神奈川大学留学生史科研研究会(2004年9月3日)
報告担当:川島 真 shin@juris.hokudai.ac.jp
研究紹介 : 楊艦『近代中国における物理学者集団の形成』(日本僑報社、2003年、187頁)
1.背景
(1)著者略歴
現在、清華大学科学技術社会研究所助教授。科学史専攻。1959年生まれ。現在45歳。1990年日本留学。97年に東工大理工学研究科にて博士学位取得(学術博士)。指導教官、山崎正勝教授。http://www.me.titech.ac.jp/~yamazaki/index.htm 98年から学振。2000年帰国。
(2)火ゼミの記録 http://www.histec.me.titech.ac.jp/course/kazemi-kiroku.htm
「東工大の一室を借りて行われている科学史・技術史の研究会で、原則として毎週火曜日の午後に行われているので「火ゼミ」と呼んでいます。参加は自由です。」
1999年10月12日 楊艦「近代物理学の中国への移植に及ぼした明治日本の影響」
1998年12月
1日 楊艦「東京高等工業学校に来た中国人留学生について」
(3) 『科学史研究』http://wwwsoc.nii.ac.jp/jshs/kagakusikenkyu/recent.htm
楊艦「近代中国における物理学者の誕生とその社会的背景」(197号、1996年春)
楊艦「中国における物理学の専門教育の成立――第一世代の物理学者の活動をめぐって」(202号、1997年夏)
(4)学位論文(97年)→本書出版に(04年)
2.本書の構成
序章 問題設定
第一章 物理学者の誕生とその社会的背景
第二章 専門教育の創設
第三章 研究の開始
第四章 国家による研究奨励と物理学者たちの実践
第五章 大学における教育と研究の結合
第六章 中国物理学会の創設およびその活動
終章 まとめと結論
3.内容紹介
序章 先行研究に対しては、「基礎作業にとどまっている」、「初期の物理学者に関して集められたデータはまだ少なく」、「彼らが物理学者となった社会的な要因や彼らがおこなった教育と研究の内容と当時の中国の社会変化との関係を論じたものはほとんど皆無の状態」、「近代物理学の西洋から中国への移植の歴史的な流れがほとんど見えてこないのが実情である」
(※当然、ニーダム科学史の停滞論は批判の対象となる)
→20世紀初頭から1937年/初期の物理学者のデータ/物理学者がうまれた社会的な背景、活動の過程、集団の特徴を扱う/西洋近代物理学の中国での定着過程への注目/制度的な確立、職業集団としての物理学者集団の形成/「中国における物理学の専門教育と研究制度の確立や中国物理学会の成立に関わっていた人たちを、主な調査と検討の対象としている」、特に「1932年に中国物理学会が創設され時の初期の会員(88人)に注目
→「1937年以前の物理学者たちのほとんどは、留学の経験をもっていた。彼らは本論文で第一世代と呼ぶ1918年以前に留学した人々と、それ以後に留学した第二世代と呼ぶ人々に分けることができる。前者は海外で専門的な教育を受け、後者のほとんどは、国内の大学で物理学の専門教育を受けた後、さらに留学した。本研究では、20世紀に西洋近代物理学の中国への移植過程が、この二つの物理学者の盛大に対応した二つの歴史的段階をもっていたことを念頭において、議論を展開していく」(9頁)
第一章 物理学者の誕生とその社会的背景
第一節 初期留学運動の展開とその限界
洋務⇒変法。
軍事期(1872-1903):物理学者留学なし。
西政期(1903-1908):ここで物理関係の留学生が出現。京師大学堂から留学生派遣。北京大学初代物理学教授となる何育傑の留学(イギリス、マンチェスター大学へ)。だが、日本への留学が圧倒的多数を占める。
西芸期(1908-1917):アメリカ留学が主流に。義和団賠償金。南洋公学出身者多い。
※
この1918年区分は、舒新城に従う。(『近代中国留学史』上海文化出版社、1939年版、P.195)但し、軍備⇒西政⇒西芸⇒西学という区分の最後の西学は1917年から始まったとされている。
第ニ節 「西政」を目指す海外留学―物理学者の出現と近代教育制度の導入―
1902年
欽定大学堂章程、1904年 奏定大学堂章程 ⇒ 物理学が教科化、大学にても物理学科設立が計画される。しかし、専門教育に限界。1904年、張百熙が教員養成などのため留学生を派遣(何育傑の留学)。
1902年
京師大学堂総教習呉汝倫は日本へ。
1909年
何育傑帰国。京師大学堂にて数学教授。
中華民国成立後、初代物理学教授に。(日本留学の者は政治、法律、師範に集中。物理・数学・化学で数十人に過ぎない。東京高等師範、早稲田清国留学生師範科、東京物理学校など。彼らが地方の教育機関などに勤務。「理科教育の基礎に大きな役割を果たした」)
但し、1907年の五校特約以降は、第一高等学校に留学し、そこから東京帝大、京都帝大で物理学を学ぶ者が出現。
第三節 「庚款留学生」−物理学者の出現とアメリカの植民地の文化政策―
「西芸」期に。アメリカへの「庚款留学生」。政治・法律・師範偏重の日本留学から、理工系の教育、高度な専門教育への要求高まる。
1906年
速成学生派遣の禁止。
1907年
五校特約。第一高等学校と東京高等師範学校へ進学した学生の中では、理系が文系をうわまわる。
1908年 官費留学生を理・工・農に限定。
1908年
庚款留学制度 ⇒ 「西芸」とアメリカの中国に対する「植民政策」が合致。
1909年から毎年100人。5年目以降は最低50人。
⇒ 8割の者は、農工商鉱、二割に法政、理財、師範とする。
鑑別試験。鑑別生。清華学校がそれに対応。この時期の学生は、国内で基礎教育を受けた後に留学していることが特徴。胡剛復らは、物理学実験の教育を本格的に導入へ。
第四節 南洋公学の卒業―工業界の努力と役割―
国内での教育拠点としての南洋公学(上海交通大学の前身) 。1896年、盛宣懐。招商局と電報局。実業学堂と異なり、政治家もまた養成。但し、工業近代化。また科目、数学・物理学・化学など工業の基礎となる科目の重要性強調。また、小学校から大学までの一貫を想定。しかし、師範院と内院(小学校)、中院(高校)から。そして中院卒業生を海外留学させる。李福基などがイギリスへ。最初の博士号取得。庚款の鑑別試験にも数多く合格、各方面の奨学金獲得。1907年から20年のうち、200名が留学。工学の基礎、基礎科学についての基礎教育において、南洋公学は大きな役割。西政⇒西芸。
まとめ 中国における物理学者の誕生は、国内における教育改革運動、アメリカ政府の植民地政策、近代工業の指導者たちの努力という三要素により結合。アメリカの政策によって、留学先は日本からアメリカへ。
また、南洋公学は基礎的な部分を支える。
20世紀初めの世界の物理学では、イギリスやドイツなどがその中心となっていた。しかし、中国の物理学者のほとんどは、以上のような理由から主として日本とアメリカに留学し、イギリスやドイツへ留学した者はわずかであった。このことは、中国の物理学者層の形成にあたって彼らに独自の特徴を付与した。
⇒彼らが帰国し、中国において物理学者の第一世代が形成された。彼らによって、大学や高等師範学校などの物理学科が相次いで形成された。1918年ペイン大学理科物理学門を卒業した初代の学生である孫国封は物理学の専門教育を受け、アメリカに留学。この世代が新たな展開を開いていく。
第二章 専門教育の創設
1918年以前の留学組 ⇒ 1909年―27年の間に海外から帰国
1919年前後に「中国の高等教育機関で物理学の専門教育が本格化」。「10数年の間に物理学の専門教育はいくつかの大きな社会変動の中で次第にその姿を整えていった。」
第一節 清朝政府による近代学校教育システムの導入
1902年 京師大学堂 物理学が科目に ⇒ 実際には清末まで開講されず。
辛亥革命以前に、何育傑、張大椿、周道萬の三名が帰国。
⇒ 何は、「遊学卒業試験」で最優等。格致科進士。 ⇒ 京師大学堂教師に。
1911年、寧波に。中等教育に従事。ほかの二名も。
第二節 物理学の専門教育の開始―辛亥革命による新しい制度の発足―
中華民国教育部、四つの国立大学区、六つの国立師範高等学校
帰国者たちは中等教育の現場から高等教育へ。北京大学。蔡元培。科挙身分の廃止。
文系・理系を中心とする近代大学。理科大学には物理、化学、数学の三学門。1920年に南京高等師範学校が東南大学になるまで北京大学が唯一の国立大学。
⇒「北京大学理科大学物理学門」 教授・何育傑、そのほかみな海外留学経験者。1913年第一期入学絵師。孫国封らが理科理論物理学第一期生。1914年から教科書編纂。
1916年、最初の卒業生。5/17が物理学生/理科全体卒業生。孫はコーネルへ。
「しかし、この時期の北京大学での物理学の専門教育は、順調に発展していたとはいえない」
・
授業内容にほとんど変化なし。 ・原子物理など20世紀の物理学が含まれない。 ・物理学実験はあるが、学生がおこなうものではない。
「まだ初歩的な段階に留まっていた」
⇒ 入学者も一期が最高。その後減少。当時は大学入学=官僚養成所というイメージ、文科中心。(…袁世凱が大総統になると、政治的、文化的な反動期に入り、近代教育の発展は困難になった・・・?!40頁) ⇒ 蔡元培は北京を離れる。
第三節 本格的物理学教育の開始―「南高北大」の物理学―
1916年から1927年の「大空位時代」。しかし、「この間、物理学の専門教育は、北京大学における顔任光および東南大学における胡剛復らの活躍によって、本格的な段階にはいった。それらは新文化運動、および新工業と呼ばれた機械制工業の発展によって、それぞれ支えられた。」
●北京大学(顔任光)
⇒ 新文化運動 : 科学重視
⇒ 新工業 : 中国民族工業の急成長。軽工業部門の機械化進展。
1917年 袁世凱の死によって蔡が帰国。北京大学学長に。学術研究重視。新文化運動の基地となる。工科は天津の北洋大学に移し、北京大学は理科に重点。文科・理科の融合。
1919年 顔任光らが帰国。若手が次第に中心に。物理学の教育の整備。学生実験重視。講義+実験+試験。科目にも相対論、量子論などが出現。また物理学者は「エッセイ」などを多く記し、啓蒙活動に加わる。つまり新文化運動の一翼を物理学者が担った。他方、卒業生も著しく増加するようになった。
●東南大学(胡剛復)
新工業の展開、地方産業界と中国科学社のバックアップ。1920年、国立大学に。地域社会の支持。張謇、陳光甫ら。教員の過半数がアメリカ留学。理系の教員のほとんどが中国科学社の社員。
※
中国科学社 1914年アメリカで創設された中国人科学者の団体。1918年には南京に本部が移る。授業水準、実験室なども北京大学なみの水準。
(a)
北京大学と東南大学の事業は、「より広い社会的な力、いわば『下から』の力によって支えられたものであった」
(b)
教育の政治からの独立性の強調。民族工業は政府が支持した重工業ではなく、民間企業中心の軽工業。そこに結びついた大学。
●物理学者の職場
各高等師範学校、新たな国立大学/南開大学など私立大学/清華大学のような外国機関に支えられた大学。
まとめ
物理学専門教育の確立、第一世代の活躍で以下の三段階で発達。
第一期
1901−12年。「上からの教育改革」。物理学が近代的学校教育制度の中に位置づけられる。しかし、清朝の力不足。実際には立ちあげられず。
第二期
1912−1919年。中等教育から高等教育へ。大学の学術機関としての性格の強調。北京大学で開始。しかし、専門教育の内容乏しい。実験×。
第三期
1919−1927年。本格的に。高度な専門教育を受けた学者が帰国。北京大、東南大にて改革した。新文化運動に支えられ、また一つの柱に。また民族運動や中国科学社との結びつき。物理学は工業の基礎として位置づけられる。政府主導というよりも「下から」の改革運動の成果。
第三章 研究の開始
研究が次の課題に。1920年代後半、研究機関、大学院設置。第二世代が本格的に研究活動をスタート。
第一節 二つの国立物理学研究機関の設立
1928年 中央研究院(南京) 物理研究所
1929年 北平研究院(北平) 物理研究所
制度的な整備(政府主導、しかし研究者も役割果たす)
清末 「通儒院」計画。実現せず。
民国 「大学院」。北京大学各学部に研究院。しかし、機能せず。
孫文 国家学術院設立の提起(1924年)
1927年4月18日 国民政府発足。その前日に、蔡元培、李石曾、張人傑らが学術研究機関の設立を提起。政府は彼らに対して、中央研究院組織法の起草を命じる。
→ 日本の「文化侵略」を意識したものになる。国防と経済に関する調査 研究を重視。日本の北京人文科学研究所、上海自然科学研究所に対抗。そうした研究所を主権侵害とみなす。
「中央研究院設立の当初の目的は、対内的には、国家の統一と建設事業にあり、対外的には、国家の独立を守ることに置かれた」
→ 蔡元培、李石曾は、教育界のリーダーでもある。「国の教育システムの中に学術機関の設立を推進させるとともに、そうした教育研究機関を政治(あるいは官僚機構)から独立させようとしたのである。
大学院の組織=日本の文部省に相当。これにあわせて大学区も設置。1928年はじめ中央研究院を大学院から独立させる。蔡も大学院院長を辞任。
→ 北平大学区では、李石曾が総長。しかし、北京大学などが反発。1929年、国立北平研究院。蒋夢麟・教育総長の提案。
中央研究院と北平研究院 → 大規模な科学研究事業の基礎に。また最初の物理学の専門研究機関がそれぞれに誕生。
第二節 大学研究院の発足
大学における物理学研究の制度整備も同時進行
1920年代 北京大学、東南大学共に経営難。
1928年5月 第一次全国教育会議。研究院開設規定。しかし実際に研究院は開設されず。
1930年4月 北京大学評議会、予科廃止決定。資源を研究院に投下。
1932年 北京大学で研究院発足。但し、物理学の最初の学生は35年入学。
清華大学、燕京大学の勃興。但し、「庚款留学」にも限界。アメリカの物価高騰、また1940年に庚款返還完了。また中等部、高等部廃止。中央政府は清華大学を国立大学化。1929年に最初の大学部卒業生。この年には研究院設置=物理学研究院と外国語研究院。物理研究所を設けたのは、アメリカの「通材教育(教養教育)general education」の影響。応用科目よりも基礎科目重視。その観点で基礎となる物理学を重視。
燕京大学。ミッション系。美以美会が設立した匯文大学と、公理会が設立した公理会が設立した協和大学が合併。ロックフェラー、ハーバードなどからの支援。20年代急速に発展。キャンパスは現在の北京大学。学位は清華大学同様にプライベートなもの。
●北京大学、東南大学 ⇔ 清華大学、燕京大学
経費などの面で対照的な境遇。第一次全国教育会議以後、教育界をリード。
第三節 物理学者の第二世代
第二世代が活躍する時代に。国内高等教育機関で専門的な教育を受けてから留学したグループ。中国物理学会の成立当時の会員88名のうち、61人が第二世代と考えられる。」
第二世代の特徴 (a) 北京大学と東南大学の卒業生が多い。
(b) 1920年代後半からは、燕京、金陵、東呉のミッション系大学の出身者が急増。清華大学出身者は依然として一定の割合を占める。
(c) 留学期間は5年間と減少。第一世代は8.5年。学位は、第一世代だと博士が30パーセント、修士が20、学士以下が50であるが、第二世代には、博士号65、修士が33、学部が2となっている。アメリカ留学が60パーセント。庚款留学だけでなくミッション系からの留学の影響。(爽秋は経済的な理由から少ない)
※ただし、フランスの生産強化にともなう中国人系労働者誘致政策によって、「勤工倹学運動」がおきる。優秀なものは、中国政府が支援。他方、イギリスや日本も庚款を返還。
(d)二つのグループ。戦前帰国組みと戦後帰国組。
中国の物理学者が実際に実験をおこないながら新しい研究をおこなう時代に。第一世代の影響力もあるが、第二世代が研究の主力に。
まとめ
物理学研究の実現には二つの背景。
1.
中国の近代化過程における学校教育システムの導入と改革
2.
外国からの文化教育事業
中央研究院・北平研究院 → 国民政府の科学重視。しかし他方で教育界の努力の成果。政治からの独立。
清華大学・燕京大学などが勃興。北京・東南は苦しい時代。
第二世代の帰国。人数も多い。物理学に活力。高いレベルの専門性。
第四章 国家による研究奨励と物理学者たちの実践
1920年代、国家による専門研究機関の設立。中央研究院・北平研究院に物理研究所。国家による研究奨励の証拠。物理学のような基礎研究は、それまで中国ではおこなわれていなかったので、国家側として研究所をつくって奨励する必要があった。
第一節 国立中央研究院物理研究所
1927年11月 第一回企画準備会(この段階では物理研究所はない)
理化実業研究所(物理組含む)、社会科学研究所、地質研究所、観象台。
1928年7月 理化実業研究所 → 物理、化学、工程の三研究所に。
1929年1月 物理研究所章程(物理研究の制度化に関わる重要な文献)
●人事 「南高北大」を支えてきたメンバー(顔任光、胡剛復など)。1930年代以前には第一世代が主力。1930年代以後、第二世代が帰国(施汝為ら)。また初期助手グループは、国内で専門的訓練を受けた最初のグループを形成。後に外国へ。内外の研究者を客員などとして組織。
●国会意思とのかかわり
上海におかれた理系三研究所。水道、ガス、電気などが完備。
1928年の中央研究院の研究計画。地磁気/無線工学/原材料の物質性の検定/上記三分野の国防に関わる研究
「物理研究所が国の統一と独立に貢献する応用的研究を重視していたことを示している。・・・この姿勢は終始変わらなかった」
●実は経費少ない。月間一万元程度。
地磁気観測。1933年、紫金山に地磁気観測台。測量もおこなったが、「むしろその観測に必要な器具の整備に力をいれた」という側面が強い。
●全国の教育研究機関を支援 → 物理研究所付属の物理工場がその役割
物理器具工場に。1936年には100人以上の労働者。分析天秤、顕微鏡などが人気。中華教育文化基金理事会、政府教育部が物理研究所に600セットの高校用の物理実験器具、3000セット中学生用の物理実験器具。全国に配分へ。
「既定の方向へ研究を進めるために、施設の建設、実験器具の導入、図書、雑誌を中心とした情報収集などいろいろな面から、研究環境の整備をおこなった。彼らが上げた最大の研究成果は、中央研究院物理研究所そのものであった。」
→他方で、彼らの責任として科学研究の指導、連絡、奨励をおこなう。研究インフラの整備、研究を進めるための道具の発明。そこにとどまった。「地磁気の測定は、鉱山の開発などの国家資源の利用につながると指摘されたが、中央研究院が発明した研究器具を利用して、全国的規範の研究活動をおこなうことは、結局実施されなかった」
第二節 国立北平研究院の物理研究機関―物理研究所とラジウム研究所―
北平研究院には、物理研究所とラジウム研究所が設けられる。1929年、物理研究所は理化部に設けられた最初の研究機関。李書華が副院長。1932年、中法大学と研究院が協力してラジウム研究所。
李書華初代所長(兼副院長)+二人の兼任研究員(ともに中法大学教授)
1930年 研究課題の設定。中国北部の経緯度、重力加速度、地磁気の測定/ラジウム鉱の調査、放射能の研究/スペクトルの吸収
※
国立の機関として中央研究院と協力。また地方性。
※
各種の測定→国家の統一と独立にとって重要な事業。ラジウムは、中法大学キュリー学院における研究との連続性。スペクトル研究は、理論研究をおこない、中国人の国際的地位を向上。
1931年 李書華が教育部政務次官に。フランスから帰国した厳済慈が所長に。37年以前、フランス留学が中心。
●地文物理学、重力加速度、光学
1931年 経度測定会議。中央研究院天文研究所、陸軍測量総局。→北平研究院も実施機関となる。鉄道にそって測量。黄河水利委員会からの要請。
1931年 中法大学が2万元で設備提供。ラジウム実験室。
1932年 ラジウム研究所独立。(戦後には原子学研究所となっていく)
(中国内のラジウム鉱石の調査、ラジウム物質の放射能の検討、水晶体の圧電、捩れ電圧現象の検証、X線および結晶学の研究)
共同研究でもフランスとの特別な関係が見られる。成果もほとんどフランスで。
スペクトル研究は、20世紀の原子構造解明の重要な手がかり。研究の幾つかは国際雑誌で発表。厳済慈は、フランス物理学会の理事に。「国学の光」と称された。だが、この研究成果の「応用」は中国国内では実現困難。結局は外国でしか実現されず。
まとめ
国立中央研究院・北平研究院 → 国家による科学研究奨励の第一歩。応用研究重視
中央研究院では、事業は国家の独立と統一の事業の一環として位置づけられた。
北平研究院では、フランス留学生が主体。留学先からの先進的科学文化を輸入。
物理学者の成果は、それぞれの形態で全国の物理学者を激励した。
だが、研究の成果は工業に接近せず、応用価値のある研究も外国で実現するにとどまった。 第五章 大学における教育と研究の結合―清華大学と燕京大学―
大学の物理学者たちも、教育水準の向上をはかりながら、一定の研究業績を上げ始めた。その中心は、清華大学と燕京大学。
第一節 清華大学物理学科の立ち上がり
●教員集団の形成
1925年 清華学校大学部設立 → 20年代末までの教授陣形成
梅貽g(第一期庚款留学生、1914年帰国)、徐尚
葉企孫(第一期と第二期の間の過渡的な人物):磁気学に取り組んだ嚆矢
東南大学卒業者ら数名を引き入れる
1926年 物理学科正式に発足、葉が学科主任
(梅は清華学校の学長に)、アメリカからの帰国者などを多く補充
1929年 清華大学理学院発足、葉が院長、呉有訓が物理学科主任に。
1930年代 「清華大学物理学科の教授陣は、全国でもっとも優れた人材によって構成された。・・・清華大学の教授のほとんどがアメリカ留学生、特に清華大学校の卒業生によって占められ、そのほとんどが第二世代の物理学者で構成されていたことがわかる」
1925年から安定的な増加。転職者などほとんどなし。
安定的な環境 → 一流の教育と学術の中心地へ。助手たちは東南大学=中央大学の系統者多い。37年以前に海外に留学。
●教育面
薩本棟教授が自ら作成した教科書を使用。 → ほかの大学でも使用されるように。
ほとんどの授業科目で実験がおこなわれている。経費をそこに投下。
学生募集。量よりも質を重視。入学してからの訓練。中退者多い。約半数しか卒業できない。→ 研究者養成重視 → 勝ち残った学生は海外へ留学
●研究面
研究環境の整備。1930年代初頭、物理学研究本格的な開始。中央研究院が「世界中の発明、理論を利用して貧しい中国を強くさせることを最大の目標にして、応用研究に対する努力を続けた」のに対して、清華大学は学術の独立を国家の独立の一部分と考えて、「中国人が自分たちの研究の成果によって世界に貢献し、それによって世界の各民族と同等な地位にたって、新たな発見をともに求めていく事を、学術独立の最高の目標であるとした」のである。
呉有訓、海外へ発信。Nature誌。X線の散乱問題。しかし、彼の完全の発明というわけではない。海外での実験研究を移植し、発展させるタイプ。学術独立にはまだ遠い状態。本格研究に取り組み始める前に戦争開始。
(@)国内での研究成果のほとんどが留学先でおこなった研究に関わるもの
(A)国内外で認められた成果多い。清華自身が英字雑誌をもつ。
(B)サバティカルなど整備。それを利用して研究発展。
(C)しかし、世界に認められる成果を創り出せるような水準には整備されていなかった。独立はまだ遠かった。
第二節 ミッション系大学における教育の改造―燕京大学の場合―
●教員組織
1929年以前 外国人教師が中心。しかし、次第にアメリカからの帰国者を中心に中国人教員を補充。
教育権回収運動 → ミッション系の学校も政府に登録する私立大学となる。
その中でキリスト教の優位性を示すよりも、中国の人々のために働く中でキリスト教の精神を伝える方向にかわっていった。
●教員組織
1925年 燕京大学理科に物理学科が設立された。
1926年 キャンパス移動。本格的な発展時期に。当初は、中国協和医学院の学生の予科を引き受ける。そのため、彼らと物理学科の学生共通の基礎教育と、物理学科自身の専門教育が結合した形態になっていた。また協和医学院を支援していたロックフェラー財団は、予科を預けたのにともない、燕京大学に対して支援。(科学館、留学経費)
1927年 物理学研究部コース。特徴的なのは、化学と結合した研究。協和医学院との連携の成果。謝玉銘は、実験工場の建設に尽力。
●30年代の研究成果とその特徴
外国人教員 Band が、中国を対象とした健康や農業に関する研究を発表。自然環境など。これからロックフェラーによる医療教育事業支援と関連。
協和医学院では、流行病、風土病の予防が大きなテーマに。ロックフェラーは、農村を中心とした衛生や病気の予防を目指す活動。
まとめ
清華大学、燕京大学 → 第二世代の教員。研究者養成を重視。
清華は、アメリカ留学組中心。アメリカに強く依存。留学先での研究を持ち込む。
燕京は、外国人教員から中国人教員へ。ミッション系大学の世俗化と中国化。ロックフェラー財団の文化事業の影響も無視できない。
第六章 中国物理学校の創設およびその活動
1930年代、中央研究院・北平研究院 + 清華大学・燕京大学
物理学者の活動がいっそう活発化。
第一節 創設の背景
1930年代 浙江大学・四川大学など、数多くの大学が創設される。また国民政府は、文科・法科よりも、理工農を拡充する方向性。新設大学は理系重視する事が求められる。
北京大学の復興。中華教育文化基金理事会が支援。王守競らが教授に。
東南大学も復興。南京にあったので、「中央大学」に。第二世代の東南卒業生が戻る。
1932年 国家軍事委員会兵器工業署が理化研究所設置。弾道研究室、金属研究室、工学実験室、材料実験室、電気学実験室など。
→全国の大学および研究機関で働いていた物理学者の総数が約300に。
●二つの問題点
(1)それぞれが分散的。日本、アメリカ、フランスなどから帰国した者がそれぞれ集団を形成していた。
清華・ミッション系(アメリカ)、北平研究院・中法大学(フランス)、北京師範大学(日本)
(2)中学・高校レヴェルの基礎教育があまり整備されていなかった。教科書などもまだまだ未整備。商務の『物理学』、物理学者ではない著者。1933年の調査。大学一年生の物理学のテキストも、ほとんどが外国のテキスト。
●国際連盟視察団
1931年5月 国際連盟行政院において中国代表が教育方面からの協力を求めた。
1931年12月 『中国教育の改進』という報告書。当時の中国の物理学者の意見をまとめたもの。視察団はアメリカへの過度の依存を批判。
第二節 創設過程とその活動
物理学会創設を求める声。きっかけは国際連盟教育視察団の北平訪問。フランス人物理学者Langevinによる提案。北平の物理学者が集まり、全国へ発信。
1932年3月、7月 臨時委員会
1932年8月22−24日、清華大学科学館にて中国物理学会の成立大会。会員19名。
開会挨拶:梅貽g、学会成立経緯説明:葉企孫、会則:呉有訓
1933年3月 会員は88名に。第一世代27名、第二世代61名。アメリカ留学42名、日仏それぞれ8名、ドイツ5名、イギリス2名。北京41人、上海13名、南京11名など。全国の学者が集結。法人会員もあり。中央研究院、そして各大学。
1932−37年 5回の総会開催。
(1)
物理学報委員会、ジャーナル出版。当初年に二回出版することを予定したが、順調には行かなかった。外国語で出版。日本語は排除。
(2)
物理学用語の審査。1908年 清朝政府『物理学語彙』、しかし用語は1000にも満たず。学会として『物理学名詞彙刊』出版事業に取り組む。1934年に『物理学名詞』を発行。
(3)
中等教育の改善。全国の物理学の中等教育基準の制定。教科書の出版。
第三節 融合の実現と物理学者の第三世代
● 全国の物理学が分離から融合へ。
人事面での変化。アメリカ依存の清華大学にも、中央大学出身者・ケンブリッジ留学の教員が着任。イギリス、ドイツなどへの留学。
1930年代 国民政府は十分な教育・学術文化事業の発展に十分な経費を準備できず。
1934年 国民政府から各国に庚款留学について、各国で分野を分担するよう要請。
中米=自然科学、中英=農工医、中法=医薬生物
各国の文化事業は中国の近代化の目標の中に吸収。
● 第三世代
まずは留学という方向重視から国内での養成重視へ。外国人教員の招聘、彼らと帰国した学生のリンク、留学している学生と国内とのリンク。→ 国内で一定期間の研究をおこなってから留学。国内での養成を基礎に留学 → 第三世代の特徴。日中戦争開始後も、彼らは海外で研究を続ける。
まとめ
1930年代 中国物理学会成立。全国各地のばらばらであった研究者が交流。研究者養成を中心にした高等専門教育の整備。中等教育との協調。用語の標準化。物理学者の大連合形成。「従来の半植民地半封建的な研究者の社会的分離状態が打破され、創造的な意欲を持つ新しい世代の物理学者が生まれるようになった」
終章 まとめと結論
20世紀以後、日中戦争が始まる1937年以前の間に、中国における物理学の専門教育、研究制度および中国物理学会の創設に関わった物理学者を対象にして、その活動の内容を社会史的な視点から検討した。
・・・各章のまとめ
しかし、「工業の基盤から離れているという問題残る」、「近代物理学が持つ科学の精神的な移植が十分ではなかった」、この点は今後の課題。
コメント
(1)
職業的専門性
(2)
北京政府期の分散性、国民政府期の連合的統合
(3)
「科学」の問題
(4)
枠組みの問題、発展と限界、物理学「思想」、他の分野
(5)
戦後との連続性
(6)
個人的な部分
(7)
留学にひきつけた場合、日本から欧米への移動、文化事業との関連、分野別のウェイト、日本の理系大学の問題性。