共同研究:戦前期日中間における教科書問題の研究

中間報告会 2004年9月4日、中国研究所

 

「中日外交と教科書問題──満洲事変前後」

川島真 shin@juris.hokudai.ac.jp

 

はじめに

(国際連盟事務局東京支局編纂『国際連盟に於ける日支問題議事録 後編』(国際連盟記録刊行会、1933年)

●1932年10月 国際連盟における議論

   [Wellington KOO演説]

     支那の国民主義は急速に進展を見せつつあるがその根底に排外思想はない。(34頁)

   [松岡代表の反論]

     排外思想は支那に厳存する。・・・リットン報告にもある通り長年に亘って排外教育がおこなわれているが、その結果は如何なるものとなるだろうか。(40頁)

   [顧の反論]

     国民主義運動について松岡氏は排外教育の結果の恐る可き所以を弁弁と述べられたが、かかかるものなきことは既述の通りである。(44頁)

[中国側意見書]

中国側「国権回復の運動はこれを日本の経過と比較すれば抑制と中庸とでおこなわれていることは事実である。19世紀中葉の徳川幕府の条約締結はその結果として種々の終結の惨事を演出した。治外法権撤廃に関する交渉は一般の不満を買い在留外人に対する暴行となった。大隈侯はその為一足を失った程である。日本の学校に用いる教科書にも外国との関係についてこの国の苦心経験を少年に始終想起せしめる目的を以て挿入された文章が多数ある。小学日本歴史第二巻第二課、小学国史第47課、中等学校歴史(三省堂発行)第32章、第34章皆これである。リットン委員会の報告に「近代支那の国民主義は支那が今や通貨しつつあるような政治的過渡期に伴う通常の現象である。これと同様な国民的感情及び要望は同じ状態に置かれてある凡ての国について見られる処である」と述べているのは正しい。誠に不思議なことは、日本はその同じ経験に鑑み支那に対して同情するかわりに、支那国民の正当の要望を誤解し、その実現に反対している第一の国であるということである。(68頁)

 

★岸井壽郎『聯盟を脱退すべし』(浅野書店、1932年6月)

われわれは支那と連盟との関係が近年に至って急速に親密となり連盟は恰も幼児の保母の如き気分を以って支那に臨んできたい事を中止しなければならぬ。・・・兎に角連盟における支那は従来の除外せられ疎んぜられた支那ではなくして連盟が哺育せんと袖の中に包み込んだ支那となったのである。今後支那は真の連盟国となるであろう、そして日本と肩をならべて連盟に行動することは幾多の面倒な問題を日支間に生む可能性が十分である」(86−87頁)

 

1.              日中間の教科書問題(1910年代)

 (1)1914年 日本の在華公使館から教育部への抗議(1914年9月26日)

    『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』(1914年9月13日)

「支那政府に厳談せよ−排日文字に満てる支那教科書の絶滅を期せよ」

 →邵伯棠『高等小学校論説文範』を批判。

例として「日人の朝鮮を併呑する野心の勃々たるを怒りて之を創らんと思ふ」

    湯化龍は、「これは審定を受けていない」として反論、またこれが世論の代表でもなく、出版の自由を認めている以上、取り締まれないとする。さらには日本にも同様に過激な言論がある事を指摘。(『教育雑誌』6巻8号)。

    1914年10月2日 大総統命令 「友邦排斥」取締りに(同上史料) 

 (2)1919年 『国民学校用新式国文教科書』の記載について日本側が抗議 

   教育部から上海交渉員経由で中華書局に連絡。中華書局側はこれに反発。

   「国恥」は事実。

  (実際には、これ以外の教科書も同様の方向性を出していた。)

 

2.日中間の教科書問題(1920年代末から1930年代初頭)  

 国民政府は愛国教育重視。「国恥」の強調。

 「排日運動」「排日宣伝」の中に位置づけられた「排日教育」。1923年までの「排日」ではそこまで大きく扱われず。田中外交になってから、日本側が重視。

 1932年1月21日 国際連盟調査委員会 → 日本側も排日教育調査に乗り出す

1932年1月28日 上海事変 → 排日基地「上海商務印書館」攻撃

 1932年6月25日 国際連盟調査委員会で顧代表が排日教育について照会

(1)                      国権回収のときの一般的方法

(2)                      過激な内容はあるので、友好親善的な観点にたって修正をくわえる

(3)                      だが同時に日本におけるそれについても修正を求める

 →日本の国際連盟脱退で曖昧に。 

 →満洲国、日本占領区でも「排日」教育の取り締まり。満洲国では国民政府に許可された教科書の当該部分は墨塗り。

戦後中華民国、中華人民共和国では、友好親善部分も含めつつ、原則として排日教育は継承。

戦後日本では、そうした露骨な反中、中国蔑視的既述も削除されるが、中国側の既述にあわせるかたちにはしていない。

 

●問題提起

 1.両国が近代化過程において創造してきた「歴史的な記憶」の衝突。日中間で、日本は中国を、中国は日本を内的なコンテキストに深く位置づけていた。日本の記憶創造には中国が必要、中国の歴史創造には日本が必要。東アジア的な歴史創造の問題性。

 2.日本からの影響を強く受けた教科書から、排日教科書へ。1910−20年代における欧米の文化事業の影響。もちろん、日本の侵略。

 3.政策レヴェルでは、(特にこの教科書問題については)日本側が相手側に抗議した内容をそのまま中国側が日本に抗議するという中で議論が形成。

 4.文化と政治の接近性。文化政策が大きな意味をもった1920−30年代。それは、中国政府も外国政府も、「ナショナリズム」を重視したということ。中国の民衆にいかに関わるか、そこにいかに食い込むかが問題。「文化の時代」ではあるが、それは政治的動員、対外思想、ナショナリズム、ひいては経済活動に密接に関わる。「国民」の領域に関わるものとして文化が意識される。そうした意味で「教育」が注目され、教科書が重要に。

 5.他方、この国際連盟での議論において、田中上奏文はじめ、明治以来の60年間の日中関係史についての包括的な討論。リットン報告書については包括的な検討が必要なのでは。戦後の東京裁判との関連なども。