「アジア・エリートの比較社会史−近代を中心に−」
20041128日、東京大学東洋文化研究所)

 

「科挙官僚とプロフェッショナルをめぐって」

川島 真(北大院法学研究科)

                                                     

shin@juris.hokudai.ac.jp

 

119世紀末から20世紀初頭における知識人の変容の問題

●坂野正高『中国近代化と馬建忠』(東京大学出版会、1985年)

「彼(馬建忠)の思想全体を、その思惟構造の内側からえぐって明らかにした研究はまだなされていない」(5頁)

「李鴻章幕下の有力なるサブ・リーダーの一人としての馬建忠の思想と行動の挫折の全体を、十九世紀後半の中国の政治社会というコンテクストの中で包括的に跡づけてみることができるならば、そうした研究は、『伝統主義的』な旧中国の政治・社会・経済の苦渋にみちた変動の過程を明らかにする一助ともなるのではなかろうか。」(5頁)

「中国の場合には馬建忠が考えたような意味での専門外交官という発想が定着し始めるのは辛亥革命以後のことと推察されるのであるが、それほどに、一九〇五年に漸く廃止されるに至った科挙制度のもった重みは大きかったのである。…馬建忠の発想とはちがった、中国の官僚社会の伝統的な発想をふまえての外交官養成論としてはどのようなものがあったか。清末の改革思想や革命思想の中で、専門外交官というものはどのように考えられたか。それはまた、外交官以外の専門職業−たとえば、法律家、医師・陸海軍士官・鉄道技師等の養成問題とどう関連づけて考えることができるか。また、どう現実に考えられたか。問題を中国史の内側に限っても、なお研究すべきことは沢山あるやに思われる。」(4546頁)

●佐々木揚『清末中国における日本観と西洋観』(東京大学出版会、2000年)

「本書は、一般に洋務運動期と呼ばれる一八六〇年ごろから九〇年代初頭までの中国において、清朝の官僚たちが日本と西洋をどのように眺めたかという問題を、これまでの研究でほとんど論ぜられていない事例に即して検討し、この時代の政治・思想情況を文人官僚の対外観という視角から捉えなおそうとするものである。」(@頁)

「筆者は、冊封体制論あるいは朝貢貿易システム論は一九世紀東アジアの国際関係や交易の構造を理解する上で有効な方法であると考えている。ただ本書での考察に関連して注意すべきは、これらは現代の研究者が過去の東アジアの国際関係を分析、説明するために設定した概念・枠組であって、一九世紀の清朝の官僚や士大夫がこのように考えていたわけではない、ということである。…朝貢システムとは、中国とのここの朝貢諸国との間に見られる『複数の関係の束』であり、同時代の中国人の認識はこれを越えるものではなかったと考えるのが適切だろう。彼らのとっては、冊封体制あるいは朝貢システムといった構造よりも、中国文化―郭嵩Zによれば『礼教政教』−が及んでいるかどうかこそが、中国・外国関係を見る上での基軸であったと言ってよい。」(288頁)

「戊戌変法期に動員された外国知識の多くは、士大夫たちが中国在来の学問方法によって獲得し記述したものであったといえる。このように見れば外国に関する知識の内容という点については、洋務運動期と戊戌変法期との間には、断絶よりもむしろ連続を認めることができる。…このように二〇世紀初頭、中国の知的情況は激変する。我々はここに、外国知識とりわけ西洋の学問・思想の受容とこれに基づく改革構想という側面から見た場合の、それ以前の時代のとの断絶を見出すことができるであろう。」」(295296頁)

 

【変容の過程、についてはなかなか説明されず】

 清末の見直し、同時代的コンテキスト、しかし1900年代以降への変容過程について説明されず

 

2.一つの説明=佐藤慎一『近代中国の知識人と文明』(東京大学出版会、1996年)

 

20世紀前半の知識人柯劭サ、陳寅恪への注目

 柯劭サ 

⇒ 「中華世界観に徹底して少しの同様も見せなかった、旧学最後の知識人」(貝塚茂樹)(11頁)

 「彼が最後の人であったのは、中華世界に徹底した態度を貫くこと自体が二〇世紀の中国ではもはや不可能になっていたからである。…だがそれから半世紀あまり遡る十九世紀半ばの中国においては、事情は全く異なる。そこでは、柯劭サのようなタイプの学者が、孤立した少数派ではなくて、多数はであった。しかも単なる多数派ではなくて、知識人世界の圧倒的な多数派を占めていた。加えて、彼らは単なる学者ではなく、同時に官僚として合成を担う存在であった。」(11頁)

「いわゆる『西洋の衝撃』に晒された十九世紀後半の中国において、政治を担い、各方面にわたる改革―とりあえず『近代化』という言葉で一括しておく−の任務を担当することとなったのは、学者=官僚である士大夫たちであった。別な言い方をすれば、あたかも柯劭サのような学者が、官僚としての立場で、近代化の任務を担当したのである。それゆえ、十九世紀後半の中国の近代化には、善しにつけ悪しきにつけ、士大夫の精神構造が刻印されている。」(13頁)

 

18601890年の洋務運動 ⇒ 日本と比べて「文明開化がなく」と「附会があった」

「士大夫の精神構造」(15頁)

   文明開化 ⇒ 士大夫が西洋の長所として認めたのは機械技術と自然科学だけ(これらはいずれも、文明にとって本質的な構成要素とはいえない)。「同時代の世界において、中国以上に完備した礼秩序を有する社会が有り得ないことは、士大夫にとって自明の前提であり、それゆえ、礼秩序そのものが可変敵にであるとしても、中国が夷狄である西洋にならって自らの礼秩序を変更しなくてはならない理由は、どこにも存在しないのである。」(14頁)

   附会    ⇒ 「外来の事物を中国固有の事物に結びつけることによって、その導入を正当化する論理を指す。…中国文明には、本来、全てが備わっていなくてはならないはずで、たとえ文明にとって末梢的なものであったとしても、自然科学や機械技術が中国に欠如しているという事態は、彼らにとって説明することが困難な事態だったからである。かくて動員されたのが諸子百家の書である『墨子』であった。…このことをもって、士大夫たちは、『西学』の源流が中国に存在すると断定した。西洋の自然科学や機械技術は中国に起源を持ち、それがインドを経て西洋に伝えられ、現在のような隆盛を見たというのである。それゆえ、士大夫たちの理解によれば、西洋の自然科学や機械技術を導入することは、決して西洋の模倣ではない。それは本来自己に備わっていたものを取り戻すことなのである。」(15頁)

士大夫の評価をめぐって

「士大夫に対する歴史的評価は、近代化論者においてもマルクス主義者においても、共に低い…だが、そのような評価は、士大夫に対する評価として、はたして適切な評価だろうか。」(16頁)

「たしかに士大夫は、西洋の制度―たとえば議会制―の導入に対して積極的ではなかった。だがそのことは、はたして非難に値することであろうか?」

「あるいはまた、士大夫は、実際に『無知』で『無能』な人々だったのだろうか?」

     ⇒「近代化論やマルクス主義の前提[]する価値基準を括弧に入れ、中国文明自体の価値     基準に照らして評価する限り、科挙の難関を自己の能力によって突破した官僚となった士大夫は、平均的に見て、紛れもなく優秀な人材であった。」(17頁)

★ ⇒「士大夫にとって、古典や先例から外れる独創的な解答を模索することは、不可能に近いほど困難なことであった。…さらに、古典や先例の中に正しい解答が存在しないことを認めることは、士大夫の自己否定につながることであった。・・・危機への対応策を模索する士大夫たちは、古典や先例の中に正しい解答を求めるほかはなかった」 (19頁) 

条約港知識人

 洋務運動を具体的に遂行する上で必要となった新たな専門家集団(20頁)  

 「科挙や士大夫の在り方に対する批判を開始したのは彼らであった」

 「条約港知識人たちが、西洋の『富強』の原因として新たに注目したのは、西洋社会の諸制度であり、とりわけ政治制度(特に議会制)と教育制度(特に学校教育制度)であった。」

 「だが、条約港知識人の数は限られ、中国政治に対する彼らの影響力はそれ以上に限られていた。」 

 「だが、一九二〇年代までに、知識人世界における多数派と少数派の関係は入れ替わっていた。…大多数の知識人は、かつての士大夫と異なり、思想内容や思考方法において西洋学術の強い影響を受け、のみならず、思想表現の方法において西洋学術の強い影響を受け、のみならず思想表現の手段においても、荘重な古典文言文の使用を否定し、日本製の語彙をふんだんにちりばめた、口語に近いはく和文を用いていたのである。このことは、日清戦争の敗北から一九二〇年代に至るまでの間に、中国の知識人世界に、地殻変動ともいえる様変わりが生じていたことを意味する。」(21頁)

 

日清戦争から一九二〇年代における知識人界の地殻変動

【背景】日清戦争の敗北、1890年代後半の「瓜分の危機」、1900年の義和団戦争、新政の開始

(1)最大の要因 ⇒ 科挙の廃止 ⇒ 士大夫の権威に決定的打撃

  「中国社会を千年以上にわたって維持してきた根幹的な仕組みを廃棄し、知識人の在り方に根本的な変更をもたらす出来事であった」(22頁)

   ★留学生の増加に

士大夫の候補生が、自らの意思で、一世代前の士大夫が中国の伝統学術の優位を確信していた分野の学術を習得する目的で、留学した。

   ★成功の階梯の多様化(「新科挙」は十分な補償なし)

    実業、ジャーナリズム、諮議局・地方自治、教育、士官、革命家。 

  「社会的階層としての士大夫が復活することは、もはやありえないことであった」(25頁) 

(2)智識階級の誕生

   清末の流れが民国期にも受け継がれる。新式学校、高等教育機関の展開。「西洋学術伝術のための、知の回路が出来上がったのである。そして、高等教育機関で学び、かつ教育や出版などの文化事業に携わる者が増えたことを背景に、インテリゲンチャの訳語として『智識階級』という言葉が作られ、用いられるようになる。」(26頁)  

 ⇒ 士大夫と新たな知識階級の断絶を明白にしたのは、1910年代後半に展開された新文化運動である

   「白話の使用」 ⇒ 士大夫の使用する古典文言文、表現形式を否定。

               「新文化運動が標的としたのは、儒教の学術的側面というよりは、社会制度と結びついた、儒教イデオロギー的側面であった」(27頁)

   「民主と科学」を儒教のイデオロギーに代わって対置

(3)知識人と政治の関係の曖昧性

   士大夫は官僚でもあり、政治と関わることは前提。

   陳独秀、柯劭サ、そして陳寅恪

   しかし、「社会に対する深い関心と使命感を持ち、知識人が知識人の資格と責任感において社会参加することが、知識人のあるべき行動のあり方」(34頁)

 

◆中華人民共和国時期

  「臭老九」の一つである知識人

  天安門事件に先行する民主化運動では、「五四運動精神」が称揚された。

  しかし、天安門事件後「五四運動精神」は言われなくなる。

「知識人を限定的に解釈」⇒陳寅恪評価の高まり(西洋的な学識、経験がありながら、政治と距離を置いて、斬新で深い研究をおこなった)

  90年代以降の理系の欧米留学集団の形成

「考えてみれば、中国の知識人が専門家テクノクラートの知的挑戦を受けるということは、士大夫にせよ智識階級にせよ、あるいは80年代までの知識分子にせよ、かつて経験しなかったことである。(39頁)

 

3.中国外交界における問題性=拙著『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会、2004年)

  開港場知識人の影響が及びやすいところ。1900年前後における転換については同様。だが変容は急速。新政時期と民国初期の人事制度改革での同様。外交官試験の結果。科挙の廃止、白話運動という動きとは異なる動き。専門的職業外交官とそうでない外政・政治家の間の問題が大きい(国民政府期に拡大)。