日露戦争100周年記念シンポジウム「20世紀東アジア世界と日露戦争」
分科会C東アジア国際政治から見た日露戦争(9月25日)
日露戦争と中国外交
川島 真(北海道大学大学院助教授)
shin@juris.hokudai.ac.jp
報告者は、表記のテーマについて、(1)日露戦争に対する中国の「中立」外交、(2)また日露戦争の勝利が中国に対してもたらした影響をめぐる議論の二点について、それぞれ「日露戦争と中国の中立問題」(軍事史学会編『日露戦争(一)国際的文脈』錦正社、2004年12月、P.79−96)、「『日露戦争と中国』をめぐる議論の変容」(日露戦争研究会編『日露戦争研究の新視点』、成文社、2005年、P.260-277)を公刊してきた。本報告では、これらの成果を踏まえつつ、日露戦争と中国、日露戦争に対する清の中立政策について、主に外交面から論じていきたい。
だが、こうした「清の中立」を紐解く先行研究は決して多くない。M.Huntの研究も、中国の対日路戦争政策を詳らかにしているわけではない。中国では、日露戦争関連の研究が、決して多くなく、その位置づけも微妙なところがある。日本の勝利が「立憲の専制に対する勝利」であったとされ、立憲運動や民族運動に影響を与えたとされることが多いが、実際にそれを示す史料は(とくに民族運動や革命運動において)限定され、言説化された「アジア民族運動」と日露戦争の関連は再考を迫られている。また、清の発祥地である東北部の地域が戦場となったことが、どの程度清の威信の失墜につながかったのかという問題も残されている。こうした多くの問題があるだけに、まずは、外交過程、政治過程として日露戦争と中国の関係を扱うことが必要になると報告者は考えている。
日露戦争に対する清の「局外中立」については、無論、実際に中立であったか否か、国際法上の中立を履行できたのか、そもそも国土を戦場にされて「中立」がありえるのか、などといった問題はあるも。だが、清には相応の思惑もあって「中立」政策をとった。第一に、清は中国の領土保全を第一に考えた上で、当時の東北部から撤兵しないロシアの撤兵を望んでいた。そうした点において、日本に対する好意的中立をおこなう可能性があった。第二に、戦後開かれる和平会議に参加するなどして、東北部における権益を回収することを模索するなど、日露戦争を利用した国権回収を模索していた。第三に、国際法の面において、1899年に開催されたハーグ平和条約における「国際紛争に関する平和的処理に関する条約」(清は調印したが義和団の混乱により批准していなかった)に急ぎ批准し、ハーグ条約加盟国として「中立」を保とうとした。
この三点について、従来は第一の点が指摘されてきたものの、第二、第三の点などを包括的に研究したものは多くない。報告ではいくつかの観点から検証を進めていく。
1.中立政策の形成過程
日露戦争前に直隷総督であった袁世凱は、清の「局外中立」について以下の有名な言葉を残している。これは当時両江総督であった張之洞の「俄日有役,我局中固難,局外似亦不妥(「日本とロシアの間に戦端が開かれた場合、中国がその局中にあるのは難しいが、かといって局外にあるのもまた適当とは言えない」)というコメントに対するものである。
附俄則日以海軍擾我東南,附日則俄分陸軍擾我西北(ロシアに味方すれば日本海軍が南を脅かすだろうし、日本につけばロシア陸軍が我々の西北を狙うだろう)。(「直督袁世凱致外部日俄開杖我応守局外祈核示電」(光緒廿九年十一月初九日、『清季外交史料』一七九巻、第四葉)
旗幟を明確にすることの問題性を指摘しているのである。清の局外中立政策が固まるまでには様々な議論が展開されていたが、そこでは戦争を清に有利になるよう利用するという点は基本的に共通していた。両江総督張之洞は、戦中は中立し、戦後には日本と協力して主権回収を有利に運ぼうと考えた。他方、在外の出使大臣(公使)たちは、戦争中、列強が中国に何もできないでいるうちに、「変法」を急ぐべきだと主張していた。彼らは、戦争の長期化を望んでいた。
清がいつ、どのように「中立」を決定したのか、という大きな問題ついては、M.Huntが以下のような見解を提起している。(1)袁世凱と張之洞が1903年11月2日に召見され、東三省問題について議論(中立決定については不明)、(2)以後二ヶ月の間、袁世凱はイギリス駐華公使であるアーネスト・サトー(Sir
Earnest Satow)との間で、清が輸送や食糧などの兵站面で日本を支援すべきかどうかについて相談、結局、袁は日本の東北に対する野心の程度を計りかね、日本支援政策を見合わせたとする。Huntは、光緒二十九年九月十四日(1903年11月2日)の召見について『張文襄公年譜』に根拠し、これ以外の根拠を挙げていない。この召見が持つ意味、また政策決定過程は明確でないが、同月末の12月11日には胡惟徳が中立を提起していることなどを考慮すれば、11月中に政策が決定していたかどうかは判断できず、およそ1904年11月から12月上旬には中立という大勢が形成されてきたと見ることができよう。光緒二十九年十一月十一日、胡の上奏がおこなわれた十九日後に、袁世凱が外務部に対して「局外(中立)」を促す電報を送り、清は1904年2月12日に「中立宣言」を発した。
2.日露戦争と国際政治
清の「局外中立」は、清のコンテキストから見れば、主権回収、対露不信、対日警戒、国際法の利用、戦後への期待などといった面から理解できる。他方、国際政治的史に見れば、義和団事件後の中国をめぐる国際環境は、基本的に「中国保全論」へと転換しており、それを背景としてこの戦争と清の中立政策があったと考えるべきである。義和団事件当時の米国の諸国への通牒、すなわち「中国の領土および行政上の完全な統一の保全(preserve Chinese territorial and administrative entity)」に由来する保全論は、辛丑和約、英清マッケイ条約などで確認されたと考えていいだろう。光緒新政下の外務部、特にその首班である慶親王らは、この保全論の主唱者であるアメリカとの関係を重視していたとされ(ただし那桐などはロシアよりとされていた)、日本もこの慶親王と直隷総督袁世凱と盛んに連絡をとっていた。
この日露戦争は、中国から見れば東北利権は日露だけの問題ではなく、この地域の門戸開放をめぐる交渉をアメリカなど各国とおこなっていたのである。アメリカは、東三省の幾つかの都市の「開港」を含む「米中通商関係拡張に関する条約」(中美議定通商行船条約)の締結を望んだ。だが、外務部の首班であった慶親王はこのアメリカとの通商条約とロシアの東三省占領を結び付けようとした。Conger公使は慶親王との会談結果について、「親王は、東北をロシアから回復することこそ、中国にとっては決定的に重要なことであり、これを妨げる可能性のあるあらゆることをする余裕が無いと述べた」と報告していた(FRUS,1903,P.66)。慶親王は、アメリカとの条約締結について、ロシアの撤退を条件とし、中露間の取り決めにおける最終期限である1903年10月8日まで条約の調印を見合わせるという意向を示していたのである(FRUS,1903,P.73)。そして最終的に、ロシアの占領が続く中で、光緒二十九年八月十六日(1903年10月8日)中美議定通商行船条約が締結され、た。この交渉過程を通じて清がアメリカに送ったメッセージは、ロシアの東三省占領がなくならねば門戸開放はできないということであった。また、この条約の交渉過程は、まさにアメリカがロシアへの宥和路線を転換する過程でもあった。
3.複数の「中立地」/「戦地」解釈
前述のとおり、清の中立は1903年12月上旬にはほぼ決まっていたと思われるが、その中立の実現のためには、列強の在華軍隊の意向が重要であった。フランス公使は、義和団事件以後列強が駐兵している「直隷省」の戦争への中立を、英仏独伊公使に提案した。イギリスはこれに賛成した(孫瑞芹訳『徳国外交文件 有関中国交渉史料』商務印書館、1960年)。だが、中国の一部だけを中立にしては、中国の保全は成り立たないし、またどこの勢力圏として設定されていない共同管理地である直隷省だけを中立にすれば、結局各「勢力範囲」を列強が守備するため、勢力範囲の固定化に繋がるので、アメリカの「中国保全・門戸開放」政策と逆行すると意識された。他方、この「直隷中立」については、清王朝の中立という意味や、戦闘地域を「満洲」限定するという意味合いが含まれていたので議論はいささか複雑になった。清は主権が東北におよぶことを主張するため清全体での「中立」を考え、列強間では「満洲」を中立地から除く方向で調整がおこなわれた。清が中立宣言をする前日、小村寿太郎外務大臣は北京の内田康哉公使に対して、中立の範囲からロシア軍占領区域を除外するように慶親王に求めるよう告げた。小村は、慶親王にその旨を伝え、「本官ハ慶親王ニ会見シ協議ノ末該通牒ニハ『清国ハ其領域ノ何レノ部分ニ於テモ中立ヲ守ルベシ。惟満洲ノ地ハ尚外国兵隊ノ駐剳スルアリ。未タ撤退ヲ経サル地方ハ清国ノ力未タ逮ハサルモノアリ。恐ラクハ局外中立ノ例ヲ実行シ難カラン』ト記セシメタリ」と述べた(外務省編纂『日本外交文書』第三七巻・第三八巻・別巻、〈日露戦争〉)。
日本側の理解では、清はこれに同意しているとのことであったが、これについての諸国間の合意は清の中立宣言後も形成されていなかった。2月10日、アメリカはロシアをはじめ各国に対して、「両交戦国ニ於テ清国ノ中立並ニ出来得ル限リハ同国行政ノ保全ヲ尊重シ、且交戦地域ヲ可成局限シ、以テ清国人民ノ猥リニ同様擾乱スルヲ防遏シ、兼テ世界ノ商業及交通上ノ損害ヲ可成最低度ニ止メシメンコトヲ切望スル」との要請を発し(FRUS, 1904,P.420)、24日には東京のドイツ公使から「独逸政府ハ両交戦国ニ於テ戦争ノ当初ヨリ交戦地域(之ヲ地理的ニ例ヘハ満洲ニ限ルト明定シ)以外ノ清国領土ハ之ヲ中立ト認メ且ツ今後戦争中之ヲ中立地トシテ取扱フベキコトヲ承諾スルトキハ前項ノ目的ヲ達シ得ヘシト思考ス」というアメリカ案をうけての提案があり、日本政府としては、ドイツに同調する回答を用意していた(外務省編纂『日本外交文書』第三七巻・第三八巻・別巻、〈日露戦争〉)。これに対してロシアは、清が少しでも日本側を支持したら、清の中立を尊重できないとしていた。
他方、中国側は、(1)北清における日本軍は他の列強の軍隊と同様に1901年の議定書に基づいて駐兵しているのであり、今回の戦争には関係しないこと(そうしないとロシア軍が長城を超えて侵入する可能性がある)、(2)日本軍は東三省における宮殿、官庁、および財産を尊重すること(宮殿、墓などは清国軍が守備)、(3)各省、蒙古、および外藩には日本の軍隊を派遣しない、(4)終戦後土地を占領しないこと、などを求めた(外務省編纂『日本外交文書』第三七巻・第三八巻・別巻、〈日露戦争〉)。日本側は原則としてこの要求をのみ、(4)についても領土獲得の意思はないという表現で対応、2月19日には『官報』に「日露開戦ニ伴フ清国ノ地位ニ関スル外交顛末公表ノ件」を発表した。
戦闘区域の限定に就いて、英露間などで東北よりもいっそう限定された戦闘地域を設定するための交渉がもたれたが、「満洲」という戦闘地区設定が漠然としていたことが影響した。袁世凱は、遼河以西を「中立地」と見なし、兵を錦州(盛京省)に派遣したが、ロシアが遼西を中立地とすることに同意しなかったので(日本側は同意)、兵を永平(直隷省)に留めたと『日本外交文書』にある。実際、ロシア駐在の胡惟徳からも、ロシアとして遼西を中立地とすることはできないという電報があった(『清季外交史料』一八二巻、四−五葉)。外務部は、「遼西は、先の協定によってロシアが撤兵すべき地域に属しているのであるから当然局外中立の対象地域となる」と述べている。ロシアは、条件付でアメリカの提案に同意していた。そこでは東北を中立範囲内には含めないとされていた(FRUS, 1904,P.724)。だが、この点は清側と合意されていたわけではない。
清の中立は、実際には列強による「中立支持」があったはじめて可能となった面があり、その「中立」の「解釈(権)」も多様に存在した。清側は主権が東北に及ぶこと(領土の明確化)を示すために全国の中立を宣言し、他方で列強間ではアメリカの主導もあって東北を戦闘地、それ以外の地の中立として調整が進められたが、それは不十分なままとなった。これは清の「中立」の効力それじたいについての了解が多様であったことを示している。
4.「友好的中立」か「厳正中立」か−清の中立への評価
2003年に開催されたある国際会議で、ロシアの研究者が中国と日露戦争の問題について論じていた。そこでは、実際には、ロシアは日清二国と戦ったようなものである、と主張されていた。ロシア側の理解では、明らかに清は日本に有利に行動したと映るようである。この点について、報告者は理解可能な部分もあるが、やはりそう断じるのには躊躇がある。
当時のロシアも、戦争開始直後から清が日本を支援しているのではないかと考えていた。またそもそも清自身が東北も含めて「中立」対象としたことは、すでに当該地域を占領しているロシアにとっても不利なことであった。他方、同じ中立であるにしても、「友好的中立(benevolent neutrality)」なのか、「厳正中立(strict neutrality)」なのかという問題があり、日露戦争についてはアメリカが前者、イギリスが後者であったとされる(崔文衡『日露戦争の世界史』藤原書店、2004年)。
清は、「直隷および各省の将軍、総督、巡撫らは、状況に応じて、国際公法を斟酌して、対応すること」といった文面を対内的に発布し、国際法に基づいた「厳正中立」であることを強調していた。東北部の地方官らはこの「中立条規」を管轄区域内で掲示した(遼寧省档案館電『日俄戦争档案史料』)。しかし、東北を既に占領し、軍馬の移動にも現地の労働力や物資を利用するロシアにとってこの条規は受け入れ難かった。特に馬の調達、輸送面で問題が頻発、清の官憲は「条規」に基づいて、宿泊・食事などについても、ロシア軍側に便宜をはからなかった。これは「満洲を中立地から除外する」ことを条件にアメリカの提案を受け入れたロシアには耐え難いものであったろうが、清は東北も中立地に含んでいた。
ロシアから見れば、清の中立は既存の在満権益をより縮小させるものであった。
結果的に、ロシアは清側を無視して、労働者や軍隊を支える中国「民人」を雇用し始め、一方で清の官憲が日本と通じているのではないかと疑った。中国はそれを否定し、「厳正中立」を強調したが、こうした猜疑は日清間にも多く見られた。
確かに、日露戦争三十周年の坂西利八郎の発言に見られるように、日本側でも「支那は善意の中立をやってくれました」とする記憶がある(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社『参戦二十将星 日露大戦を語る』東京日日新聞社、大阪毎日新聞社、1935年)。これはロシアの認識、記憶と一致する。確かに、中立は日本の望んだところであった。
また戦争が開始されてから中国の地方大官から日本への献金が相次いでいた(直隷総督袁世凱から上海銀二万両→官報には直隷省有志と記す)。日本が盛京省を占領してからの増祺から趙爾巽への盛京将軍人事についても、日本の意向に沿うかたちで進められた。そして戦後、日本から袁世凱らを含む数多くの中国官憲に「勲章」が贈られたている。袁世凱に送られた言葉は、「終始本邦ニ同情ヲ傾ケ」であった。
だが、日本側の史料が戦争中の露清間のやりとりを語ることはない。清側の史料では、戦争が開始されたあと、露清密約が議論されたことは無いものの、他方で清がロシアからある種の便宜をはかられることがあった。たとえば、1907年に開催される予定の第二回ハーグ平和会議の招待状を議長予定国のロシアから清は受け取った。他方で、清はオランダと交渉し、1899年の第一回ハーグ平和会議後に批准できずにいた「国際紛争平和的処理条約」そのほかについて、オランダに寄託するかたちで批准した(1904年11月21日)。これについてロシアの胡維徳公使は、ロシアからの特別なはからいがあったことを指摘している。このハーグ会議に関する露清間のやりとりなどは、清が日露双方から自らに有利になる条件を引き出そうとしていた可能性を示すものとして興味深い。今後はこうした点を踏まえて、総合的に評価していくことが必要となろう。
おわりに
戦争は膠着状態になり、1905年9月5日にアメリカの斡旋でポーツマス条約が締結された。ここでは、第三条で東三省に対する中国の主権が確認された。また第五条、第六条で日本の「南満洲」でのロシア諸利権の継承が定められたが、「中国政府の承諾」が条件となった。平川幸子「ポーツマス講和会議・幻の清国使節団」(軍事史学会編『日露戦争(一)国際的文脈』錦正社、2004年12月、P.79−96)が明らかにしたように、清の「戦後おこなわれる講和会議への参与と東北利権回収」について、会議への参与は「幻」となった。
これをどのように見るべきであろうか。Huntは、「中国の用心深い、講和に向けてのwait-and-seeという態度は、ルーズベルトにとっては目障りな誤った行為と思われた。彼は耐えられなかったのである」と述べている(Michael
H. Hunt, Frontier Defense and the Open
Door: Manchuria in Chinese-American Relations,1895-1911,Yale University
Press,1973.)。しかし、ポーツマス条約で東北に対する中国の主権が確認されたことは、東北を戦闘地として切り離さずに、東北を含めた中国全体を中立地とした清の主張が通ったものとも理解できよう。
坂野正高は、「この戦争においてどちらかが決定的な勝利をおさめたらば、東三省はその国の領土となったであろう」と述べていることを指摘しておきたい(坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、一九七三年、四八八頁)。(了)