17/Dec/02
プサンでの「20世紀初上海與近代性」国際シンポジウム参加記
川島 真
2002年12月17日から19日にかけてプサンで20世紀初めの上海と近代性に関する国際シンポが開かれた。主催は新羅大学。ソウルからアシアナ航空で一時間。プサン空港に着く。プサンは人口400万。横浜クラスではあるが、山と海が接近しているこのプサンのほうが密集感がある。この韓国第二の都市プサンは、韓国の南の玄関であるだけでなく、リゾートでもある。夏場には2000万人が来るのだなどという話を聞いたが、人口5000万人の韓国でそれはあまりに誇張された表現のように思える。
新羅大学はもともと女子師範大学ですばらしい眺望をもつ大学である。ここの史学科に韓国を代表する中国近代史研究者である裴京漢教授がいらっしゃり、彼の招きでこのシンポに参加することになった。議論は、およそ上海の近代性を「租界の近代性」とは異なるコンテキストで論じる方向性が強かった。内在的発展論なのか、それぞれの近代なのかとも感じたが、韓国でのこの手の議論の背景には韓国自身の「植民地近代論」があるので、問題設定それじたいが複雑である。他方、「上海」それじたいのもつ意味も話題になった。なぜ上海なのか、ということである。中国の代表か、未来か、それとも例外か、日本の上海史研究会などがおこなってきた議論であろうが、韓国でもそれが話題になっていた。
この学会は、別の意味での重要性もあった。実は、今年、韓国では、中国近代史研究会と中国現代史研究会がひとつになり、中国近現代史研究会となった。この研究会が最初にぶつシンポジウムがこれなのである。主催する裴京漢教授らの意図は、十年後の学界状況をにらんで、海外から若手をよび、韓国の若手研究者と交流させることであったという。韓国の中国研究学界の外に開いていこうとする姿勢である。なかなかこの点については微妙だった。特に言語面では、「せめぎあい」が如実にあらわれた。はじめ中国語で始められた会議も、途中で韓国語となり、一日目終了。二日目に中国語化し、やがて調和といった具合である。中国語それじたいがもってしまうヘゲモニー性、これは注意すべき。この点、白永瑞教授とも同意した。そして純粋に工具としての言語使用もまた無いことも。しかし、そうした問題を孕みながらも、対話をしたいと思うとき、どうするかという課題であった。ただ、こちらが気をつけなければならない点も多々あった。たとえば、SEOUL大学の教授が中国語で「漢城大学」とソウル大学のことを言うのはやめてもらいたいと言い出した。それは、ソウルというのは高麗時代以来形成された「中心的都市」の意味であり、「漢城」は中国側がつけた名であり翻訳でもない、加えてソウルには漢城大学という別の大学があるというのである。こうしたことは多々あるのだろうが、韓国では日本以上に中国が大きな存在であることの証左でもあった。いずれにしても、韓国を舞台とする中国近現代史の国際シンポの第一歩が踏み出された記念碑的場として今回のシンポは位置づけられるだろう。
会議の終了後、以前北大の同僚であった韓国人研究者のS教授がプサンの町を案内してくれた。まずは上海町周辺。ロシア人女性のひしめくバーが多い通りを抜けて上海町に着く。ここがかつての「プサン租界」である。ここについてS教授が面白い話を教えてくれた。S教授たちは、会議が始まる前、ここの上海町にある小学校校長を訪ねたらしい。その校長先生の話によれば、現在、台北政府が「華僑学校」「中華学校」の名前を「台北小学校」などと改めるように求めているのだという。そして事実中学校は改名してしまったというのだ。民進党政権によってこのようなことがおこなわれていたとは知らなかった。校長先生は、こうした台北政府の強引さ、配慮のなさを嘆きながらも、かといって現在の子供たちに三民主義を教えていくこともまた無理、と述べていたという。
次に「見学に」連れて行かれたのは、かつての遊女街である。驚いたことに、現在でも、あたかもガラスケースで販売されているペットか何かのように若い女性が10名程度いれられ、ケースの中で手招きする。そうした店が少なくとも100軒はあると思う。客は日本人とあとは兵役前の若者などであるという。このような場はタイのゲイやミスターレディたちのいるところ依頼だが、タイよりは退廃的な印象をうけた。彼女たちは貧しい農村出身というよりも、北や中国の朝鮮族が多いらしい。これもまたひとつの縮図であった。
これまで韓国については、表面的に観光するだけの機会しかなかったが、今回のシンポジウムで多少はその社会、学界の置かれている状況などに触れることができたように思う。来年は韓国訪問の機会が増えそうである。その前にハングルを身につけなければならないが。(了)