18/MAY/2003
宮崎県飫肥での日露戦争研究会−「日露戦争と中国」−
川島 真
日露戦争研究会の研究集会のため、宮崎県の飫肥に行った。札幌からだと、東京経由で乗り継ぎ、宮崎空港からさらにバスで一時間半以上かかる。なぜ飫肥なのかというと、日露戦争前後の外交で活躍した小村寿太郎の出身地だからである。今回の小旅行も、前回の熊本旅行と並んでたいへん印象的であった。そういえば、藩主の伊東氏の祖にあたる工藤(伊東)祐経のあだ討ちの話を子供のころ伊豆にいったときに父親から聞いたことがあった(この話自体も戦前の教科書にのっていた話である)。
飫肥は現在、人口4万5千強の小都市である(日南市)。特産品は飫肥杉、そしてマグロ、カツオなどの海産物である。昭和三十年代まで、杉、漁業、建設業で好況を呈していたが、木材市場の対外開放と200海里問題の中で、次第にその地位を失い、かつては長者番付上位を占めた飫肥の山林長者たちも番付から姿を消していったという(一部は転業して地位を保持)。飫肥杉は現在でも多く見売られる。高温多湿の環境で育ったので、木目が細かくなく(したがって軽い)、しなりがいいので、船材として重用されたというのである。そしてマグロにいたっては、昭和三十年代までマグロの年間漁獲高が日本一になる年もあったという。日本が保護主義の看板をおろしていくのにつれて、飫肥経済は転落していく。一次産品に頼っている地方都市経済の典型例とも言える。だが、いまは飫肥杉を中国に売り込むべく販路開拓に努めているという。「中国は木が無いですからね」というのが地元の人のコメントだった。興味深かったのは、昨年東シナ海で「撃沈」された「北」の船が実はこの地域の港を拠点にしていたということである。「日本海側」ではないところが盲点だったのかもしれない。
さて小村寿太郎だが、地元の方々は市長含めて「小村侯」と称する、地元の英雄である。小村についてはさまざまな話があるが、松村正義先生(日露戦争研究会代表)の「日露戦争における限定(限局)戦争という発想は、大藩島津藩と長年にわたって抗争を繰り広げてきた飫肥に育った小村だからこそ考え付いたこと」という指摘は興味深かった。この限定戦争については、清も「戦場範囲設定」交渉でかかわりを持っている。こうした「限定戦争」を清はどのように理解したのか、この点、あらたな課題になる。また、東北大学の鈴木俊夫教授による日露戦争当時の日本政府の外債に関する御報告では、東アジアの「外債マーケット」と香港上海銀行の役割についてあらためて考えさせられた。
しかし、それにしても「日露戦争と中国」という課題は実に微妙な問題である。中国では、確かに教科書問題で日本側に日露戦争に関する記述の改正をもとめたということはあっても、日露戦争をきちんと研究している研究者は決して多くないのである。いや、ほとんどいないと言ってもいいかもしれない。日本とロシアが中国で戦争したということをいかに中国史の中に落とすのかは相当微妙な問題だからであろうか。一般的には、日露戦争の結果が、立憲の強権に対する勝利と認識されて立憲運動に拍車をかけたとする理解や、日露戦争前後のさまざまな運動、たとえば天津などでの排米運動がトピックとしてとりあげられ、日露戦争それじたいとのかかわりを論じる研究は多くないのだ。
これまでの日露戦争研究史の側が中国をとりあげることはあまり多くなかった。とりあげるにしても「戦場」としてであったり、またあるいはその結果をポジティブに捉える思想家や政治家の観点が紹介されるに過ぎなかった。当然のことながら、「日露戦争」を語る歴史的なディスコースは当事者である日露両国によってつくられてきている。文書史料も両国に多く、「実証的に」研究すれば当然日露両国の視点が反映され、「中国」はその枠の中に「押し込められ」ることになる。中国が日露戦争にいかにかかわったのかということについては、日露の行為に対する反応として出てくるのであって、中国自体の問題として論題を立てるということはなされてこなかったと言っていいだろう。
こうした状況は、ある意味でいたし方ないのかもしれないのであるが、筆者は2003年1月に北大スラブ研究センターであったシンポジウムで、やはり中国が何を考えていてどのように日露戦争に向き合ったのかということを、政府レベルだけでもいいからきちんと跡付ける必要があることを痛感した。このように考えるのに至った一つの背景は筆者が報告したセッションの討論にあった。ここでロシア研究者など外国の研究者が、「中国は日本を支持したのであって、その中立という立場は名目に過ぎない」といったことを述べていたことである。Michael Hunt以来のこのディスコースは、日清連携論として相当の信憑性を有しているようであった。確かに袁世凱らが実質的に日本よりであったということはあるかもしれないが、連携論を主張する研究者が根拠としている事例にはあやまりがあったり、港湾における日本軍艦の修繕などについては同様の事例がロシア軍艦に見られるなど、史料解釈のバランスにかける面があるのである。筆者は、こうした「学説」に接し、可能な範囲で反論したが、まだ不十分であったように思う。そこで、中国や台湾の研究者で日露戦争を正面から研究する人が居ない状況であるのにも鑑み、「日露戦争と中国」というテーマに少し取り組んでみようという意欲がわいたのであった。
だが、日露戦争に際しての日清提携論は何も外国人研究者がつくった言説というわけでは必ずしも無い。実は当時の日本のマスコミにもそうした論調はあった。では、それはどこから出てきて、中国の新聞雑誌ではどのような議論があったのか。政治外交の過程だけでなく、こうした言説形成の研究も必要であると感じている。もちろん、「日露戦争と中国」というテーマには、上記のような日本の外債と欧米系銀行の問題(そして華僑や在華資本の動き)、戦場付近の状況、日本の占領統治、戦争前後での東アジア規模での物流・経済関係の変容、そして排米運動や立憲運動との関係、清朝の東北統治体制との関わりなど、具体的テーマは複数ある。だが、筆者としてはまず上記の「中立」をめぐる政治外交と言説形成について、まずはまとめていきたいと感じるようになった。
こうした背景で日露戦争研究会に参加するようになり、その会合のために飫肥にまで出かけていくことになり、飫肥というところのもつ魅力に接することができたのである。
ところで、日露戦争と北海道というテーマであれば、どのような問題がたてられるのであろうか。漁業権にしても、樺太にしても、戦果の多くは北海道と大きな関係をもっていた。北海道は戦争に何を期待したのか。地方自治体の史書などを見ながら少しずつ考えていきたい。
…だが、それにしても飫肥のマグロ、特に赤身は美味しかった。近海物なのだろうが、冷凍マグロに特徴的なツンと鼻をつく匂いがなく、舌触りも最高であった。また研究会幹事の稲葉千晴先生推薦の「ひらめ」も堪能できた。今回はあまりに駆け足だったので、次回はゆっくりとパソコンをもたずに旅行したいものである。(了)