「東亞視域中的國籍、移民與認同」研討會
主辦單位: 臺灣大學東亞文明研究中心(代表者甘懷真教授)/日本学術振興会「不平等條約體制下的東亞外國人法律地位之實例研究」計畫(代表者貴志俊彥教授)
日期:2005年3月20日 地點:臺灣大學 東亞文明研究中心演講廳
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中国における外事警察制度の形成
川島 真(北海道大学大学院・法学研究科)
1.「外国人の地位」の重要性と東アジア近代史
「外国人の地位」をめぐる問題は、東アジア近代史にとってきわめて重大な問題である。第一に、1945年以降の冷戦構造下の国民国家時代における人やモノの移動のありかたは、19世紀半ばからの百年間とはまったく異なる状況にあり、それこそが当時の国家関係、地域秩序、経済社会活動に密接にかかわっていた。たとえば、パスポートやビザの制度も現在のような制度になったのは、1945年以降のことである。戦前には、日中間で渡航に際してパスポートが不要であったし、1900年前後までは海外華人が当該地域の植民地政府に「登録民」申請をおこなって、列強植民地臣民と同様の地位を得て中国に再渡航し、治外法権などの特権を享受したということもあった。第二に、こうした外国人の地位問題は、冷戦構造の再構成、またグローバリゼーション時代の東アジアにとって、きわめて現実的な問題提起をするのである。経済活動の面で国境のハードルが下がりながらも、一方でナショナリズムが増幅するという東アジアに共通に見られる現状において、「外国人の地位」問題は不可逆的に進行しながらも、解決に当たってはアンビバレントな性質をもつ問題となっている。そこでは、外交、経済、ナショナリズム、法律、社会秩序、アイデンティティなど、さまざまな論点が複合的に、それも異なる様相の下に密接に絡み合いながら、問題を複雑化している。
このような大きな構造の下で、筆者は自らの進めている中国近代外交史の角度から、ここでひとつの議論をしてみたい[1]。それは、近代中国外交にとっての「外国人の地位」はいかに位置づけられていたのかということである。周知のように、顧維鈞のコロンビア大学での博士論文のテーマもまた中国における外国人の地位であった。では、なぜ外国人の地位問題がそれほどまでに中国外交にとって重要な課題であったのか。それはこの問題が中国をとりまく不平等体制と密接にかかわり、同時にまた解決すべき至上命題であったからである。以下、簡単に中国をとりまく不平等体制について整理しておきたい。
2.中国をとりまく不平等体制の形成
アヘン戦争により敗北し、清朝は「不平等条約」を締結した。清朝自身、当時は「不平等条約」であるとは認識しておらず、むしろイギリス側が「清朝との平等」を求めていたという構図であった[2]。だが、南京条約およびそれに付随する諸条約、協定によって、のちに「不平等条約」の三要素とされる、片務的治外法権、片務的関税自主権、片務的最恵国待遇が定められ、これらは、ロシア、フランス、アメリカの四国にも「均霑」されることになった。また、同治年間には、対象が四国以外のオランダ、イタリアなどの諸国に拡大、1895年には日本もその対象となった(そののち条約を締結していない国もまた条約締結国と同様に治外法権などの特権を享受するようになった。この問題は、第一次世界大戦参戦後にようやく解決された)。
ウェストファリア条約以来の主権国家体制においては、主権国家間の平等が定められていたが、それでも「不平等」な関係が成立できたのは、その平等が「文明国」に限定されて与えられるものであり、「非文明国」であれば、平等性が担保されないことになっていたからである。この文明国という概念はキリスト教的なヒューマニズムに支えられ、法律・制度などの面での近代化、西欧化が要件とされるものであった。従って、「非文明国」が不平等条約を克服する場合には、一般に、こうした要件を満たしていることを国際社会に認められる必要があった。さらに、こうした国際社会における地位を示すものに「一等国」「二等国」といった表現も19世紀には生まれており、清朝は19世紀末には三等国扱いされることになってしまったのである。
文明国と非文明国の図式は、西欧社会とオスマントルコ帝国との関係において形成されたものと考えられている。治外法権についても、1536年、オスマントルコのスレイマン1世がフランス王フランソワ1世に与えたのが最初で、オスマン帝国が外国人に対し恩恵的に認めたものであった。そこでは治外法権、租税免除、安全の保障などが規定されていたが、これがやがて不平等条約として定式化され、ペルシャ、シャム、中国、日本などに拡大していくことになる。
だが、東アジアにおいては、管理貿易下において、外国人を一定地域に居住させ、その範囲内において外国人によって問題を解決させ、当地の人間との紛争においては共同で解決にあたるというのはむしろ自然なことであった。そうした意味で、1871年の日清修好条規で、日清両国が双務的治外法権を認め合ったことは、理解しやすいものである。
だが、近代中国における治外法権は、近世におけるそれとは異なり、本来ならば属地的に支配が及ぶべきところを、当該国が非文明国であることを理由に正当化されたものであり、加えてそれが政治的、経済的、宗教的な侵出行為と密接に関わるものであった。また、属人的に発揮される治外法権は、外国人の旅行権の拡大とともに、問題が拡散していく可能性があった。加えて、治外法権を有する外国人をめぐるトラブルがそのまま戦争として拡大する可能性もあったのである。
3.清末から民国前期の交渉署制度と「中国人」の制度化
では近代中国において治外法権をもつ/もたない外国人をいかに管理したのであろうか。制度的に見れば、清末に各地に成立した対外関係を担当する部署=洋務局などが注目に値する。この機関の中には、外国人を管理する部署ができ始め[3]、治外法権だけでなく、対外関係全般を担当した。この機関は中央政府に直属したわけではなく、総督巡撫の「私的」権限の下におかれることが多かったたが、次第に公式機関とし、中央政府に直属させるべきだとする見解が出始め[4]、奉天と吉林の二省に「交渉司」が置かれた。交渉司使は正三品官で、清朝の正式な官僚システムの中に位置づけられた。またこの交渉司は、基本的に総督に属する機関であった。この後、東北での実例をふまえ、浙江や雲南でも試行され、宣統二年には全国に拡大することになり、外務部が交渉司制度を公式に発布、各省の洋務局は一律に撤廃されることになった[5]。
他方、この宣統二年には、国籍法が定められ、「誰が清国国民なのか」ということが確定された。この法律は、インドネシアにおける華僑虐待を直接の契機とし、華僑保護の色彩をもったものでもあったが、同時に「登録民」の問題を解決するためでもあった。「登録民」は、東南アジアなどの植民地において、当該地域の宗主国臣民と同等の地位を得た華人が中国に戻り、治外法権などの特権を享受したのである。国籍法は、各地での領事館の展開と海外華人の捕捉、こうした「登録民」の国籍を中国籍として認知することなども視野にいれていたと考えられる。外国人管理の問題は、どうじに「誰が中国人なのか」という問題でもあった。
宣統年間には中央集権政策とともに、国家重視の法制整備が進められたが、この傾向は民国初期にも受け継がれた。しかし、のちに国民政府が提唱したような交渉署の撤廃が現実問題として議論されるようなことはなかった。各地で外交案件が頻発していたからである。民国2年5月21日の「外交部特派交渉員及各埠交渉員職務通則」では、民国誕生前後に各地に置かれていた外交司(清末の交渉司)を撤廃し、各省に特派交渉員、それ以外の開港場に交渉員を置くことが定められた[6]。対外事務を中央政府が一元的におこなおうとする方向性が継続していたのだが、依然として外交部と各省への両属状態であった。
交渉署は具体的に何をしていたのであろう。浙江省档案館に残されている『浙江省議会会議紀録』や『浙江公報』を見ると、交渉署の日常業務が外からも見える。第一は「省議会に出席すること」である[7]。第二は「外国人保護」である。浙江省政府の発刊していた日刊の公報である『浙江公報』に、交渉署は連日外国人の遊歴について、実名・目的など具体的に挙げて記事を掲載していた[8]。掲載目的は「保護」を訴えるためである。浙江省交渉署の日常業務は「交渉」ではなくむしろ「保護」であったのだろう。
このようなルーティーンワークの他、具体的な交渉案件にはどのようなものがあったのだろうか。民国初年、四川外務司が交渉署に代わる際に報告書を作成、そこには「四川外務司已未結各案簡明表」(未決・既決の案件表)という処理案件一覧表が含まれている[9]。それを見ると、すべてが外国人殺害案件、あるいは外国人財産の破壊活動による損害賠償案件だということがわかる。中でも、所謂「教案」が多い[10]。
これらの日常および交渉業務を総合すると、交渉署は対外業務を幅広く担当していることがわかるが、中でも領事裁判権に対応した外国人保護など外国人がらみの案件が重要であることがわかる。だが、領事裁判権を担う「領事」は、租界であれば領事警察をもっていたが、この領事警察に対応するような警察機能を交渉署がもつわけでもなく、また領事館が有していた司法機能を交渉署がもつわけではなかった。こうした意味では、この交渉署はあくまでも交渉をおこなう外事機関であって、警察は行政に、司法面は裁判所などに委ねるものであり、領事館に全面的に対置する機関ではなかった。
1920年代半ば、国民党および国民政府は交渉署制度の廃止を訴えた。交渉署の存在が領事裁判権を支えているとしたのは、こうした実状に基づいた見解であった。1928年に国民政府が成立し、30年代の初頭には交渉署制度は東北地区を残して原則的に撤廃され、対外交渉事務は各地方政府に吸収された。
4−1.外事警察制度の背景(1) 人的・空間的な設定
中国における「外事警察」は、交渉署の撤廃と、不平等条約改正(治外法権撤廃に向けての外国人管理体制の整備)への意図の中で次第に形成されたものであると考えられる。国民政府は、治外法権撤廃と法権回復のため、外国人管理をめぐるさまざまな法令を制定していった。これは、パスポートやビザ制度、入国後の旅行、営業、不動産売買などだけでなく、新聞記者の登録制度、外国人による中国での映画撮影にまで及んだ。そして、これらの規則を外国人が違反しないようにさせ、違反した者を取り締まるのが警察の職務として加わり、「外事警察」が次第に形成されていった。
だが、中国国内の外国人の権利、特にさまざまな特権は、自然法的に発生したものではなく、条約内容に規定されているものであるので、一部の国については最恵国待遇によって「均霑」されるとはいえ、きわめて個別的であったし、租界・租借地には警察権が及ばないことが多かった(租界・租借地の法的規定も画一的ではなかった)。従って、たとえば「外人内地雑居章程」などを見ても、不平等条約締結国、平等条約締結国(最恵国待遇を認めない)、条約未締結国それぞれにおける取り扱いが違った。取り締まり事項は、行き先(治安悪化地方への渡航禁止など)、行動(測量、秘密活動、国防関連事情、不都合な内容の映画撮影、鉱山探索、不動産・財産の取得、賃貸など)などであったが、違反者が見つかった場合、無約国民であれば地方で拘禁の上で処罰を決定し、(治外法権のある)有約国民ならば地方官が拘留の上、領事に引き渡すこととなっていた。また、居住地域については、原則として制限が加えられ、内地雑居が認められていなかった。
すなわち、外事警察の行動は人的に、空間的に抑制されていたのである。以下、その人的、空間的な抑制に簡単に触れておこう。
(1)人的管理
(i)領事裁判権享受・有約国
(イギリス、アメリカ、フランス、日本、スウェーデン、ペルー、ブラジル、イタリア、スペイン、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、オランダ、スイス、ベルギー[11])
(ii)領事裁判権非享受国・有約国
(ドイツ、ソ連、オーストリア、メキシコ、ボリビア、ペルシャ、フィンランド、ギリシャ、ポーランド、チェコスロバキア)
(iii)無約国
これらのうち、(ii)(iii)については基本的に中国人と同じ扱いをするが、領事館が設置されている場合には、適宜犯人引き渡しなどがおこなわれることになっていた。
(2)地域的管理
(i)租界(公共租界・専管租界)・租借地
中国側は、租界について、「外国人に居住、貿易、特に永遠的な土地租賃などの司法上の権利を認めたものであるが、公法上の権力は依然として中国に属する」。「しかしながら、中国自身がその公法上の権力を外国側に認めていった」としている。領事警察は本来あってはならないが、外国からの要請に基づいて認めていったもの(回収可能なもの)と位置づけていた。租界よりも外国の権力が強い租借地については、「中国の土地を他国に使用させるものであり、所有権は中国に属し、単に使用権だけが他国にある」という立場をとっていた。従って、財産処分権は他国にはない。また、租借地は軍事的な要求によって制定されたものであり、行政権については条約上の根拠は希薄、としていた。外事警察は渉外事件を担当するものであり、こうした「あるべき姿」に即して業務を遂行することになった。
(ii)そのほか
使館界(外国側に警察権)、鉄道附属地(満鉄附属地=警察権規定、中東鉄路=警察権は曲解)などがあった。
このような人的、空間的な条約の集積体を外事警察は踏まえねばならなかったのである。
4−2 外事警察の背景 (2)外国人管理規定
(1)パスポート・コントロールと外国人の居住・移動
1920年代の中国では、外国人の入国を制限することが既に行われていたが[12]、外国人の入国に際しての画一的なパスポートチェックがわずかに東北部において実施されていただけであった。1929年12月30日には、中国への渡航に際しては在外領事館での中国ビザの取得を定めた(パスポート相互免除をしている日本とスイスだけが例外)。1930年、外交、内政、衛星、財政の四部が「護照規則八条・施行細則十四条」を制定し、発布した。ここでは陸路、海路(空路は未定)の入国地が定められた。各省市ではこれを実施に移し、毎月外交部と内政部に報告書を送付した。1932年11月、内政部は第二次全国内政会議を開催、この場でパスポート・コントロールに実績がある上海市公安局が手続きに統一性がないことなどを問題として、「査験外人入境護照手続規則」、「郵船公司違警規則」などの制定を求めた。内政部はこれを受けて実施模範区を設けて実験することとした。模範区は当然上海であったが、これは外交部も内政部もパスポートのコントロールが実際には困難で、実態を把握できていなかったので、上海で調査をおこない、それで制度設計をするということであった。その結果、外交部が「外人入境護照人簽証辦法」、「内地遊歴護照章程」を、内政部が「外人内地雑居章程」を起草することになり、結果を上海市、総税務司に知らせ、各郵船公司にも徹底することとした。
外国人の居住については、原則として開港場しか認められていなかった。しかし、北戴河や鶏公山などの避暑地は、「地方官の放任主義により」、外国人の居住が認められていたし、他方で学校の教員や技師などが開港場以外の地に居住することは日常茶飯事になり、実質的な内地雑居となっていた。だが、土地の所有については、外国人の土地所有は認めず、ただ租界における租賃および永久租賃を認めていたに過ぎないというのがその立場であった。教会は租界外にも活動範囲も広がるが、その権利もまた租賃および永久租賃に限定されるというものであった。これは、1928年6月の「内地外国教会租用土地房屋暫行章程」で改めて確認している。
外国人の入国、移動、財産取得などもまた外事警察の主要な業務のひとつであった。
(2)外国人の宗教文化活動
外国人の宗教活動については、アヘン戦争後の1844年の五口通商章程で清朝が既に認め、その後の諸条約で宣教師の開港場以外での伝教権も認められていた。しかし、宣教師の「貿易権」は認められていなかったし、内地伝教であるため中国側としては治外法権の外に置かれる=中国の法権に属することが期待されていた。また、中国人であっても、キリスト教信者になると、中国の法権の外に置かれるような印象が中国社会にはあったようであるが、これについても明確に否定されていた(光緒29年中美続議通商行船条約)。なお、日本の仏教およびそのほかの宗教(天理教、金光教など)の布教については、日本政府は1896年の「中日通商行船条約」で規定された(片務的)最恵国条款によって認められているという立場であったが、中国側は外務部の時代から(1905年)、まず西洋諸国に認めたのはキリスト教の布教だということ、また条約での最恵国待遇は商務上のみに規定されるとしていた。
このほか、新聞雑誌の発行も中華民国の出版法を遵守することを外国人に求めていた。治外法権を有する国の国民に対しては遵守を求めることに困難があったが、それでも発行前の登録、発行後は二部内政部に届ける、中国国民党・三民主義/国民政府・中華民国を破壊、転覆することを目的としたもの、また公序良俗・公共秩序に反するものは認めないといった規定を設けていた。また新聞雑誌を書留で郵送する場合に、政府による許可証がないと送れないようにしていた。
外国人の著作権も問題であった。中華民国は、1930年代にあっても「著作権公約」にサインしていなかったのだが、1903年の中美条約(11条)、同年の中日通商行船続約(5条)において、それぞれ出版および著作権を承認している。だが、上記の出版規則、また1923年のジュネーブ条約(「禁止淫刊公約」)も治外法権保有国に適用されることとしていた。このほか、外国人の新聞記者の登録制、および取材規制などもおこなっていたし(「外籍新聞記者註冊証規則」など)、銃の所有、狩猟、測量・地図作成、華工募集、電話などの敷設、領海内での漁業などについて多くの規定が設けられていた。
これらの規定は、治外法権享受国には十分に適用できない部分もあったが、著作権や出版の部分で登録をしないと書留で郵送できないようにしていたように、最低限のルールは守るような規定を設けていたのである。
5.外事警察制度と業務
(1)組織
興味深いことに、外事警察についてはその制度を画一的に定めた規定はなく、上記のような外国人関係の取り締まり規則に対応した人員、制度を各地の警察が整える中で、「外事警察制度」が形成されていった側面がある。中華民国の首都が置かれた南京では、当初首都警察庁保安科第一股が担当、1933年9月に第二股が外事を担当するようになった。人材面では、1933年7月に訓練班を設け、中学以上の学歴および外国語学習歴(優秀者)を採用して、その訓練班で半年間の研修をさせてから、外事担当としていた。こういった制度は各地でまちまちであったが、北京(北平)では、清末に警察庁が成立した際に、行政処第二科で外事を担当し、ノルウェー人の顧問を雇って保安隊を組織して外国人保護にあたった実績があった。民国期は基本的に第二科交通股が外事を担当した。湖北省では、1930年に交渉署が実質的に撤廃され、外国人管理業務は公安局第二科に引き継がれ、業務が多いのを理由に1932年に外事股が設けられ、科員4名が配された。
南京をはじめとする四特別市、また威海衛行政区、また各省それぞれで外事警察案件に関する組織が設けられていた。河北省は公安局外事科を、上海市も公安局第二科外事股を設けていた。だが、青海、甘粛、寧夏、貴州においては、外国人の来往、居住者が少ないことから、特に組織を設けず、地方政府および普通警察において担当していた。このような、制度、人事、予算面での相違は国民政府にとって改善すべき課題として意識されていた。
人員については、首都南京と青島で研修制度が設けられていたが、そのほかの地域では外国語に習熟していることなどが条件となっているだけで、国際法、条約などに関する訓練システムが整備されているわけではなかった。
(2)業務内容
ではこうした外事を担当する警察は何をしていたのであろうか。ここでは南京市を例に業務内容を見てみたい。まず毎年「外国人戸籍調査表」が作成された。外国の軍隊、警察、軍艦および大使館・公使館職員などについては、外交部が名簿を作成した。パスポートのチェックおよび内地遊歴許可などの業務は警察ではなく南京市政府が担当であったが、警察側が協力することが求められていた。しかし、1934年から再び外交部がこの業務をおこなうようになっている。外国からの航空機が来た場合には、外交部か軍政部航空署から南京市政府に知らせ、首都警察庁および社会局が飛行場で外国人をチェックすることになっていた。そして、学校、医院、工場、銀行などの外国人、また外国人の雇用している中国人、スパイなどは、首都警察庁が注意、調査をおこなっていた。北平では、武器売買と麻薬売買などが調査対象となっており、後者については「朝鮮人」をターゲットとして調査することになっていた。
一般的に、外国人の入境管理、外国人の登録、外国人の経済・活動調査といった基本業務を中心として、スパイ活動、武器売買、麻薬売買の取り締まり、外国軍隊などの調査といったことがあった。このほか外国人保護も重要な業務であった。だが、こうした業務の実態は、必ずしも制度がそのまま体現されていたとは言いがたい。また日本人を代表として、外国人側もこうした規定に従っていたわけではなく、治外法権を理由に無視する傾向もあった。だが、外事警察制度の形成は、中国の治外法権撤廃交渉、また法権回収への後ろ盾となったであろう[13]。
おわりに
以上、中国で外事警察制度が形成されてきた状況を1930年代の前半を中心に概観してきた。近代中国は、「法権」の観点から見れば地域的にも人的にも極めて重層的な場であり、戦後の国民国家の原則から考察することは難しい。そうした意味で、当時の先進国の設けていた規定をそのまま適用するにしても、数多くの実施細則を定めなければ施行できず、また制度が複雑になればなるほど実効性が落ちるという問題性を抱えていた。
しかし、「治外法権」は、1919年の無約国国民の取り扱いを中国人と同じにするなどの政策をおこなってから、この国民政府期にかけて、次第に形骸化されてきていたといっても言いだろう。これは、条約交渉とは異なる次元での「国権回収」であったとも考えられる。そうした意味で、治外法権があったということだけでは、中国における外国人の地位を説明することはできないだろう。実際には多くの規定が設けられ、「外国人の地位」は次第に「中国人の地位」に近づくような方向付けがなされていた。そして、そこでは外事警察機能が一定程度機能していたのである。
本稿は、従来ほとんど先行研究のない本分野における問題提起である。今後は档案などを見ながら、事例研究を重ねていきたい。
[1] 川島真『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会、2004年)参照。
[2] 茅海建『天朝的崩溃—鸦片战争再研究』(三联书店、1995年)
[3] 王立誠『中国外交行政』(甘粛人民出版社、1991年、pp.183-186)
を参照。また、教案がよく発生するところでは、教務局という機関が見られた。
[4]『清末籌備立憲档案史料』(pp.510-511)なお、この時期に独立性の強い交渉署が東三省に設けられたことが、後の同地の交渉署業務に与えた影響も一考に値するテーマである。すなわち、国民政府期に入って張学良が東三省の交渉署の存続に拘った背景につながる可能性があるからである。
[5] 『政治官報』(折奏類、1014号)に掲載された通則は以下の通りである。(1)既設置省:奉天・吉林・浙江・雲南
(2) 新規設立:直隷・江蘇・湖北・広東・福建(3)漸次設立:安徽・江西・湖南・広西(4)設立見送:黒龍江・山東・山西・河南・陜西・甘粛・新彊・四川・貴州
[6] 『外交年鑑』〈上・行政門〉(P.44-46)このほか「特派各省交渉員各例草案及各埠交渉員職務通則」(北洋政府外交部档案、南京第2歴史档案館所蔵、1039-226)
[7] 『浙江省議会民国十年常年会議事録』(議事録第10号、民国10年11月11日、浙江省図書館古籍部、325.5124-3239.61)
[8] 「江蘇特派交渉員函請属保護日人後藤朝太郎等遊歴浙江由」(『浙江公報』1921年9月5日、浙江公省訓令97号)など。
[9] 「四川外務司呈造本司已未結各案簡明表冊」(北洋政府外交部档案、南京第二歴史档案館所蔵、1039−247)
[10] 「四川外務司呈造本司事実成績簡明表冊」(同上档案)
[11] ベルギー、デンマーク、ポルトガル、イタリア、スペインは1928年条約で暫時領事裁判権を認め、スウェーデンは領事裁判権を定めた条約の期限が来ているのに新条約を締結していないために、実質的に継承している状態、日本は実質的に黙認されている状態という。
[12] たとえば、1921年の中墨暫行条約では相互に労働者の入国を禁止し、入国を一定財産を持つ者に限定している。また無約国人は1919年の「管理無約国人民章程」によって、その入国に際して、パスポートチェックおよび身分調査がおこなわれることになっていた。
[13] 4および5の記述は、趙炳坤『中国外事警察』(内政部警政司主編、商務印書館、1935年)、内政部警政司編『中国警察行政』(内政部警政司主編、商務印書館、1935年)などを参考にしたが、日本側にも中国側にも数多くの文書・档案史料がある。調査検討は今後の課題としたい。