教育専科学校教育ハ其ノ重点ヲ民生向上ノ指導者企画者ノ養成ニ置キ日本人教員ハ常ニ自己ノ思想及学識ニ検討究鑽ヲ加へ学生生徒ヲシテ真ニ日本ノ学術及学者ニ対シテ信頼ノ念ヲ抱カシメ自ラ畏敬思慕ノ念ヲ起サシムルヲ以テ要諦トスルコト
八 中等以上ノ学校ニ在リテハ原則トシテ男女共学ハ之ヲ廃セシメ女子教育ニ当リテハ東洋伝統ノ婦徳ノ涵養ニ力シメ各級学校ヲ通ジ女子ノ天分ニ鑑ミ 良妻賢母タルノ資質ヲ啓培スルニ専念セシムルト共ニ特ニ思想指導ニ留意セシムルコト
九 日本語教育ニ当リテハ言語ヲ通ジテ我国ニ対スル親和ノ情ヲ醸成スルト共ニ日本精神及日本ノ国情ヲ理解認識セシメ以テ東亜新秩序建設ニ協力スルノ根基ヲ培ヒ東方文化ノ発展振興ニ資セシメ日本語ヲシテ東亜新秩序建設ニ必須ナル言語タラシムルコト
●華北各省市挙行ノ日本語文検定試験暫行辦法
第三条 検定試験ハ程度ノ高低ニ依リ初中高ノ三級ニ分ツ、検定標準左ノ如シ
一、初級 日常ノ挨拶用語ヲ談シ得ルト共ニ簡易ナル中日語ヲ翻訳シ得ル者
ニ、中級 普通語ヲ談シ、普通交際ノ通訳ニ堪ヘ簡易ナル中日語文ヲ簡潔正確ニ翻訳シ得ルト共ニ短篇日本文ヲ作リ得ル者
三、高級 第一、第二ノ両類ニ区分シ第一類ハ言語ニ重キヲ置キ第二類ハ文字ニ重キヲ置ク、其ノ検定標準左ノ如シ
第一類 自由ニ談話シ得長篇ノ講演通訳ニ堪ヘルト共ニ普通ノ中国文及日本文ヲ翻訳シ得原文ノ意義ヲ失ハサル者
第二類 中日長篇短篇論文ヲ簡潔正確ニ互訳シ得ルト共ニ長篇ノ日文ヲ作リ得且普通言語ヲ解スル者
第八条 検定試験合格者ハ省市教育庁局ニ於テ公布スル外各省市公署公報及華北政務委員会公報ニ夫々登載ス
(興亜院華北連絡部『北支に於ける文教の現状』1941年7月、興亜院華北連絡部、80−103頁)
【史料3】中国留日同学会の留学事業への関与
二, 曰事業 本會承各方捐助資金,以之興辦事業,本研究學術發揚文化之宗旨,依照計畫成案,次第實施,以切於實際,擇尤舉辦,故對於作育人才,介紹學術,及溝通中日兩國文化,無不努力進行,遂於民國額二十八年八月,首先創辦興亞高級中學校,培育優秀青年,準備赴日留學,成立之後,即招收男女學生,分班授課,所有教授方法,訓育方針,隨時研討改善,去秋擴充校務,慎重學歷,經請託華北各省市選拔學生,前後錄取三十二名,分別編級受業,同時並為推行全市中學生日語普及起見,懸獎徵集各中學日語作文,以資觀摩,頗著成績,第一期畢業學生,已於本年二月保送赴日留學,以宏造就,次為促進中日文化交流,經與華北教育總署商洽,由本會資助國立國立各校院教職員東渡留學,每年分為兩期,第一期自民國三十年九月至三十一年二月,由本會補助學費及旅費共計八千四百元,經教育總署選拔龔澤銑等十七名,於去年九月十日出國留學,此外舉行講演會,擬定每月一次,除本會會員外,其他各界人士亦參加聽講,再次如籌設圖書室,蒐集中外各種圖書,以備研究,出版刊物,交換學識,以及補助平民教育,提倡文化事業等項,亦為本會職責所在,將盡力之所及促其實現「本会会務事業進行之概況」(『中国留日同学会季刊』第一号、1942年9月、179-180頁)
【史料4】北京興亞高級中學校概況
<總括>本校為留日學生之預備教育而設, 修業年限係豫科半年,本科二年,初級中學校卒業者,即可入本校. 預科及本科所教學之課程標準,男子部依日本中學校第四五學年之課程標準進行, 女子部依高等女學校第四五學年之課程標準進行. 凡卒業學生全部俱有由教育總署選拔赴日留學之資格, 由教育總署之留學資金及大東亞省之補助費, 供給官費, 投考日本之高等學校, 大學預科及專門學校等.
<教育方針>教育方針以教育留日學生為目的, 並盡力教授日本語與自然科學.日本語預科一禮拜二十小時, 本科一禮拜十二小時. 預科施教辦法, 為由日本國民學校教科書, 以至中學教科書, 使能讀普通新聞雜誌, 或聽日本語講義, 能用日本語答卷之程度. 自然科學教授之方面, 從來中國教育是僅止於暗記教科書, 缺少實驗方面之遺憾, 故以教授實驗為主題, 使學生入日本學校後,對於學習方面減少困難. 對於理科之設備如前所述, 相當完備, 用如許標本,機械,器具使之觀察測驗與熟習機械之操作.至於數學教育, 從來中國普通學校之學生能自己苦心去解答問題者甚少, 全是被動之態度.本校以學生自解問題為課業,以自動學習為目的,並且入學後半年在入本科時, 所有之各科儘量使其對各學科皆能用日本語聽講.學校之教育全部以攝i日本語之程度為計畫者.
(国府種武「北京興亜高級中学校概況」(『中国留日同学会季刊』第三号、1943年3月、149頁)
●(三)中国人日本留学生
中国人の日本留学生は昭和十四年四月の調査に依れば約一万三千名であるが、此の中華北出身者の数は目調査下中で適確なる数字は得られないが単に出身省別に依る華北の数は大体に於て千数百名と推定せられるのである。事変発生以来華北に於ける日本留学熱の頓に高まりつつある実情は時局の進展に伴ふ反映であって日支文化提携上喜ばしい傾向である。昭和十四年三月の東京帝大始め各帝大、官立大学、私立大学及び官、公、私立各専門学校の卒業生は五一名であって同年の在学者は二三四名である。日本留学者の為予備教育をなす機関として北京興亜高級中学校がある。初級中学卒業者を収容し予科半年本科二年、日本語を多分に加味した高級中学の課程を履修せしめ、日本留学の準備教育を施している。
設立者:留日同学会/設立年月:昭和十四年九月一日/校長:殷同/所在地:北京市西城兵馬司胡同三八号/教職員数:教員二一名、職員五名/学生数 男五三名、女一五名/分科:予科、本科/卒業年限:予科半年、本科二年
(興亜院華北連絡部『北支に於ける文教の現状』1941年7月、興亜院華北連絡部、103−104頁)
【史料5】興亜高級中学卒業生を外務省文化事業部補給生とする件
●「中国留日同学会経営興亜高級中学校卒業生ヲ外務省文化事業部補給生ニ選定ノ件」
昭和十四年九月三十日小林記 渡邊嘱託 中国留日同学会経営興亜高級中学校卒業生ヲ外務省文化事業部補給生ニ選定ノ件
九月三十日興亜院林書記官、興亜院華北連絡部朝比奈書記官来訪後藤書記官並小林嘱託面接ス談話ノ要領左ノ通
記 一、中国留日同学会経営興亜高級中学校卒業生ヲ昭和十七年以降毎年約三十名宛本邦ニ留学セシメ高等学校、大学又ハ専門学校ニ入学セシメ度ニ付右学生ヲ外務省文化事業部学費補給生ニ採用セラレ度
右ニ関スル予算ハ別紙ノ通 右ニ対シ後藤書記官ハ承諾セリ 二、朝比奈書記官ヨリ中国ノ留学生中外務省文化事業部補給生ヲ採用スルニ当リテハ右高級中学校卒業生ノミヲ採用セラレ度シト話アリタリ
右ニ対シ小林嘱託ハ当文化事業部ノ補給生(支那学生)ハ中国政府ヨリ在支本邦公館ヲ経テ推薦アリタル者ニ限リ採用スルコトト致居ルニ付推薦方ヲ其ノ様取計ハレ度ト話置タリ 以上
(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:B05015477400、日本外務省保存記録B-H-05-02-00-01-01-00-02)
●昭和十四年九月十八日 在中華民国(北京)日本国大使館 参事官 堀内干城ヨリ外務大臣 阿部信行宛「興亜高級中学校卒業生ヲ抜選留学生トシテ採用方稟請ノ件」
今般中華民国臨時政府教育部総長湯爾和ヨリ爾今留日中国留学生ノ質的後退ニ顧ミ特ニ当地中国留日同学会ヲシテ留日学生ノ質的向上ヲ目標ニ興亜高級中学校ヲ設立セシメタル処右高級中学ハ修業年限ヲ二年六個月ト定メ華北各地高級中学卒業者中成績特ニ優秀ナル者ノ中ヨリ毎年三十五名詮衡ノ上入学セシメ入学ノ上ハ之レニ厳格ナル留学準備教育ヲ施シ卒業ト同時ニ本邦高等学校或ハ大学専門学校ニ入学セシムル予定ナルカ派遣学生数ハ就学期間中健康学業ノ不良或ハ其ノ他ノ事由ニヨリ落伍スルモノヲ考慮ニ入レ毎年三十名程度ニ減少スルモノト思考サレ実際本邦派遣員数ハ三十名以内ニ於テ派遣スルヲ原則トスルト同時ニ右派遣学生ハ華北各地高級中学卒業者中最優秀者ナルヲ以テ教育部ニ於テハ特ニ中華民国臨時政府教育部派遣選抜留学生トシテ之レヲ待遇スル事ニ決定スルヲ以テ外務省文化事業部ニ於テモ之レヲ選抜留学生トシテ採用ノ上右学生三十名ニ対シ学費支給斡旋方別紙訳文ノ通依頼越セルニ付右興亜中学校ノ目的ト特殊性ヲ御賢察ノ上華北五省ニ対スル選抜留学生割当総数七十五名ノ外更ニ右三十名ヲ興亜高級中学校ニ割当ラルル様致度右特別ノ御詮議相煩度此段稟請申進ス
(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:B05015477400、日本外務省保存記録B-H-05-02-00-01-01-00-02)
●昭和十五年五月十一日 興亜院総務長官 外務次官殿 興亜高級中学卒業生ヲ外務省選抜留学生トシテ採用方ノ件
…今般治安ノ回復ト同校ノ設備内容ノ充実ニ依リ本年度以降ニ於テハ男子三十名女子十名ノ合名四十名ノ卒業生ヲ出ス予定ノ下ニ募集人員ヲ増加致度同校卒業ノ上ハ右人員ヲ貴省選抜留学生トシテ御取計相成様特別ノ御詮議ヲ得度此際御依頼申達ス
●昭和十五年五月十三日起草 有田大臣ヨリ在北京藤井参事官宛 興亜高級中学卒業者ノ選抜留学生ニ採用方ノ件
…風評ニ依レバ仝校ハ支那人側ノ評判宜シカラス志願者モ少ク優良学生ハ入学志望セサル由聞キ込ミ居ル次第モアルニ付…
(アジア歴史資料センター・レファレンスコード:B05015477400、日本外務省保存記録B-H-05-02-00-01-01-00-02)
●学生選抜の状況
奴隷化教育を学校で順調に行うために、要求に合った教員の養成もした。一九三八年四月一日、新民会は北平に中央級に属する「中等教育教師講習館」を設立した。養成人員の多くは大学生で、毎期一〇〇人程の学生を募集した。養成期間は初めは三ヶ月で、学生はみな寄宿し、厳格な規則があった。また「奨学金」を設け、期間終了後、三分の二近い学生を選んで日本を「参観」「視察」させ、その後、この中から「優秀」者数人を選んで、官費で日本の東京高等師範学校で二年から三年学ばせた。学生が競って日本の忠実な奴隷になるように刺激したのであった。学生は卒業後、河北省、河南省、山東省等に割り振られて、県の中小学校校長になった。
(果勇「華北占領区の新民会」、北京市政協文史資料研究委員会編・大沼正博訳・小島晋治解説『北京日の丸−体験者が綴る占領下の人々』岩波書店、1991年所収、44頁)
【史料6】警察官の留学について
北京警察局の課員以上の中上層官吏は、「留日派」「東北派」「警高派」「元老派」に大別できる。この四派の消長が一九四一年大改組の主要な指標になった。それぞれについて述べてみよう。【留日派】一九三八年以来、華北治安総署警政局が毎年日本内務省警察講習所に送った留学生。北京警察局が採用する者は毎年六、七人いた。毎期東京の警察講習所で一年学習した。ここは日本警察の最高教育機関で、所長は内閣官房長官が兼任した。日本人学生の多くは警察署長級で、在職のまま訓練を受けていて、日本の法学と警察業務を系統的に学習した。留日学生は帰国後、ふつうものとの職場に戻り、局員、課員、監察員等の職について。彼らは正規の日本の警察教育を受け、日本語も話せたので、奴隷化の程度も深く、日本侵略者にとくに信任された。一九四一年の大改組で、「留日派」の大部分が係長、課長、分局長に昇進し、警務課長孫雲章、特務課長周福庭、内一分局長宋湯揚、内六分局長竇以鋳、監察室主任劉志揚等は、みな警察局の中核勢力になった。
(向風「占領下の北京警察局」、北京市政協文史資料研究委員会編・大沼正博訳・小島晋治解説『北京日の丸−体験者が綴る占領下の人々』岩波書店、1991年所収、20-22頁)
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【主要同時代史料】
〈一次史料〉 新民会関連档案(北京市档案館所蔵、新民会それじたいの档案は非公開、関連部局の档案で新民会と往復した文書など)
日本外務省保存記録、中華人民共和国外交部档案
〈公刊史料〉
北京市档案馆编《日伪北京新民会》(光明日报出版社,1989年)
南开大学历史学部/唐山市档案馆编《冀东日伪政权》(档案出版社,1992年)
天
「北平陸軍機関業務日誌−自昭和十二年七月八日至同年七月三十一日」(『太平洋戦争・四』、現代史資料38、みすず書房、1972年)
防衛庁防衛研究所戦史室編『北支の治安戦』(朝雲社、1971年)
〈新聞雑誌類〉
『新民報』(北海道大学総合図書館所蔵)
『新民週刊』(北海道大学総合図書館所蔵)
『中国留日同学会 季刊』(中国科学院文献情報資料中心所蔵)
『新民会年報』(1938年、富山大学経済学部資料室所蔵、旧高岡高商蔵書、⇒筆者未見)
〈留学生名簿など〉
『中華留日同學会同學録』(中華留日同学会、1941)
砂田実編『中華民國留日學生名簿』(日華學會、1940年、第14版=昭和15年度、第15版=昭和16年度、第17回)
〈そのほか公刊史料〉
興亜院華北連絡部『北支に於ける文教の現状』(1941年7月、興亜院華北連絡部)
興亜院華北連絡部文化局編『華北農村教育調査報告− 冀東農村地方の中等教育冀東冀南の農村初等教育』 (興亞院華北連絡部文化局、1940年)
駐華日本大使館文化課『北支に於ける文化の現状』 (在北京日本大使館文化課、1943年)
⇒上二点は佐藤尚子ほか編の中国近現代教育文献資料集の一部として日本図書センターから2005年10月に復刻)
成田貢『中華民国新民会大観』(公論社、1940年)
宋介「新民運動の理想」(『文芸春秋』1939年2月号)
朱泉「北京生活学校訪問記」(『文芸春秋』1938年9月号)
三好達治「満洲国留日学生会館訪問記」(『文芸春秋』1938年7月号)
「『見たままの支那』を語る座談会」(『文芸春秋』1938年7月号)
「支那学者時局を憂ふ・座談会」(『文芸春秋』1939年1月号)
「外地の日本語問題を語る」(『文芸春秋』1939年12月)
松岡孝児「北支民衆工作の基礎問題」(『文芸春秋』1939年9月号)
梨本祐介「中華新政権の歴史的使命」(『中央公論』1938年2月号)
「新支那の揺籃」(『写真週報』1938年7月号)
中谷武也「対支文化工作の諸問題−新民運動に尽す−」(『文芸春秋』1938年3月号)
小田嶽夫「北支新教科書」(『文芸春秋』1938年3月)
橋川時雄「日支文化工作の観点」(『中央公論』1939年11月)
【回想録】
那須清『北京同学会の回想』(不二出版、1995年)
鐘少華編著・泉敬史、謝志宇訳『あのころの日本−若き日の留学を語る』(日本僑報社、2003年)
中国人民政治协商会议北京市委员会文史资料研究会编《日伪统治下的北平》
(北京出版社,1987年)
北京市政協文史資料研究委員会編・大沼正博訳・小島晋治解説
『北京日の丸−体験者が綴る占領下の人々』(岩波書店、1991年)
北京市政协文史资料委员会编《日伪统治下的北京郊区》(北京出版社,1995年)
竹内好「北京日記」(1937年、『竹内好全集』15−16巻、筑摩書房、1981年に再録)
岡田春夫編『新民会外史−黄土に挺身した人達の歴史』(五陵出版社、1986年)
邢汉三《日伪统治河南见闻录》(河南大学出版社,1986年)
梨本祐平『中国のなかの日本人』
(初版、平凡社、1958年/第二版、同成社、1969年/第三版、同成社、1993年)
国府種武「北京興亜高級中学校の歴史」(『法政大学文学部紀要』14号、1968年)
【主要参考文献】
〈新民会関係〉
八巻佳子「中華民国新民会の成立と初期工作状況」(藤井昇三編『1930年代中国の研究』アジア経済研究所、1975年所収)
八巻佳子「華北における新民合作社運動」(『第三文明』1975年5月号)
王強「日中戦争期の華北新民会」(『現代社会文化研究』20号、2001年3月)
王強「日中戦争期における新民会の厚生活動をめぐって」
(『現代社会文化研究』25号、2002年11月)
堀井弘一郎「新民会と華北占領政策」〈上・中・下〉
(『中国研究月報』47巻1・2・3号、1993年1・2・3月)
云平〈日寇卵翼下的“新民会”及其活动〉(《党史研究资料》1981年3期)
曾业英〈略论日伪新民会〉(《近代史研究》67号,1991年1月)
唐志勇〈日伪“新民会”始末〉(《山东师大学报 社会科学版》1994年3期)
张洪祥/杨h〈抗战时期华北沦陷区的新民会〉(《史学月刊》1999年5月)
〈華北における日本語教育関連〉
石剛『日本の植民地言語政策研究』(明石書房、2005年)
川上尚恵「占領下の中国華北地方における日本語教員養成機関の役割--省・特別市立師範学校卒業者の進路と社会での日本語需要から」(『日本語教育』125号、2005年4月)
石田 寛「第二次世界大戦期北京における、人文・社会経済系高等教育及び日本語教育の展開過程--中目覺(院長・所長)を中心に(2)」(『福山大学人間文化学部紀要』5号、2005年3月)
川上尚恵「占領下の中国華北地方における日本語教育--日本人日本語教師と中国人日本語教師の連携をめぐって」(『言葉と文化』(5)号、2004年3月、名古屋大学大学院国際言語文化研究科日本言語文化専攻)
中村重穂「宣撫工作としての日本語教育に関する一考察--元宣撫官への書面調査から」(『日本語教育』120号、2004年1月)
中村重穂「(調査報告)大日本軍宣撫班と『日本語會話讀本』--日中15年戦争期華北に於ける日本語教育の一段面」(『日本語教育』115号、2002年10月)
深川治道「天理教の日本語教育史(5)華北の日本語学校について」(『天理大学おやさと研究所年報』9号、2002年、天理大学おやさと研究所編、天理大学おやさと研究所)
志賀幹郎「日中戦争時の北京における日本語授業研究--華北日本語教育研究所の活動」(『日本語教育』1995年3月号)
斎藤修一「北京大学所蔵「日本語教育史」関係書目(資料)」(『日本語と日本語教育』
15号、1986年、慶応義塾大学国際センタ-)
〈華北と「対日協力」〉
木山英雄『北京苦住庵記−日中戦争時代の周作人』(岩波書店、1978年)
木山英雄『周作人「対日協力」の顛末−補注『北京苦住庵記』ならびに後日編』(岩波書店、2004年)
小島晋治「支配と抵抗−日中戦争下の北京における」(北京市政協文史資料研究委員会編・大沼正博訳・小島晋治解説『北京日の丸−体験者が綴る占領下の人々』岩波書店、1991年所収)
〈留学生史全般〉
河路由佳他著『戦時体制下の農業教育と中国人留学生』(農林統計協会、2003年 )
大里浩秋・孫安石編『中国人日本留学史研究の現段階』(御茶の水書房, 2002年)
[1] 『中国留日同学会季刊』(第二号、1943年1月)
[2] 『中国留日同学会季刊』(第二号、1943年1月)、『中国留日同学会季刊』(第三号、1943年3月)
[3] 国府種武「北京興亜高級中学校概況」(『中国留日同学会季刊』第三号、1943年3月、149−154頁)
[4] 国府は、植民地における国語教育の泰斗として知られる。『台湾に於ける国語教育の展開』第一教育社、1931年)などがあり、台湾教育史では主要研究対象となっている。北京での活動については、石剛の研究などもあるが、国府種武「北京興亜高級中学校の歴史」(『法政大学文学部紀要』14号、1968年)がある。
[5] 「本会会務事業進行之概況」(『中国留日同学会季刊』第一号、1942年9月、179頁)
[6] 「北京興亜高級中学校第一期畢業生名録」(『中国留日同学会季刊』第一号、1942年9月、184−185頁)
[7] 「本会民国三十年度選派国立各校院教職員赴日留学姓名表」(『中国留日同学会季刊』第一号、1942年9月、186−187頁)
[8] 『中国留日学生同学会 季刊』(第四号、1943年6月、142頁)