「日中若手歴史研究者会議 国境を越える歴史認識」
第二章: 「日清戦争後から二十一ケ条要求に至る日中の対立と交流」
(第十三章 歴史対話と史料研究)
■歴史認識をめぐる問題(第十一章)
(1) 歴史認識をめぐる問題は、東アジアの「近代」、「国家形成」に深く関わる問題
(2) 共通の歴史認識、それをもつことも不可能だとは言わないが、相当の意思と合意と、長い過程がないと形成できない。
(3) 実証史学は必ずしも共通の歴史認識形成を促すものではない。近代実証史学は、国境の内側の歴史観を一元化したり、国家の正当性を補強したりするが、それは逆に国境の外側を異界化し、逆に外国の歴史物語と差別化する作用も有する。
(4) 同一の史料を用いても、議論の土台ができることは否定しないが、それで同一の解釈、結論、歴史認識が形成されるわけではまったくない。史料に対する(一定程度での)多様な解釈を歴史学は許容している。
(5) 歴史「教育」は歴史学とは(関連しつつも)異なる位相に存在するものである。歴史教育は、現状と大きく関わるものである。東アジア全体における共通のアイデンティティが形成される局面にならないと、共通の歴史教育(教科書?)が形成される局面にはなっていかないだろう。中国史+日本史+韓国史+台湾史…などとしても=東アジア史にはならない。無論、教育主権の問題もある。
(6) 今すべきことは、相手の歴史叙述のコンテキスト、また自らが歴史をいかに叙述してきたのかと云う経緯と歴史、を「理解」すること、また史料などについてのアクセスなど研究環境(インフラ)整えること(情報発信が肝要=特に日本史、これは国家規模、あるいは大きな経費の支援が必要である)だと思われる。また、単純に日中の学者が出会って、主張して、宴会するだけの、「すれ違い型」、あるいは「(素材が混ざらない)中国料理の前菜型」なのではなくて、議論し、ひとつの何かを形成する「仕事をする」タイプの共同研究を多様に、そして一つの束として多数おこなうことだろう。本書は、本書がその足がかりになるのではないかと期待。
■対象時期とイメージ(以下、第二章)
・1895−1915年
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(1)総体的な関係が緊密化していったにも関わらず、政治外交軍事的に関係が悪化した時期 (2)日本が列強と共同して中国に関与していた状態から、次第に単独関与をしていった時期 (3)日中関係の「特殊な敵対」側面が形成された時期 |
・日中双方が「ダブル・スタンダード」の時代から、「主権国家」として国力を意識し、「文明国」として自国の生き残り、国際的地位の向上を目指し、ひいては強国化、大国化を志向し始めた時代。だが、条約改正をふくめて、その時期には日中で数十年のずれがある。
・この時代の「対立」の形成が後の戦争、あるいは現在に至る「対立」のひとつの根源となる。だが、その対立が「激化」する過程をいかに描くのかということにも議論が残る。日清戦争なのか、二十一カ条なのか、あるいはプロセスなのかということがある。このほか、「伝統的な」日中関係史を描く際に用いられる、政治・外交・軍事=対立局面/人民の交流=友好の維持、という中国の歴史観に対応した歴史叙述に即して、この時期にも(19世紀後半の駐日公使館での文人交流などとともに)日本への留学生の増加、魯迅と藤野先生の逸話、日本人の革命支援などが挙げられている。
・歴史認識をめぐる原型も20世紀初頭から形成される。近代歴史学の吸収と国家史の形成がこの時期になされていく。この歴史とアイデンティティの形成期に両国が対立局面にはいったことが、その後の歴史認識に大きな影響を与える(特に中国)。また、この過程で日本近代史にとって中国との関係が、また中国近代史において日本との関係が、その国家史に必要不可欠な要素として盛り込まれ、位置づけられていく。
・いわゆる相互認識においても、日本の対中蔑視、中国の対日警戒、敵対視、あるいは一種の友好提携論なども、この時期に形成されていくものと見ていいだろう。
・現在の日中双方の日中関係史においても、この時期の位置づけは大きく異なる。簡単に言えば、中国のほうが日中戦争に向かう一こまとして位置づけるのに対して、日本の場合にはまだまだ多くの可能性が残された時代として描く傾向が強い。日本の「侵略性」を、明治以来(あるいは豊臣秀吉以来)一貫性のあるものとして、また構造的問題として描く中国と、それを偶発的、またある種の選択の結果として描く日本の違いがある。この論点は、1920年代の大正デモクラシーをいかに描くのかと云うこととも関わっていく。
このほか、日中間の歴史に対する「考えかた」の根本的な相違もこの時期の歴史をめぐってあらわれている。
〈法の問題〉このほか留意すべき点として、国際法、条約の扱いがある。これは文明国化とも関わるのだが、日本では明治期から20世紀初頭にかけての対琉球、朝鮮半島、中国、台湾への侵出について、それを国際法に適った行為、もしくは当時の国際政治からして容認される行為として位置づける傾向にある。従って、概説書や教科書でも、戦争の原因、宣戦布告、経緯、講和条約の内容などに多くのスペースが割かれる。中国史では、国際法的に、あるいは手続法的に「正しい」侵略行為というものを想定していない。侵略は侵略であり、中国の国土を割譲したものであっても、本来は中国のものであり、それが奪われたものであるから、最終的には「回帰」すべきだということになる[1]。
〈史料の問題〉実証主義??史料の問題。文献実証史学に依拠することの問題性。また史料が形成された時代背景への顧慮の必要性。
■1.19世紀の日中関係 (東アジアにおける近世の重要性)
・日本やアメリカで発達した、「伝統的な朝貢貿易システムと近代的な条約外交システムの葛藤」という課題(ある意味で、1980年代から90年代にかけて議論されたChina
Centered Approachもまたアメリカ的、日本的、外国の中国研究的な課題)
・中華思想という日本独特の中国観も存在する。
⇒ おそらくは「帝国」としての中国をいかに捉えるのかと云う問題。
(a) 発展途上国・第三世界の代表・社会主義国としての中国
(b) 伝統/近代?帝国としての中国
(c) 普通の国としての中国
従来の中国史は(a)を強調、いまは(c)を強調していく傾向。日本側は(b)を強く見ている。
中国から見れば、19世紀後半の外交過程で(b)の要素は溶解していったと見る。
⇒ 中国の研究者は浜下武志の議論などを通じて、最近になってこういった議論を吸収し始めている[2]。
⇒ 19世紀後半は、おそらくは東アジア全体がダブル・スタンダードの時代。対西洋と対東アジアの二重体制。東アジアは、意識的対等/不対等と表面的(文面的)対等/不対等の組み合わせの下に形成。
〈図:近世における東アジアの二国間関係〉
⇒1871年 日清修好条規(文面的対等)、1876年江華島条約(文面的非対等)は、文面の場を再定義。1882年の清と朝鮮の水陸商民章程も文面的非対等。
★歴史の語られ方
中国の歴史:帝国主義の侵略、清朝崩壊の過程 + ナショナリズム、限定的近代化
⇒新たな研究の胎動
■2.日清戦争
日清戦争は日清修好条規以来の平等体制を、不平等体制に転換する契機となった。日本は中国という舞台において、その不平等条約体制によって利権を享受する国のひとつとなった。
(1)日清戦争をいかなるものとして描くのか
帝国主義的・日本と腐敗していく清の戦争?
近代的再編を進める清と近代主権国家化を進める日本との朝鮮利権をめぐる抗争?
⇒この戦争こそが日本の侵略性を示すものであり、後の日中戦争に直線的につながる?
日清戦争から日中戦争までには40年弱あり、その間にさまざまな変容過程、可能性があったと見るのか?
(2) 日本の優位意識の形成
平等体制から不平等体制へという転換。日本側にとっては治外法権撤廃交渉成功にともなう「独立意識」が、戦勝に絡むことにより、中国に対する優位意識が従前以上に高まった。中国を踏み台にした、地域的な「列強」への道程を歩み始めたということ。
⇒だが、このような変容は中国においても見られたのであろうか。実際、中国では国民動員型の近代戦争がおこなわれたわけではないので、戦争中に対日認識が変容したわけではなく、「敗戦」によって一定の衝撃があった程度であったろう。こうした意味では、戦争の衝撃は勝った日本のほうがおおきかったのかもしれない。
(3) 危機感、「瓜分の危機」
戦後には「眠れる獅子」と見なされ租借地などが数多く設定され、「瓜分の危機」が増す中で変法が叫ばれることになる[3]。しかし、敗戦後直ちに「日本に学ぶ」という方向性が見られるわけではない。1896年には李鴻章による露清密約が見られるなど、まだ微妙な情勢にあった。
(4) 台湾の問題
■3.戊戌変法
「瓜分之危機」/社会進化論の「強者必勝、劣者必敗」、「弱肉強食」の思想/救国運動
⇒ 1880年代から蓄積されてきた社会改革論が急速に若手官僚を中心に浮上。日本への強い関心に裏打ちされた、日本モデルの立憲君主国としての近代化を模索。そうした中で黄遵憲『日本国志』などの日本紹介本が広く読まれていくことになる。近代化のモデルとしての日本、という位置づけが与えられたのである。これは以後も20世紀を通底する中国における日本観の一翼を形成することにある。
●地域的列強化する日本
日本は、日清戦争の賠償金による近代工業化、イギリス以外の諸国からも治外法権回復。台湾の対岸の福建省を「勢力範囲」として設定。
⇒漢冶萍公司、八幡製鉄所などに見られるように、日本の経済発展にとって中国の存在が必要不可欠なものとなっていくこと。こうした意味で、日中関係は社会経済面で急速に緊密化の路を歩んでいった。
●戊戌変法…その終結後の1899年には清朝が「保守化」する
●アメリカの登場
■4.義和団事件と光緒新政
(1) 義和団事件は、中国にとっても日本にとっても重要な契機である。中国は、戊戌変法後の保守的傾向の中で列強に対して宣戦布告をした。日本は、列強とともに中国に派兵し、戦後形成される国際的な中国保全の国際的枠組みに加わる。日本は、海底電線、航路など、中国との「交通・通信」インフラ整備を推進、中国との関係を緊密なものとしていく。
(2) 光緒新政は、近代国家建設とその果実としての治外法権撤廃が約束されてなされたものであったが、北京での駐兵z権が列強に認められ、北京公使団という対外政策および財政に関する監視団の下で実施に移されていたという点で、「中国保全」という「国際共同管理」体制による近代化だとも考えられる。ここでは、1890年代後半に見られた租借地設定などによる「中国分割」に歯止めがかけられることになる。
(3) 1901年の辛丑和約(北京議定書)に基づく体制、光緒新政への関心が高まっている。清朝最後の十年は、まさに立憲君主制に基づく近代主権国家化を明確に志向した時期であり、各種の法典や政治制度も整備され、議会開設もレールに乗せられていた。こうした側面を積極的に評価する傾向は、日本でも中国でも共通であるが、日本では地域社会における地方エリートの変容過程、地域社会の秩序形成に関心が向かっているのに対して、中国では清朝が「帝国主義」の「在華代理人」になったとの前提の下で、その法制整備などの制度設計やそこにおける限界などが研究の中心となっている。だが、かつてのように孫文の動きを歴史叙述の中心にすえたり、革命派と立憲派の抗争を1900年代の最初の十年間の歴史として語ることは極めてまれになってきている。
■5.日露戦争
(1)日露戦争をめぐる日中関係では、日中間で大きな論点の違いがあるように思われる。日本では、日露戦争の勝利は「専制の立憲に対する勝利」、「白色人種に対する黄色人種の勝利」などとしてアジア諸民族からも歓迎され、各地のナショナリズム、立憲運動に影響を与えた、というものであるが本当か[4]。日露戦争の影響があってこその立憲運動、革命運動だったのか?戦前期には、中国(清)が善意の中立をして、日本を支持したという論調も見られるが・・・? ⇒ ★中国側ではそういった理解はしていない。日露戦争は、あくまで中国の利権をめぐる帝国主義間戦争であり、中国は被害者だということである。日露戦争の結果、日本はいよいよ中国に対する領土的野心を露にし、南満洲利権を掌握していくことになると説明される。これは、ロシアの侵攻に対して日中共同で戦い、アジアの民族運動などに勇気を与えたという論調とは大きく異なる。
(2) このような日露戦争観の相違は、1930年代に既に存在していた。
〈史料〉【国際連盟での松岡洋右と顧維鈞の応酬】
(松岡)日本は支那の統一を妨げたと云ふけれども、支那共和国を救ったのは日本である。(中略)日露戦争の結果、李鴻章は南満を日本に割譲する下関条約に調印すると共に他方、露仏独三国をして所謂三国干渉を行はしめ、戦争の結果を奪ひ去らしめた。而も翌年支那はロシアと攻守同盟の密約を結んだ。その為ロシアは南下し、南満は勿論、朝鮮国境にまで迫った。日本は余儀なく戦ひ、満洲の地を取り戻し、それを支那に返した。吾々は数十万の生霊を失ひ、二十億円の負債を残した。この犠牲に対して感謝の一言位あって然る可きである。この負債は未だに払い済みとなってゐない。日本はその為め今尚苦しんでゐる。日本国民は満洲問題について支那に対し如何なる感情を持ってゐるかを理解するにはこの歴史にまで戻らねばならぬ。右の密約はワシントン会議の時暴露された。然し日本は何も云はなかった。若し日本がかかる密約を知ってゐたならば日本は満洲全体の譲渡を支那に要求したに違ひない。そうしたならば、今日この満洲問題の如きは起こらなかったであろう。然るに吾々は満洲に何等の権利なき者の如く、又侵略者の如く取り扱はれた。張作霖は南京政府と協力して日本を満洲から駆逐せんとした。如何なる国でも日本と同様の立場に置かれたら、日本と同じ行動を執ったに違いない[5]。
(顧維鈞)松岡氏は日本に大陸政策なるものなし、日本は如何なる国よりも平和を好む国民であり、取るよりも多くを與へてゐると断言されたが、琉球諸島、台湾、朝鮮及び今回の満洲、これ等は今日誰の手中に在るか松岡氏はこれを言わなかった[6]。
■6.日本における留学生の増加と友好論
20世紀の最初の十年間は、日中友好のコンテキストでも強調される。それは第一に、数多くの留学生が日本を訪れた。数的には1905年に一万人弱であるか。留学生と日本人の交流は、魯迅と藤野先生に見られるように、その後の日中友好論に多くの肯定的な材料を提供することになった。第二は、若者が集う場所となった日本が、革命運動、立憲運動などの政治運動の拠点となったことである。日本における政治運動家、活動家の邂逅が、孫文とその友人たちの逸話に見られるように様々な友好物語を創出するとともに、日本の大陸浪人醸成にも強い影響を与えることになった。
●友好論の基盤の問題
光緒新政下で留学生は増加し、日露戦争のおきた1904年から05年、そして06年にピークを迎えるのだが、これは第一に1905年の科挙制度の廃止の影響が大きく、第二に漢字を交えて法政を速習できる利便性(学習記録、学位などはそのまま中国での資格に結びついた)、第三に銀の比価の関係から割高でない授業料、生活経費、第四に上記のような条件に下支えされた政治運動への寛容さなどに由来する。それだけに、1905年末に清国留学生取締規則が発布されると留学生は激減、1908年の第二辰丸事件に見られるように、中国ナショナリズムが日本を標的にすることも見られるようになる。数多くの留学生が日本を訪れること、それは確かに重要なことであった。だが、多くの留学生が来たからといって、それがただちに日中関係の緊密化や良好化に結びつくわけではない。
■7.辛亥革命
革命史観の後退 ⇒ 辛亥革命前後の連続性を強調する議論
⇒ 孫文と日本人の友人たちと云うコンテキストも低調に。
この段階でも日本の対中関与は列強と同調
公文書での「支那」呼称使用の開始
■8.第一世界大戦、21箇条問題
(1)中華民国政府が国際的な承認を受けた翌年の1914年、第一次世界大戦が発生した。この戦争は、中華民国にとって千載一遇の機会であり、1917年に中華民国は大戦に参戦、シベリア出兵などをおこない、パリ講和会議に戦勝国として参加、国際的地位の向上とともに、不平等条約の改正が期待された。しかし、戦勝国であったにもかかわらず、中華民国領土内の山東利権などはドイツから日本に引き継がれることになる。それに対する反発が五四運動である。だが、中国の国際的地位の向上の試みが世界にも、中国の社会にも明確に知らしめられた時期であった。
(2) 1910年代のこの過程は、日中関係の敵対化をある意味で決定的にした。この時期にこそ、日中教科書問題、排日ボイコット問題などの、後に「反日」「排日」の代名詞とされる問題や運動がおきてきているのである。日本は、まさに中国のこのような国際的地位の向上への試みに正面から敵対する存在として認知されたのである。
(3)対華二十一箇条要求は、これまで列強との協調の下に対華政策を展開するという原則に反していた面があるとともに、外交交渉で埒があかなければ軍事力を背景に調印を迫るなどして交渉方法に中国内部から強い反発が提起されただけでなく、さらに調印を迫られた五月七日が国恥記念日とされたように、中国のナショナリズムに強い反日への影響を与え、締結した袁世凱、北京政府への批判を強めさせた。これは、中国ナショナリズムに日本という「単独敵」を設定させるのに十分な外交政策であったのである。
おわりに−「中国」形成期と「支那」呼称問題
(1)日清戦争から五四運動にかけての時期は、まさに近代的な意味での「中国」が形成された時期でもあった[7]。「中国」はアプリオリに「中国」であったわけではなく、王朝の連なりが、清末から民国の初期にかけて次第に主権国家、国民国家としての「中国」として形成、あるいは塑像として形づくられたのである。五族共和などの民族論、のちの中華民族論につながるような民族論や、いわゆる中国ナショナリズムが都市部において表出したのもこの時期である。
(2)こうした中国の創出過程の中で、それまで国際管理に同調していた日本は次第に中国への単独関与を強めていった。それこそが、日本が単独で「中国」史をはじめとする「中国」にまつわる政治符号の中でもっとも否定的に捉えられる根拠となっていく。
(3)日本は、こうした「中国」の形成を受け入れられたのであろうか。「清国」から「中華民国」への変容の中で、日本は中国を公式に「支那」と呼ぶことを選択する[8]。これは「中国」の形成それじたいに否定的なスタンスを取る日本の立場を示すものであったのかもしれない。だが、この中国の形成過程において、中国人が考えた「中国論」に、日本における中国研究が大きな影響を与えたことが昨今指摘され始めている。たとえば、中国を南北に分けて考える議論など、「支那」を「支那」としてみることにおいて中国より先行していた日本の「支那論」は中国自身の自画像に影響を与えたと考えられ始めているのである。
(3)特に日露戦争以降、満洲利権は日本の生命線とされ、一次大戦以降はそれに青島が加わっていく。在華権益はいよいよ日本の国益、国家運営になくてはならない存在になっていく。
(4)19世紀末から20世紀初頭を振り返れば、日本近代が自らを文明国と位置づけるために中国を野蛮国としてきたのと同様、中国もまた、1910年以降、自らを文明国とする努力をし、その中で国際法を遵守せず、軍事力にのみ頼る日本という野蛮国を発見するに至る。中国ナショナリズムだけでなく、近代文明国家建設という面においても、日本は次第に反面教師として位置付けられることになっていくのである。関係の急速な緊密化、相互依存とともに、21世紀にまで影響を与える強い敵対関係が形成されたのがこの時期であった。
最後に−最近考えていること−
東アジア近代史を叙述する上での「第三の路」は??(「敵乎?友乎?」の克服)
[1] 1997年の香港返還に際して、中国が香港「返還」ではなく「回帰」という用語を使用したこと、また交渉過程での中国の返還範囲、その必然性に関する姿勢が重要となろう。
[2] 濱下武志『近代中国の国際的契機』(東京大学出版会、1990年)、同『朝貢システムと近代アジア』(岩波書店、1997年)など参照。
[3] だが、歴史教科書などで見られる「勢力範囲」を示す地図が当時の中国人にも共有されていたかというと疑問が残る。
[4]孫文の大アジア主義講演は実際には1924年におこなわれており、孫文自身の日露戦争当時の反応も鈍かったし、24年の同講演においても、日露戦争に対する東アジアの反応は鈍かったと述べている。なお、昨今、日露戦争百年にあわせて、日本では幾つかの論文集が刊行された。軍事史学会編『日露戦争(一)国際的文脈』(錦正社、2004年12月)、日露戦争研究会編『日露戦争の新視点』(2005年刊行予定)など。
[5]国際連盟事務局東京支局編纂前掲『国際連盟に於ける日支問題議事録 後編』(国際連盟記録刊行会、1932年、42頁)
[6]同上書(44頁)
[7] 岸本美緒「中国とは何か」(尾形勇・岸本美緒編『中国史』、山川出版社、1998年)を参照。
[8] 拙稿「『支那』『支那国』『支那共和国』:日本外務省の対中呼称政策」(『中国研究月報』571号、1995年9月)