北京日記
8月25日(木)
午前、大学院修士課程の面接。システム変更について勘違いして、時間に間に合わず。昼から京都に向かう。岡本隆司さんとお会いできないかと思ったが、台湾にいらしていて会えず。駒込さんは欧州。一人で行きつけの居酒屋に行く。
8月26日(金)
朝から日文研で会議。劉建輝、孫江さんたちが作られた、東アジアにおける「翻訳」、概念形成史に関するシンポ。「封建」などといった言葉の一つ一つの翻訳過程と概念形成史が論じられる。集まっているメンバーが極めて粒ぞろい。劉、孫の審美眼、さすがである。熊月之先生の「大統領」のものが、ちょうど『アステイオン』に提出したばかりの米中関係史の論文に深く関わり興味深い。劉さんから「外交」についてやって欲しいと言われる。章清、馮天瑜先生らと多少議論できて有益。北京のセンターのときの学生の孫建軍さんが北京大の日本語系の講師になっていて驚く。黄自進さんに依頼された、台湾と日文研との交流の件、前向き。台湾行きのビザの件、駐日経済文化代表処から電話。調整していただくことに。夕方、札幌に戻り、会食。
8月27日(土)
公共政策大学院社会人入試。地方議会議員、地方自治体職員など多様な受験者。話しているだけで勉強になる。松浦先生のシンポの原稿、なかなか進まず。26日に講義のレポートを締め切ったので、採点を始める。夕方、会食。
8月28日(日)
松浦シンポの原稿進まず。そのほかの仕事も進まず。
8月29日(月)
午前、久しぶりに遠藤さんの部屋でゆっくり話す。それでも昔に比べれば短時間か。互いに忙しくなった。後期のグローバリゼーション研究会のセッティング。昼、役所からの聞き取り。中国台湾情勢、それと今回の日本の選挙との関係などについて。午後、前期試験の公共政策大学院分を終了。ホームページに講評をアップ。夜、8月から嘉義大学に赴任した曾碩文が帰ってきていたので、学生と公共政策の新任の佐藤先生を誘って会食。
8月30日(火)
朝5時ごろ、週末のシンポジウムの原稿があがり、主催者の松浦先生に送る。テーマは「広東政府論」。拙著の焼き直しだが、広東政府が広東にあったことの中国近代史における意味や日本にとっての広東政府など、新しい論点を少し加えた。未提出の原稿があまりに多く、なかなか作業が進まない。大学では、『新民報』という新民会が華北で出していた新聞を書庫で見ている。またラジオ関係の論文集の原稿の修正を継続。前期講義のレポートの採点が膨大。昼に公共政策大学院の財務・施設関連業務の引継ぎ。9月から海外に出るため。夕方、南京大学の陳紅民先生が到着。北大にいらしている黄自進先生のはからいで観光の手配が順調にすすむ。夜は、院生を連れて陳紅民先生と。両岸三地の中国近現代史研究・院生会議形成の過程について話をうかがう。陳さんとの宴席の後、別の会食に。東大の高橋直樹先生がいらしていたが、お会いできず。
8月31日(水)
夜中はラジオ論文集の原稿、全体3本のノルマのうちの最後の一本(満洲国とラジオ)に重点を置く。朝7時50分の便で上京。岩波の歴史史料集の史料チェックで東洋文化研究所にいく。DavidsonのThe
Island of Formosaは崩壊寸前。貴重な蔵書である。また、吉澤さんが指定された史料を見ていると、拙著『中国近代外交の形成』でしっかり論じられなかった部分が系統的に編まれている。ありがたい。夕方からコピーをする人が増えてきたので、久しぶりにルオーでコーヒーを飲む。南京大学から曹大臣先生が成田に着いたが、中村元哉君から連絡があり、成田宿泊なので東京では会わないことに。曹先生には、中国における台湾関連人材を輩出する南京大学の台湾研究所を紹介していただくことになっている。8月は海外の学会参加をすべて断ったので、南京大学のシンポもいかなかった。夜、内閣府GSG研究会。選挙動向と選挙後のことについて。毎回のことだが、きわめて勉強になる。会後の宴席はご一緒せずアルコールを抜く。茅海建先生から北京でのスケジュールが送られてくる。結構タイトである。こちらから、外交部档案室などを新たな訪問先として希望する。
9月1日(木)
朝、東洋文化研究所に昨日終わらなかった複写をしに出かける。李鴻章のものなど。11時には切り上げて空港に向かう。機内で、ラジオ論文集の「満洲国とラジオ」が終わる。『宣撫月報』にある満洲ラジオの内容は、今回は盛り込まず、岩波の『近代日本の学知』のほうにいれることにした。ファイルを新千歳空港から発出。論文集への個人としてのノルマは終わり。大学に着くと、提出書類の山。これらを処理するだけで時間が消えていく。週末のシンポジウムの報告時間が急遽土曜から金曜にかわる。金曜といえば明日である。台湾に台風が上陸し、数名が間に合わないため。しかし、長栄航空は、2日の朝3時に飛行機を飛ばし、何義麟さんはそれで来るという。台風の旅に対応が混乱して信用をなくしている日本アジア航空は、夜中の3時に飛行機を飛ばす勇気はなかろう。報告が金曜日にかわったため、土曜日は公共政策大学院入試の業務をまっとうすることに。加藤陽子先生から「押しかけ弟子」の紹介。東大の院生が九月に北京に来るという。青山治世君からも北京の人民大学に着いたとの連絡あり。西英昭くんから、先の台湾の旧慣調査に関する論文の続編が届く(「土地をめぐる『旧慣』と『台湾私法』の関係について」、『法学協会雑誌』122巻8号、2005年8月)。前篇は台湾の中央大の鄭政誠さんにコピーを差し上げた。若手の研究が本当に進んできている。大学院修士課程の前期のレポートの採点を終えて講評をホームページにアップする。
茅海建先生からメイル。北京到着翌日(9月7日)の北京師範大学での講演については、「民国時期的中日教科書問題」でおこなうようにという。勺園のネットワーク状況はよろしくないという。唐啓華先生は、ワイヤレスランではいっているという。北京で使えるものがあるかどうか…。163の上網カードで何とかなればいいが。拙稿「抗日勝利日−歴史記念日の揺らぎ」(『中国研究月報』59−8号、2005年8月、<光陰似箭>、P48-49)が公刊される。講談社の『本』に掲載されたエッセイと同じ内容だが、資料を多少変えてある。同じ号に、安藤潤一郎君の平野聡さんのチベットの本に関する書評が掲載されていて、一読した。『歴史学研究』に掲載されていた石濱裕美子先生の対平野本書評の辛らつさに比べて穏当。また北一輝の中国論に関する論文も掲載されており、一冊、4階の黄自進先生に届けにいく。北海学園大学の藤岡喜久男先生から手紙が来る。9月10日の北海の研究会で話されるという(「正統と異端−中国近代史における張謇に即して」)。貴重な機会だが北京なので参加できない。残念至極である。院生を派遣することを考えたい。
9月2日(金)
定期試験レポートの採点が進まず。落ち着かず、すごく久しぶりに部屋の掃除をしたら、大きなゴミ袋二つになる。
昼に諏訪一幸先生と彼の元で中国語を学び、中国留学を志す学生さんと食事をとる。
午後は13時半から松浦シンポ。多くの知己との邂逅に嬉しくなる。第一セッションで広東政府論という報告をおこなった。これはこれで一つの世界。掘り下げていく可能性があると感じた。コメンテーターの久保亨先生から有益なコメント。広東政府の帝国性については、頓珍漢な回答をしてしまう。レセプションの時にフォローしてくださり、ようやく趣旨を理解する。極めて重要な論点。少数民族地域を多く抱えた西南、広西、それに支えられた広東政府の問題。また、松浦先生からは、広東政府のことをもっと続けてはどうか、また本ができるのでは、と励まされる。籠谷先生の、日本人は中国は分裂させたがるが、インドは一つのものとして捉えようとするのではないか、また結局のところ華僑たちにとって頼りになる省政府はあったのかという問いに刺激を受けた。レセプションでの若林先生の挨拶はふるっていた。「歴史に戻りたいと思ってシンポに来るたびに、ああ戻るのは無理だと思う、でも皆さん私が後ろから見ていることを忘れないで。」レセプション終了後、久保先生、貴志先生とワインを飲みに行く。また新しい共同研究が出るかも知れず。帰宅後、アメリカ国務省のIVP関連の会合が、9月22日に総領事館であるとの知らせを見る。北京滞在で出られず、残念。
9月3日(土)
抗日勝利日。「紀念抗日勝利六十周年大会」が北京で開催される。反日デモなどの混乱はなし。また、反ファシスト闘争を掲げていながら、ドイツ、イタリアは触れられない。また、今年は東京裁判の結果について言及。それが不動のもので、挑戦を受け入れられるものではない、とした。明らかに日本の言論を意識した発言。中国の国家主席の発言が、日本の言論に対応する時代になっているが、このような場での発言が果たして日本に届くのか。お互い様の問題であるが、コミュニケーションの問題として大きな課題になっている。あとは国民党、台湾との問題である。中華民国史の位置づけに微調整がなされる可能性を感じる。近代化とともに、抗日をいっそう強調する可能性がある。最後は、日中友好、日中共同声明、日中平和友好条約、日中共同宣言の遵守が謳われる。
北京に居る孫安石さんからメイル。記念行事で、あらゆるテレビ番組、学生のクイズ番組までもが抗日戦争の問題が出て、「それがなかなか難しい(笑)」とのこと。また『中国青年報』がなぜ9月3日が抗日勝利日となったかという記事を掲載したという。
午前中、公共政策大学院入試。
ラジオ本の編集作業をしておられる貴志さんを手伝えず。シンポの中国語翻訳問題の調整が終わらず。「在郷軍人会」、これの中国語は「退役軍人」ではなかろう。明日の朝まで持ち越しになった。陳紅民先生から『函電里的人際関係与政治』(三聯書店、2003年)を頂く。すでにハワイ大学のレビュー誌で大きく取り上げられたという。また、中韓関係史の資料状況について情報交換。彼も史料漁りをしているようだ。また台湾の李盈恵先生からは『抗日與附日』(水牛出版社、2003年)をいただく。シンポにはあまり顔を出せず。
終了後、近藤正己先生、駒込武先生、貴志先生と寿司を食べに行く。二次会は、ニッカのウイスキーを飲みにバーに。帰宅後も、採点進まず。北京に行くまでに終わりそうにない。
9月4日(日)
何とか駒込さんの訳が朝できあがってくる。今度は大丈夫。
朝、8時半、貴志先生と待ち合わせ。偶然、弁護士の中川明先生に出会う。
松浦シンポ。午前中は司会。アジア主義と東アジアに関するセッション。蘇維初先生が、汪兆銘についてコラボレーターとしてみる観点を提示し、アジア主義思想、東亜聯盟運動などについて、汪の関与の低さを強調。日本人に否定的側面をかぶせながら、ではあるが、新しい観点である。駒込先生の報告。オランダ船ジュノー号の問題。反英運動の震源地、一種のアジア主義的な思想の発源地となった台湾の位置を浮き彫りにした。松浦先生の基調講演にぴったり嵌る報告。今度、台湾に行ったときに、王泰升先生のところで、台南州、台北州の裁判記録などを見せてもらえば、新しいことがわかるかも知れない、と考える。何義麟さんの報告は、台湾の一種の左派運動の研究。その盛衰から、当時の台湾知識人の苦悩を描く。彼の研究は、どんどん深化している。台湾政治思想史が形成されるのであろうか。松浦先生の報告は、情報戦について。田中上奏文が、王芃生らによって偽造されながらも、それが華僑ルートにのって広まっていくさまを描く。王の怪しさこそが今後問題になるが、服部さんの論文を読んだ後だったので、いっそう新鮮であった。議論は活発。ナランゴア先生からは、アジア主義、大東亜共栄圏といった思想の起源を、中国型帝国、イギリス型帝国の異なる文脈で理解する方向が提示される。
午後、シンポには参加せず、ラジオ関係の仕事。挿絵、また表紙など。書庫にて、何とか各章ごとの写真などがそろう。しかし、まだ原稿集まらず。懇親会には出ずに自宅へ。
自宅に浅野豊美『帝国の解体と米軍が見た日本人・朝鮮人の引揚げ』(現代史料出版)が届けられていた。引き揚げのありかたを考えるよい写真資料集。
9月5日(月)
朝から荷造り。荷物が多い。論文がぜんぜん終わらないので、資料を入れていくと山のように。大きなスーツケースを出す。かばん三つに。こんなことは珍しい。荷物を減らす意味もあり、資料の一部を複写するためにコンビニへ。『日本国志』や台湾民主国関連の書籍。
朝8時半に貴志さんと待ち合わせ。あまり作業を手伝えず。
北京に持っていく拙著が足りず、生協に買いに行く。二冊入手できた。
台中に居る松金さんに電話。10月末に台湾政府が主催する会議についての報告内容調整。また11月頭の石田浩先生の台湾研究会での報告について。10月末の会議については、戦前期からの日本の台湾研究について政治、経済面から概括予定。アジア経済研究所にいらした笹本武治先生の論考を手に入れられるだけ集める。戦後台湾研究の嚆矢。午前中、スタッフ会議などがあり、また人の出入り、電話が多く、対応に追われる。昼食をとる時間もなく、15時から教授会。終了後、空港へ。荷物が重く、徐年生君に一緒に駅まで運んでもらう。歩きながら、博士論文の残りの数章について設計図を描く。戦後日台関係史を描きなおすものになると期待。研究室の管理は渡部直子さんに任せる。
電車の中、機内で『中国研究月報』に掲載予定の書評原稿の校正をする。民国史研究会の『民国後期中国国民党政権の研究』。読み応えがあった。あと『アステイオン』に掲載予定の「中国におけるアメリカ外交」の校正も併せておこなう。1940年代後半の注目すべき反米運動である沈崇案についてもう少し研究したい。シンポのとき、何義麟さんに教わったのだが、この沈崇案による反米運動が台湾でも展開され、それが二二八事件にも関係するという言説には注意が必要とのこと。このあたりの連動とか関連性とかは難しい。過大評価、過小評価をどうするべきか。
台風の接近で東京も雨模様。大きな荷物を東京駅のコインロッカーに放り込みホテルに。
9月6日(火)
日本台湾学会のウェブサイトから創立大会の内容をダウンロード。自分の書いたものだが、自分のPCでファイルがどこにあるかわからず。日本台湾学会の創立は99年のこと。懐かしい。
電車の中で校正を終わらせ、空港から『アステイオン』の原稿をファックス。機内では、なんとネットができる。欧米路線で採用になったシステムがアジア線にも導入されている。しかし、ネットで遊んでしまい、明日に予定されている首都師範大学での講演原稿が進まず。『人民日報』を読む。反ファシスト/抗日勝利六十周年の記事が数多く掲載されている。まだ中央レヴェル。これから現場および地方におりていくのだろう。特徴は、台湾を巻き込み、国民党の抗日戦争への貢献を高く評価していること、日本への直接的な非難は押さえ気味にしているということが特徴だろう。
空港はとてもスムース。荷物を待っていると孫安石さんから電話。空港の国内線に居て、これから上海に行くという。近くに居るのに会えなくて残念。入国審査を終えて外に出るが、茅先生の派遣した学生さんがいない。30分ほど待ってやっと登場。そのまま北京大学へ。
勺園に着くと茅海建さんが待っている。勺園はとても古い。茅先生とスケジュールについて相談。タイトスケジュールである。
9月6日 夜 北京大学歴史系による晩宴
9月7日 午後 首都師範大学歴史系での講演、晩宴
9月8日 夜 唐啓華先生 北京大での講演に出席
9月9日 夜 両岸三地院生会議の晩宴
9月10日−11日 両岸三地会議
9月12日 午前 北京大学での講演
9月14日 午前 北京師範大学での講演
9月20日 午前 社会科学院近代史研究所での講演
9月21−22日 天津南開大学での講演
といった具合である。ここに北京日本学研究センターでの講演が加わる予定。インターネットが解決しないままであるうちに、唐啓華先生が来る。昼は社会科学院近代史研究所のかたがたと痛飲して、昼寝をしていたという。彼も同じネットの問題を抱えていて、茅先生の学生に解決してもらったという。その学生を呼んでもらうが、解決せず。結局翌日9時半まで待つように言われる。
18時に待ち合わせであった。宴会は、牛大勇・歴史系主任、羅志田・歴史系教授らが来る。話題は、日本のこともあったが、国民党の抗日戦争への関与の問題、また今後の中国の情勢。改革開放後に大学にはいった「三級」が本当に党中央の幹部になるのは五年後、そうなれば中国は大きく自由化するという意見と、そうなるには五年ではすまないし、胡錦濤が一期でやめるはずもないから、十年以上はかかるという見解も。
茅先生から、両岸三地のあるセッションでコメンテーターをするように言われる。外交史のセッション。夜は、ひたすら明日の首都師範大学での講演の原稿の準備をする。
9月7日
勺園で朝を迎える。北京の朝の空気がする。これは石炭の匂いだと昔おそわったが、石炭を使わなくなった最近でも強烈にするということは、石炭ではないのか。朝、散歩に出る。路上で包子と豆漿を買う。2元する。
午前中、インターネット問題が解決する。首都師範大学の講演原稿を提出する。昼食は勺園の食堂で済ませて、唐啓華先生と首都師範大学へ。
首都師範大学は、多くのキャンパスを持つ大規模な大学だが、国家の大学ではなく、北京市に属する。ここの歴史系は、北京においてもひとつの研究拠点となっている。『清末国民意識与参政意識研究』(湖南教育出版社、1999年)で知られる梁景和、『宋教仁与中国民主憲政』(湖南師範大学出版社、1997年)の遅雲飛らのいるところである。「民国時期的中日教科書問題」と題して報告をおこなう。観衆は学生が圧倒的に多く、30名程度。唐啓華さんが、外交史研究の課題などを説明する。いつもながら、見事なプレゼンテーションである。当方は、師範系ということもあり教科書の話からはいり、日中外交の問題点を説明していった。質疑応答は活発。最終的にはお決まりの戦争問題や歴史問題になる。
夜の宴席には歴史系の若手の教員などもたくさんやってくる。政治や社会の問題を指摘しあいながら、まさに問題点は熟知されているという印象。また、古株の教員から、改革開放初期の話が出て、故郷から上海に出て背広を買ったときの話は面白かった。82年のことだそうだが、世の中の服は紺か黒か、あるいは赤だった時代に、あえて緑の背広(今から思えば安物だが)を買ったこと。地方にある大学に戻ったが、指導教員からは特に何も言われなかったし、それどころか指導教員のほうがそういった西服には詳しかったという。彼らの上の世代は民国期を知っており、みなそういった西洋文化に触れていた、というのである。世代間の対話である。
北京師範大学の講演が水曜日の午後から午前に変わる。水曜午後は党の学習会だという。
勺園に戻ると、入り口で偶然唐亮さんや学生さんたちと出会う。
9月8日(木)
朝、5時ごろ起きたのだが、加々美先生からのメイルを受領。12月に愛知大のCOEシンポを北京でするので、報告するようにとのこと。
8時に戴君と待ち合わせて外交部に向かう。学生だということもあり、タクシーで朝陽門までいくという発想はないらしい。バスに乗って、西直門に行き、そこから地下鉄に乗って朝陽門へ。地下鉄に乗るときに先に人が乗ってから、人が降りるということはなくなっている。客層はバスよりも高収入者か。はじめ、外交部の旧舎と勘違いし、朝陽門内大街を歩いていく。南側に、回民小学を発見。建物までもが回民風である。その後、外交部の新楼に行くが、档案館の入り口が見つからない。やっと南側に行き、別の敷地にあることがわかった。外交部の南側の道路を挟んで向かいにある、外交部職員の宿舎兼福利関係の施設の入った建物の7階にあった。入り口で登記はするが、ガードは低い。7階では、手続きをする。外国人は中国の機関の紹介が必要とのことだが、今回は北京大学の紹介ということで国内扱い。目録で申請をするが、キーワード検索が大変きつめなので、キーワードをかえながら档案を探し申請する。申請代金が、一件5元もかかる。申請後、横の部屋で档案を見ることになるが、一見して、操作された文書であることがわかる。余白の部分が、原文書の汚れを反映していたり、していなかったりしている。しかし、そうであるにしても、一級の史料である。たとえば、きわめて細かい案件であっても、毛沢東や周恩来のコメントがある。「外交無小事」という言葉があるが、まさにそのとおりである。しかし、政府が大型化する55年以降、このようなかたちでやっていては、全ての問題を管轄できるわけではないから、権力構造に少なからず存在するものと思われる。複写については、きわめて面倒で、毛沢東や周恩来の批、電報、会談録がだめなうえ、申請してもそこで受け取れず、上部の批が必要だという。ほとんど、昔の国史館である。
昼食は一緒にきた北京大の学生と外交部付近の広東料理へ。多少プライベートな話をしたが、中でも面白かったのが北京大学の社団の話。北京大学における活発なサークル活動のうち、特に地方の少数民族地域などにいって小学校や中学校の教員を一ヶ月程度行う教育関係の社団の活動に耳を傾ける。きわめて面白い。また、一般的に就職について、一回「西部」に出ることで給料などが高まること、学内でも豊かでない農村から来た学生たちと都市部の学生の違いが大きな矛盾になっていることなどを聞く。
午後も継続して史料を見て、四時過ぎに北京大に戻る。夜は19時から唐啓華先生の講演。中国の国際化についての報告。きわめて興味深い報告。ハーグから国際連盟、国際連合への流れが綺麗に整理できる。北京大学歴史系の院生たちの雰囲気も少し理解する。ただ、すばらしい報告であっただけに、月曜日に報告する身としては圧力も高い。
唐先生の講演が終わったあと、茅先生と学生さん、そして唐先生と四人で酒を飲みに行く。夜を抜いていたので、ついつい羊鍋を食べ過ぎてしまう。日本や欧米は、学生の研究の「起歩」が高いからうらやましく、まずは北京大学を日本のレヴェルにまでもっていきたいという話題が出る。日本はいま厳しい時期にあり、中国研究の成果をいかに発信するのかが大切になっているというと、納得はしてもらえるが、まだ優位にあるといわれた。また、北京大、政治大、そして日本との交流を三者で活発にしていく約束をする。茅先生から、五年後にまた二人を招くからと言われる。唐先生は、ちょうど自分の本も出ているころだからと嬉々として答えるが、こちらはどうなっていることか。彼らと話していると、いつも強いプレッシャーを感じる。
また、小生の政治大学での授業について歴史系内部でひと悶着あったことをしらされる。というのも、小生を推薦したのが、今年になってできた台湾史研究所系統の先生方であったがために、小生に与えられた授業内容が台湾史的になっており、それが問題になったという。台湾史研究所との差別化によって、歴史系のほうは、中国史的にということだろうか。実際、こちらはあまり気づかずに、日中関係的に修正し、授業案を出してそのまま認められた。
台湾の大学の歴史学系はいま難しいところにいる。問題はここ数年におきた学部生の教養教育とも言える「歴史必修課」である。現政権にとっては、これこそが国民党歴史教育の「洗脳」の元凶とのことで、必須を選択性にした。確かに選択にしたほうが、台湾史も教えられるし、裁量は広がる。しかしながら、必修でないとポストがついてこない。政治大学はそのために11のポストを喪失した。この必修課問題は台湾の各大学を襲ったが、台湾大学はそのまま維持した。杜正勝教授が教育部長になり、教育の台湾化は急速に進むだろう。先には台湾史の必修化があるのではないかという向きもあるが、果たしてどうか。
9月9日(金)
昨日の酒のせいか、目覚めは悪かった。朝食を抜いて、そのまま外交部に出かける。だいぶ疲れてきたので、星巴克にてコーヒーを飲み復活する。三日もコーヒーを抜いたのはひさしぶる。少し期末のレポートの採点をしてから外交部に向かう。外交部档案館では、昨日に続いて档案を見る。特に戦後中国に残された日本人について調べる。キーワードは「日僑」。その人数、職業などまでわかる。また戦犯については、ソ連からの引渡し状況、撫順、ハルピン、山西それぞれに人数、志望者、幹部たちの病気の状況もわかる。たいへん興味深い史料。
午前中で仕事を切り上げて北京大に戻る。午後からは、10月末の台湾での会議のレジュメを下記、駐日経済文化代表処に提出する。「戦後日本の台湾史研究−政治史.経済史を中心に-」というテーマ。それから、外交部での資料調査の結果を紹介としてまとめ、ホームページアップ用原稿として日本に送る。今朝ほどからストップしていた「上網」が解決。
18時前に待ち合わせ。勺園の外に出ると、ちょうど長城から帰ってきた一台のバス。国民党党史館から政治大学に異動した劉維開先生や学生たち降りてくる。茅先生、そして牛大勇先生も現れ、レストランへ。両岸三地の院生たちが7テーブル程度、教員が2テーブルといった具合。この会のゴッドファーザーである胡春恵先生にお会いする。両岸三地の院生会議は、今年で六回目。珠海学院を中心とし、台湾の政治大学と大陸の主要大学がおこなっている。昨今は経費上の問題があるというが活発な会である。正式名称は、「近代中国与世界的変遷:第六届両岸三地歴史学研究生学術研討会」。昨年度は南京大学で開催。政治大学の新主任である、彭明輝教授にご挨拶する。また政治大学の助手、学生たちにも挨拶。授業のことなどを相談する。唐啓華先生と小生の授業を近代中国外交史のウェブサイトにアップするという。
茅先生が、今回のコメントの仕事を小生に流した件について、専門的なこともあるが、三本の論文のテーマが小生の専門に近いのに、誰も小生の研究を引用していないためでもあるという。確かにそうだが、あまり気にしていなかった。日本の論文はあまり引用されない。参考文献にさえあげられないのであろう。論文は、張凱(首都師範大学博士課程)「晩清外国人入籍中国考」、孫ム(華中師範大学博士課程)「晩清中国用条約強化中朝宗藩関係的努力」、任天豪(台湾中興大学博士課程)「消極接受与積極擁抱:従胡維徳、王正廷対巴黎和会的参与看中国外交官世代観念的差異」。どれも興味深いものばかりである。
宴会は赤ワインの乾杯の嵐になり、7時半過ぎに部屋に戻る。2000年に居たときの日本学研究センターの学生で、いま鄭州大学に就職した方からメイル。彼女は半年間JBICのプログラムで北大に居た。今日は「教師節」だという。台湾では孔子の誕生日であったが…鄭州に来ないかと言われたが、それは無理なので、北京でセンターの卒業生たちとも会いたいと返事をする。果たして同窓会になるかどうか。
9月10日(土)
朝、今日両岸三地の大学院生会議でコメントをする三つの論文を読む。興味深いが、ちょっとテーマ先行か。
朝8時15分に待ち合わせるが、少し会場に着くのが送れる。会場は二つあり、中規模の会議。
両岸三地の会議。外交関係のセッションは第二セッションだけ。しかし、外交史のセッションがあるだけこちらからすればうれしいことである。張凱(首都師範大学)「晩清外国人入籍中国考」は、テーマも大きく、構想も壮大だが、可能性を感じさせるものであった。特に、太平天国の乱で曽国藩や李鴻章側について戦ったアメリカ人が、最終的に「中国人」として朝廷からも(恩恵として)認知されていく過程は極めて面白かった。ただ、東南アジア華僑と朝鮮からの朝鮮の人々の流入と、アメリカ華僑の問題を一緒にしているあたりなどが、気になった。孫ム「晩清中国用条約強化中朝宗藩関係的努力」は、目の付け所がよく、「条約」で宗藩関係を強化したという茂木敏夫さん的な論点の提示である。中国にもこの議論がはいってきて久しい。しかし、それにしても史料が乏しいため、全体を大きく扱うようになり、議論が粗くなる。馬建忠などについても十分議論されていない。任天豪「消極接受与積極擁抱:従胡維徳、王正廷対巴黎和会的参与看中国外交官世代観念的差異」は、台湾の学生だけあって、史料については興味深い使い方をする。呉景濂档案(公刊物)を使って、外交官たちの関係を扱うというのは盲点であった。ただこういった世代間比較というのはなかなか難しい。代表性の問題など、議論は尽きない。また他の世代との関連、一貫性という問題もある。全体の討論も活発。唐啓華、茅海建先生らのコメントは秀逸。
昼から部屋に戻り、期末の採点を継続。ようやく学部4年生の採点終わる。また、今年の冬におこなった中国外交史のシンポジウムの原稿の書き直しを始める。他の方々の原稿はそろっている。こちらもなかなか進まず。
夜、北京の日系の新聞記者の方と食事。行きつけの潮州料理屋に行く。少し味が落ちたかと思うが、客人には気に入ってもらえたのではないか。日中関係とマスコミの責任という論点には、頭が痛い。また、久しぶりに呉青先生の名前を聞く。彼女は、北京外国語大学の英米科の先生。以前、北外にいるときにパーティか何かでお会いして、インタビューを申し込んだが、それっきりになっていた。彼女は、いま全人代の代表、また冰心の娘さんでもある。だが、小生が関心をもっておるのはお母さんの冰心ではなく、父上である呉文藻。彼は、実は1945年から中華民国の駐日代表団の随員として日本に居た。娘である呉青さんも日本に居た。その後に大陸に来たのだが、それもあって、いまでも呉青さんは日本語を話す。呉文藻さんの思い出、当時の代表団の様子などを聞けないかと思った。勺園に戻って早速外大側に打診した。
9月11日(日)
午前中は原稿を書く。修正とは言っても半年間で随分と考え方が変わっているものである。
午後、ふたたび両岸三地の会議に参加。民国前期の「審計」制度に関する報告を聞く。行政制度に関する研究も出てきた。興味深い。最後の総括会議では、学生代表がそれぞれのセッション別にまとめて意見を述べていた。この後議論されていたのは、教員の関与度である。司会、コメンテーターについて、どの程度まで教員が関与するのかということである。最終的には、司会は学生に、コメントは教員にという方向であった。また、プレゼンテーションの工夫(パワーポイントの使用など)についても提起があった。そして、脚注のつけかたの文化の違いも指摘された。なお、歴史学の方法論について、昨今では引き締めの雰囲気が大陸であるが、多元化でいいのではないかという興味深い意見も聞かれた。最後に、主催者である北京大の牛大勇先生から総括がなされた。今回は香港から13名(6大学)、台湾が24人(7大学)、大陸が24人(11大学)という構成であり、大陸からの学生には新疆からの学生も含まれていた。そこでは、思惟、思路、学術用語の違いを超えて国際会議をおこなっていくという、モデル実験がなされたと牛教授は述べた。続けて、新しい見地を開く研究も見られたとしつつも、史料の選び方、史料批判、引用方法についての注意が喚起され、先行研究とくらべて何が新しいのか、全面的な学術史をフォローしてなされるべきだ、と述べた。さらに、中国のことを世界史の中で位置づけるべきところ、そうした試みが多く見られなかったことが残念だとの懸念も示されていた。きわめて興味深い総括であった。
他方、最後のセッションで胡春恵先生が横に座っておられたことを利用して、次年度から、日本、韓国から2−3名の代表を派遣できないかと相談。快諾をいただく。今後のことは電話などで連絡をとのことであった。次年度はアモイ大学か南開大学。久保先生、貴志先生、陳紅民先生、白永瑞先生に連絡をしたい。
会議終了後、そのまま茅海建先生のお宅に、唐先生と向かう。北京の北部のお宅にうかがうのは二度目である。だが、以前に伺ったときに比べて、本当に開発が進み、渋滞も激しい。所得が高い層が集中して住んでいるためであろう、北京を代表するレストランの支店が軒を連ねる。お宅に入ってから、奥様が残業などの都合で料理の準備ができなかったので、外に食べに行くとのこと。孔已乙にいく。ここも久しぶりである。数時間、楽しい時間を過ごす。外交史関連のこと、それぞれの将来、学界のこと、大学のこと、それぞれ話題が尽きない。茅先生の日本論、また唐先生の台湾の大学事情をめぐる話など、なかなかうかがえない話であった。
9月12日(月)
前日の選挙で自民党が圧勝したことが中国にも伝えられる。小泉総理への個人的な不信感もさることながら、ある種の構造変化が日本政治におきていることは理解されているらしい。ただ、小選挙区制をはじめとする制度変革と首相権限の変容、官庁と官邸の関係の変容など、つっこんだ言論は多くない。おそらく、このあたりに鈍感な日本のマスコミの影響を中国のメディアや日本論も受けてしまっているのだと思われる。靖国参拝は近いだろう、憲法改正は大丈夫か…などといった懸念が多く紙上でも提起されている。北京大学のかたがたと話していても、みな自民党圧勝はわかっていたようであるが、中国側としてもここまで自民党が勝つとは思わなかったのではないか。もはや小泉総理の個人攻撃だけで片付けられる問題ではない。台湾に対する政策と同じ結果になるのであろうか。
朝、8時20分に図書館に行く。「孫中山与同盟会−紀念中国同盟会成立百周年」国際学術研討会が開催される。王暁秋先生が中心的存在。日本からの招聘客も多いが、横浜の孫文研究会の方々が中心。王先生と、千歳丸の件、また昨年の黄遵憲のシンポジウムに参加できなかったことをお詫びする。いま、黄遵憲の蘇州租界開設をめぐる外交について研究していると申し上げたら、先のシンポジウムで楊天石先生が同様のテーマで報告したという。大変驚き、そのときのペーパーを戴くことに。また、史料についてたずねたところ、書簡などであったという。由来を尋ねたが、王先生はご存じないとのこと。中華書局から出た『黄遵憲全集』が頭にうかぶ。内容を確認しなければならない。
10時から北京大学歴史学系で講演。「中国近代外交史研究的歴程与前景」。中国外交史研究の流れと昨今の研究動向、今後の課題などを述べる。司会者の牛大勇歴史学系主任から、外交史の範囲(国際関係論、国際政治史などとの関係)、不平等条約の「不平等性」の解釈、外交档案それじたいのもつ問題性、中国的特色のある外交史研究の可能性などが提起された。興味深い論点。逆に現代中国外交史研究との交流の可能性を認識。蔵運祜先生から、「軍閥」の外交政策への影響について。学生からは多角的な質問。講演を始めるときは聴衆が少なかったが、いつのまにか空席がなくなっている状態であった。30−40人か。一番緊張する講演の「本番」が終わる。牛先生が自著や論文をもってきてくれる。最後に茅海建先生から、中国における外交史研究をおこなううえでの、史料的、また政治的な意味での難しさについて説明。牛先生、茅先生、また会場にいらした琉球大学の林泉忠先生と昼食に。
午後、「孫中山与同盟会」の会議に。劉維開先生の「日露戦争与中国革命運動的発展」を膨張に行く。会場への途中、劉先生と陳鵬仁先生にお会いする。陳先生から日本の衆議院選挙の結果について正確な数字を尋ねられる。夕方までに台湾の新聞社に記事を送る必要があるという。パソコンを携帯していなかったので、電話して調べてお答えする。また、馬樹礼先生へのインタビューなどについて依頼する。他方、陳先生からは馬樹礼の『使日十二年』の日本語訳について、小生に一部頼めないかと言われる。一応、前向きな返答をする。
劉先生の報告は、ある意味で予想とおり。孫文はじめ革命党の活動に対する日露戦争の影響はそうとう研究しにくい。宋教仁日記などには多くの記載はあるが、一般化することはできない。また、孫文はまさに日露戦争直後に中国への立憲制度適用を否定。また、有名な西アジア経由時点でのアラビア人から聞いた話も、決して中国人や東アジア人としての同感ではない。こうしたことから、影響はないとはいえないが、大きく見積もることはできないということである。小生の議論の方向性と重なる。だが、そうなると結局は野澤豊先生や菊池貴晴先生の論点に帰っていくことになる。面白い。また、国立政治大学では、数名の先生を集めて日露戦争研究小組ができているという。参加を求められる。
この「孫中山与同盟会」の会はある意味で「政治運動」の会である。台湾の国父紀念館あたりを中心にして(そういえば久しぶりに劉碧蓉先生に会った)、世界の孫中山研究会が結集しているのである。報告の多くも学術的というよりも、顕彰の再確認に近い。しかし、香港から李金強先生がいらしていたりして、久しぶりに交流ができてよかった。李先生からは、『書生報国』(福建教育出版社、2001年)を頂戴する。清末海軍論が興味深い。
『黄遵憲全集』を買いに行く。やはり、数多くの見たことのない書簡類が含まれ、そこには蘇州租界のこともたくさん含まれている。楊天石先生はこれを使ったのだろうと思い、さっそく購入する。
夜、久しぶりにアポイントメントもなく、勺園で食事し、原稿を書く。
9月13日(火)
朝から今年はじめにおこなわれた外交史研究会の出版用原稿の手直しを進める。なかなか終わらない。明日の14日までに仕上げる原稿が3本とは多すぎる。
朝8時15分に待ち合わせて、中国科学院文献情報中心へと向かう。歩いて20分ほどで到着。雨がぱらついている。ここに行く目的は、以前、新潟の井村先生が主催したシンポジウムにいらしていた同中心の方が、ここに大量の満鉄史料があるとしていたためである。建物はきわめて立派である。正面突破で閲覧室に行って聞いてみるが、公開していないらしい。そのまま、新潟で知り合った胡智慧研究員のところへ。事前に連絡していなかったこともあり不在。李宏研究員によくしていただいて、何とか羅琳・研究館員のところまでたどり着く。彼がウェブサイトなどでも、古い資料の責任者として名が出ている人物である。彼は「非公開」、「参観もだめ」という原則を繰り返す。だめなのだろう。彼らの理由は、いちいち日本人一人一人の個別テーマにつきあっていられない、とのこと。こちらが、研究ではなくて、史料それ自体の概要や現在の保存状態を知りたいということを言うと、見せられないが紹介文をあげることはできる、と言われる。羅琳「中国科学院図書館与日本在華“文化侵略機構”」(中国科学院文献情報中心『夯実学科化知識服務能力−中国科学院分権情報中心2004年度学術年会論文集』同中心、2005年)というものである。内部発行ものではあるらしい。詳細は省略するが、それによればここには約4万5千種以上の満鉄の調査報告があるようである。満鉄の調査記録はもともと8万種あり、シベリアやソ連関係のものはソ連に接収され、残りが中央編訳局、鉄道部鉄道科学研究院、そしてこの中国科学院ということになったようである。鉄道部鉄道科学院はマークが必要である。
満鉄の史料が見られなかったことで、閲覧の方針を切り替える。民国期のものなどを探し出すと、この図書館が歴史関係など、社会科学、人文科学の図書を相当完備した、それもきわめて利用条件のいい図書館であることがわかる。そして『廣播週報』にたどり着き、雑誌コーナーにいくと、そこに無造作に配架されている膨大な民国期の雑誌群を発見。本当に驚く。信じられない量の蔵書群である。複写は一枚2.4元とお高い。写真をとっても同額とるという。しかし、それにしても、大量である。驚いたのは民国2年、3年の『留美学生季報』や、日本統治時代の華北の『中国留日同学会季刊』があったことである。この図書館は今後、大いに利用させてもらうことにする(ただし、『廣播週報』などは北京大学図書館に全冊そろっており、複写するならこちらでしたほうがはるかに安い)。
昼過ぎに勺園に戻る。午後は、明日の北京師範大学の講演原稿を書く。なかなかすっきりとできない。5時に原稿を戴君に手渡す。
20時ごろから、王府井から東単の南側にできた東方広場のレストランへ。北京大学周辺の渋滞には辟易する。入り口と出口を近づけすぎている、と運転手。食事の相手は、北海道大学の卒業生で、いま北京で働いているE君と食事。日系企業の「現地化」の話や、中国での料理の注文の難しさを話しながら、持参した「五粮液」を痛飲する。楽しい時間であった。勺園には11時過ぎに戻る。
9月14日(水)
急に涼しくなる。朝、次週末にある東アジア近代史学会の報告「日露戦争と中国」の報告要旨を何とか書き上げて、幹事の方々に送る。一段落という感じである。『鄒嘉来日記』はレジュメに入れられなかった。来週までに少し読めるだろうか。
…レポート採点がまだ終わらない。何とかならないものか。200部を採点するのはつらい。
8時15分に待ち合わせて、北京師範大学に向かう。首都師範大学が北京市教育局に属するのに対して、北京師範は国家教育部に属する。もともと、非常に水準の高い大学として知られているが、ここ数年の師範離れの中で、ランキングなども落ちていると聞いている。歴史系は、とても大規模で、規模だけなら北京大学を上回る。中心的存在は、朱漢国先生であろうか。学風的には、文化思想史研究が強いという印象であるが、若手の中には国民党時期の中日外交をしている人もいる。また、中山大学歴史系との関係が深いことも印象的であった。
9時前に到着して、講演をおこなう。学生が50人以上はいたであろうか。内容は「民国外交与南北政権」。外交史を研究している学生が少ないので、直接的な質問は多くなかったが、それでも租界問題、外交史研究を行っていくうえでの「動力」など、多くの質問が出た。中には外交史を研究している博士課程の学生が居て、両岸三地の会議で『鄒嘉来日記』のことを聞きつけて利用したいという学生も現れた。彼女からは、那桐日記の重要性を説かれる。これは確かにそうで、さっそく北京市档案館の機関誌に掲載されていた日記を複写することにした。那桐の動きがわかれば、日露戦争前の中国とロシアの関係もわかるかもしれない。
宴席では多くの話題が出たが、面白かったのは教科書。さすがに北京師範の歴史系だけあって、歴史教科書執筆者がいた。いまのところ、中学歴史は7種類、高校で3−4種類の歴史教科書があるという。もちろん教育部が定めた指導要領があるのであり、聯考もまた、この指導要領に即して出されるのだが、その範囲において多様性が担保されている。採用は、中学であれば省のひとつ下のレベル、つまり市政府の教科書採用委員会が決定、高校であれば省級の同様の委員会が決定することになっているという。メンバーは教師、研究者などが含まれるという。大変、興味深い指摘である。
中華人民共和国外交部から連絡あり。コピーができあがる。代金が3000元程度という。持ち合わせの現金がないので、どこかで下ろさねばならない。しかし、300枚の複写が認められたということは収穫。結構な分量である。
午後は黄楡路にある北京市档案館に向かう。久しぶりであるが、手続きはいっそう簡素化され、また綺麗になっていた。目的の第一は新民会、第二は華北広播協会である。実際、新民会档案については、1989年に史料集が出版されているが、档案それじたいは非公開であった。それだけ敏感なのであろう。しかし、当時の北京の諸機関に、新民会との往来文書などが多く残されており、その外堀から迫ることにする。結果、基本的な史料は見ることができた。史料自体からは、新民会の活動だけでなく、北京市政府との関係などが伺えて興味深いものばかりである。北海道大学図書館所蔵の『新民報』とあわせることで、総合的な研究が可能になるという印象である。
平野健一郎先生の科研および日中戦争関連の国際シンポジウムは新民会で書こうと思っている。しかし、締め切りが九月末。間に合うかどうか。また、山本武利先生から依頼のあった、岩波の『近代日本の学知』の原稿の締め切りも九月末である。華北広播協会の史料が見切れるはずもなく…途方にくれる。
16時半に档案館がしまるので、新民会に関する档案の複写依頼をする。複写は、各ファイルの3分の1までである。このあと、西直門近くの高粱橋路にあるレストラン、無名居に向かう。無名居は久しぶりであるが、古いほうの建物がなくなり、道路を挟んだ側に大型のレストランとして再オープンしていた。チベットに向かう村田雄二郎先生主催の宴会。同先生のグループと駒場のアジア科関係者とお会いする。11名の宴会。村田先生から北京のチベット関連の「史跡」の興味深い話をうかがう。10時には終了し、勺園に戻る。
9月15日(木)
六カ国協議の論調が少し変わる。妥協もありえるような方向に転じる。日本はもちろん蚊帳の外。北朝鮮と基本的、初歩的な対話をするに留まった、といわれるだけ。日本のメディアは、厳しい状況が続いていると報道しているようだ。
外交部に行く。複写ができていると聞いていたからである。だが、受け取れなかった。事前に受け取ると連絡をして、その上でとりにいかないと、本人が来てから印刷しはじめるという。彼らが言うには、複写が認められなかったものは少なかったと言っている。果たしてどの程度か不明。また機会を見てくることにする。
昼過ぎから、勺園からホテルに移る。中秋が近いこともあり、スケジュールが割り当てられていないこともあるが、部屋の埃などのため、全身のアトピーが悪化してあまりに辛いので、週末までの予定で移動する。集中的に採点をする予定。
9月16日(金)
胡錦濤の国連での演説が報道される。中国は脅威にはならない、と平和路線を強調し、またエネルギーの協調路線を唱えた。また、アメリカとの貿易摩擦についても、減少させていく方向でブッシュと会談したということも、『人民日報』の一面で伝えられている。…ところで鳳凰電視台を見ていたら、今年は台湾の石斑魚から発がん性のある薬品が検出され、商品価値がなくなったという。10月から台湾に行く身としては残念である。
六カ国協議、厳しい中で妥協を模索しているという方向の内容の報道が連続。
親民党の宋楚瑜が上海に来ており、台商を集めて集会を開く。国民党よりも細かい議論ができたと台商の代表の発言。但し、それが実現できるかどうかも、と厳しい発言。また両岸の青年フォーラムも開かれている。ここでの主な議論は農作物、特に果物。南部は果物業が破綻しはじめており、それを国民党が救えば、民進党の地盤である南部を崩すことができると考えている模様。揺さぶりである。
午前中、だいぶ疲れていたこともあり、リフレッシュのために、北京外大の南側から頤和園まで川沿いを歩く。この河は頤和園から紫竹院にいたるものだが、以前より水量が増しているようだ。時間的には一時間強歩いた。驚いたのは、遊覧船だけではなくて、個人のものと思われるモーターボートがどんどん行き来していること。また、河と西三環路、そして海淀公園で囲まれたエリア(かつては原っぱであった)の開発が急速に進んでいることを実感した。このあたりは、軍関係の施設があったことなどもあり開発が遅れていたが、このままでは四環の向こう側の「北京の農村」も本格的に都市化することであろう。頤和園は相変わらず。だが日本人は少ない。
北京大経由でホテルに戻るが北京大学で本を買う。今回北京に来てから随分本を買ったが…、馬芸主編『天津新聞伝播史綱要』(新華出版社、2005年6月)。興味深いのは、ラジオ放送について記されていることである。天津のラジオについては空白であったので、分量は少なかったが、とても勉強になった。
国立台湾大学の政治学系から講演依頼が来ていたが、日程が12月1日に決まる。11月に東京で開かれるシンポジウムのコメントを依頼されるが、お断りする。お断りするものが増えてきた。馬樹礼大使の『使日十二年』について関係者と相談。調整する。
ある方の訃報が伝えられ、大きな衝撃を受ける。この方は、先に北京日本学研究センターのODA案件でお世話になった方で、まさに新施設の設計責任者であった。ODA案件を進める過程でさまざまなことがあったが、彼は間違いなく案件の主役の一人、コンサルタントの代表であった。その後も、彼は中国はじめ、世界中の案件を手がけていた。しかし、昨年秋、彼が部長として勤務する会社が、中米でのODAをめぐって問題をおこし、二ヶ月の指名停止処分を受けたことを記憶に新しい。彼のことであるから、きっと世界中を飛び回りながら、そういったマイナスを補おうと必死になっていたのではないか。53歳、心筋梗塞とのことであった。心からご冥福を祈りたい。
9月17日(土)
天津南開大学の張思先輩から、天津市档案館に顧維鈞関連の写真などが残されているとの情報を戴く。可能なら、21日に訪問するときに閲覧したいと希望。
午前中、潘家園に行く。古本漁りだが、あまりいいものがない。『偉大的抗美援朝運動』という巨大な史料集を200元で購入する。あとは北京の古地図。毛沢東グッズは膨大にある。あと、民国期の株券などが数万元で取引されている。
昼過ぎから恭王府付近に出かける。老街の状況を知りたかったのだが、2000年当時と大きくは変わっていない。このあたりは観光化されて保存されているようだ。恭王府には、すでに連戦夫人、宋楚瑜などの来訪がパネル化されて展示されている。
レポートの採点を続けて行う。
9月18日(日)
中秋節。また、満洲事変の日である。デモなどは特になかった。香港のメディアによれば、香港で多少デモがあったようであるが、映像では少人数。また中国各地では「918」を記念した行事が行われた。(長春では、月餅に「勿忘国恥」などと焼印をいれたものを作っていたようである)
今年4月のデモのことも、こちらに来てから何度か耳にした。総合すれば、北京大周辺から中関村までのデモと、以後の大使公邸、大使館へのデモは分けて考えるべきだと思われる。実際のところ、北京大周辺から中関村へのデモに関しては、おそらくは届出がなされ、北京大の学生なども参加していたようだ。そして、中関村にいたったところで一度解散、そこから先は「流れ」で、人の出入りが随分とあったものと思われる。また、日本人だけでなく、中国人からも玉淵潭の桜を見に行って、和服を着ていたとかいった話を耳にする。北京の生活感覚でも、例のデモは極めて特殊なものであったようだ。
抗日戦争紀念館に行く。四環が通じたので交通が便利になっている。中秋節の廟会が昨日からやっているようで、出店がたくさん出ていて、大変な賑わいである。記念館の前には、解放軍(の訓練兵)が来ている。記念館に入るまでは決して人が多いとは思わなかったが、中に入ると多数の人。展示はきわめて興味深い。ソ連の協力が他の列強よりも最も早かったこと(参戦が遅かったことは問題にされない)などは、昔ながらだが、台湾人民のことを強調したり、また戦後の日僑に対する「温情有る」処理を強調するなど、両岸関係や日中友好に配慮した側面もある。有名な胡錦濤と小泉総理の写真は最後のほうにある。田中上奏文などは、宣伝用のパンフレットが展示されている。日中戦争を反ファシスト闘争全般の中で位置づける工夫もなされている。国民党については、もう少し協力が強調されているかと思ったが、そこまででもない。だが、ことさらに国民党や蒋介石を批判するような展示はほとんど見られなかった。
昼過ぎにホテルに戻り、レポートの採点を継続する。夕方、やっと採点が終わる。原稿用紙10枚以上のレポートを200弱見るという作業は想像以上に大変なことであった。一時間に8本見たとして25時間かかる。実際には10分に1本程度だから、30時間はかかったことになる。その後、記録して作業終了。長い長い採点が終了してほっとする。
9月19日(月)
勺園に戻る。王暁秋先生からの月餅が届いている。
朝、中国科学院に出かけていき、『中国留日同学会季刊』(1−11号、1942年から華北地域で新民会を通じて組織された留日同学会の機関)、『留美学生年報』(1911−1913年。上海中華書局が発行。顧維鈞らが関与したアメリカ留学経験者の会の機関誌)などを複写する。『廣播週刊』は目ぼしい写真や図版をデジカメに収める。中国科学院文献情報中心の7階雑誌室は本当に史料の宝庫である。利用価値はきわめて高い。
午後、北京市档案館に行く。前回の複写物を取りに行くためだが、複写はできていないという。抗議をしてもらったが、どうも複写にはすべて館長の決済が必要で、先週の複写申請時にそれをおこなわずに今週に持ち越したため、館長の出張と重なったのだという。複写については、外国語は駄目、人名などの部分は駄目と禁止事項がある。また、北平廣播台の文書を閲覧し、番組表などを筆写する。興味深い史料である。
北京市档案館の機関誌に掲載されていた那桐日記を読む。1896年の露中密約が日露戦争のときにどのように扱われたのか、やっと判明。週末の学会に間に合うか?
17時半に、五道口の「城鉄」の駅に。今度のラジオ論文集の編集者に会い、原稿などを受け取るとともに打ち合わせ。語言大学のあるこの語道口のあまりの変わりように驚く。東大の法研の院生が尋ねてきていたので、無名居に食事に行く。日本外交史研究の新展開に期待したい。
部屋に戻ってから、明日の社会科学院の講演の準備をする。
天津から連絡。顧維鈞の史料は、家族の同意なども含めて閲覧が極めて面倒とのこと。
9月20日(火)
早朝、何とか原稿を仕上げて中国社会科学院近代史研究所に送る。
社会科学院近代史研究所は、ここ数年混乱の中にある。所長選挙が滞ったことは有名であるが、現在もなお混迷が続いている。また、科学院全体における近代史研究所のポジションも以前に比べて高くはない。研究員の給料も、大学教員の半分程度で、年間5万元程度であろうか。また、最近できた台湾史研究中心が、台湾研究所とは無縁であるということを、行きの社内で知った。台湾研究所は国家安全部の直属であるが、研究中心のほうは社会科学院に属する学術機関とのこと。張海鵬先生は、いまそこにいるという。「無資少女」は幹部になれないという話があるが、本当に難しいものである。
朝の9時ごろ研究所に着く。時間が30分あったので、図書館に行きカードを見る。『新民報』はそろっていた。また、『大清縉紳全書』が大量にそろっていることがわかる。外交史関係も民国期の未見の図書がいくつかある。民国期の中国外交史の本をリスト化し、文献解題などをいずれつくってみたい。9時半過ぎに報告をする部屋に向かう。30名程度か。中外関係史室の方々は全員いらっしゃっているようだ。主持人は、王建朗副所長である。王先生は、先般オーストラリアであった世界歴史学者会議での議論について、王先生の議論(1940年代あたりを「高潮」として外交史を論じる方法)と小生の議論(1910−20年代の文明国化を「高潮」とする議論)については、なんら矛盾はなく、ある種の段階論で説明できると述べられた。その通りだと思う。
テーマは「近代中国外交的連続性和非連続性:以朝貢体制論為主」。まだ結論など到底出ないが、朝貢体制について議論をぶつけてみた。実は中国では、朝鮮などが属国であったとかいうことを公的メディアで記してはいけないことになっている(学術論文はいい)。他方、昨今編集が進む『清史』では、『清史稿』にあった「属国伝」「邦交志」の別をなくし、まとめるという話もある。案の定、この方面については、「定論」がないようで、さまざまな意見が出る。ある研究員は、周辺諸国が中国を尊敬していなかった筈はないと、頑として譲らなかったが、大勢として議論の相対化はできていると思われた。
中でも、老教授である張振鵾先生の頭のやわらかさと史料への造詣の深さに舌を巻く。相当な水準である。もっと早くお話をうかがうべきであった。茅先生よれば、張先生こそがナンバー1である(ただし論文は多くない)とのことであった。昼食は、中外関係史室の方々と。旧友の王奇生さんも参加していた。
宴会終了後、外交部に向かう。複写物を受け取るためである。3700元もする。考えられないが、仕方ない。思ったよりも複写が許可されていた。複写物受領を待っている間、抗戦勝利日関連の史料を見る。解放初期から、9月2−3日にスターリンと勝利日を祝うやりとりをしていることがわかる。これでは8月15日にできないであろう。閲覧室で偶然、シンガポール大学の劉宏先生に会う。来年の8月のアンソニー・リード先生らが主催する国際会議に、小生を呼んでくださったのが劉先生である。多少情報交換をした。やはり華僑研究も政府との関係を重視する方向なのか。そのほか、またまた驚きのニュースを耳にする。ある日本人の著名な教授が、中国の大学に赴任(客員かもしれない)する話である。こういう話は、日本に居るよりも外にいたほうが多く耳にするものである。
閲覧終了後、ケンピンスキーホテルに向かう。ここはドイツ系のホテル。茅海建先生、また同じく北京大学に客員で呼ばれている岸本美緒先生と待ち合わせ。しばらく時間があったので、『那桐日記』を読み漁る。面白い。食事はドイツ料理。ビールはいいのだが、ワインは…?であった。日本の中国史研究の気風、学統、中国の研究環境のことなどについて話が出る。宴席終了後、岸本先生と勺園に戻る。
9月21日(水)
『参考消息』などに、日本外務省が中国に対して「大衆外交」を展開すべく35億の予算を計上したという報道がなされている。また、『環球時報』は「小泉総理が自分の子飼い議員を養成している」と吉田学校ならぬ小泉学校ができていることを大々的に報じている。
茅先生の学生さんと天津に向かう。8時55分の列車。北京大学からの道が渋滞で、二環路でおりて地下鉄で北京液に向かう。ぎりぎり間に合う。車内で張建華さんの論文を読む。中国における不平等条約認識のもの。日本の条約改正との関連性がこれからの焦点となろう。張さんは、北京大学の若手の教員である。天津の駅に張思さんが迎えに来ている。南開大学では専家楼にはいる。たいへんよい設備である。ネット環境もいいし、洗濯機なども部屋内にそろっている。一泊400元という。決して高くはない。
大学に向かう車内で朗報がもたらされる。天津市档案館が顧維鈞関係資料の閲覧を認めてくれたのである。張先生が三点も書類をつくってくだり、可能となる。しばらく部屋で仕事をして、会議場に向かう。張さんの修士課程の学生さんが先導してくれるが、やはり華北農村を研究しているという。会場に着く。40−50人くらいの学生さん、また数名の教員がいるように見受けられる。李永勝『清末中外修訂商約交渉研究』(南開大学出版社、2005年)をいただく。きわめて興味深い一冊。王爾敏さんのものと比べてみたい。
歴史学院での講演は「近代中日関係的展開与中国外交史的形成」という内容。やや抽象的な議論。学生からは、台湾問題、琉球問題、また長崎貿易の問題などの質問が出る。あとは外交史料のことなど。講演終了後、張思さんが調査研究室に案内してくださり、ある档案史料を見せてくださる。それは、かつて満鉄が調査したことのある河北省昌黎県のある村の档案史料であった。ここはフィリップ・ホワンも例の華北に関する本で触れている。その档案史料は膨大で、1960年代から80年代に至るもの。村の財務史料、領収書、個人の工作資料、自己批判文書など多数に上る。整理は初期段階であるが、大いに研究の可能性の有る資料群であると思う。
夜の宴会は湖北料理。天津社会科学院の張利民先生や南開大学の江沛先生もいらっしゃる。張思さんも白酒を多く飲まれる。珍しい。天津の状況、各地のシンポジウムの成否、またいろいろな噂や人事、そのほかの話が飛び交う。いつものことであるが、こういう場で知る内容はあまりにも「濃い」。
9月22日(木)
朝、愛知大学のつくった「愛大会館」で朝食を摂る。もともと、朝食も日本式であったらしいが、次第に「現地化」したらしい。8時20分に張思さんが迎えに来てくださる。天津市档案館へ歩いて向かう。南開大学も、ここ数年景気がいい。天津も5年前に比べれば景気がいい。建設ラッシュでも有る。大きな壁を破ったような印象だ。
だが、档案館は相変わらずであった。武装警察の「防備」を受けつつ、入り口では武装警察が二重三重に検問する。内部職員でさえ、である。閲覧室にはいり、顧維鈞の史料を申請する。全部で五巻ある。顧維鈞のご遺族が贈ったものだともいうが、市の編訳局から送られたものであることがわかる。ご遺族は先に編訳局に贈ったのか。五巻のうち、三巻は意味なし。顧維鈞回憶録などの本である。残りの二巻が問題。ひとつは、電報の複写物である。おそらくはコロンビアの文書であろう。これはそこまで珍しくない。あとひとつが写真のアルバム。個人所蔵、またジュネーブにある国際連合の図書館に所蔵されているものなどがある。これは貴重。顧維鈞の最初の妻で、唐紹儀の娘である人の写真を始めてみる。写真集の写真六点の複写申請をする。一枚50元という法外な値段。申請の際の対応も旧態依然。北京市档案館に通っていたので落差に驚く。10時半に閲覧を切り上げ、愛国教育の展示を見る。解放後中国で最初の国産ラジオの写真がある。興味深い。
昼食は山西料理。刀削面を久しぶりに食べた。午後の講演は日本研究院。テーマは「中日歴史問題的“歴史性”」。学生さんが多く50人近く居たか。歴史部分は退屈そうにしていたが、多少現状に触れると顔を上げる。関心の所在がわかるようだ。いろいろな質問が出る。中には李敖が言ったことをもとに質問してくる人が居た。徐福、漢委奴国王のことなど。李氏はいま北京に居る。鳳凰電子台の番組の評判もよく、両岸の国共協力の雰囲気もあり、李氏は大いに歓迎されている。そうした影響もあるのか。
なお、南開大学では何如璋の文集を編集中である。黄遵憲の文集もまとめていたが、次が何だということだろう。このあたりは各大学の競争になっている。
帰りは電車ではなくバス。二時間半かかる。北京大学の学生が気を利かせて水と麻花を買ってきてくれる。麻花も久しぶりである。天津から北京への高速には外灯がない。南三環の趙公口に、だいたい8時前に着く。岸本美緒先生の講演には間に合わず。
9月23日(金)
朝、本をまとめて郵便局に持って行き日本に送る。18キロ。350元。10時半に王暁秋先生と待ち合わせる。まず黄遵憲のこと。黄は「人鏡蘆」という書斎を開いたことで知られるが、実は同じ梅県客家の何如璋も同名の書斎をもつ。何のほうが早いのだから、黄がまねたということか。次に、千歳丸。そして、外務部档案の状況について。これは第一歴史档案館に保存されながら一向に整理が進まないものである。今のところオーストリアのものがまとまり、史料集として出版されている。次はスペインとポルトガルになるという。これらの国が優先されたのは、分量が少ないからである。イギリスや日本、アメリカについては後回しになっている。こちらから、オーストリアの史料集を台北に持って行き台北に有る外務部档案との比較ができないかと言うと、実は出版された史料集もすべてを採録しているわけではなく選んでいるという。そうなると対照研究は難しいか。日本のものについては、おそらく12冊になるという。これを担当する研究者が王先生である。いまのところ、問題は経費と手続き。経費について、1冊当たり1万米ドルかかるという。そうすると12冊で1500万円程度はかかってしまう。また名義の上で、あくまでも政府のものなので、名義として第一歴史档案館と北京大学の共編で出すことになり、日本側が援助しても名前が出ないという問題がある。この二点が難点である。東京の私大は名義の問題で断念し、関西の私大は経費面で断念したらしい。このあたりについても何か探れないか。このほか、王先生の学生さんの研究テーマなどについて。とうとう日露戦争をやる学生が出てきているという。驚きである。日中関係史はやはり王先生を一つの軸として動いているという印象。今後、日中関係史研究フォーラムなどを開いていけないかと提案した。なお、史料について、汪栄宝日記などについて聞き、何とか複写して持ち帰る算段をたてることにした。
11時半に歴史学系に戻り、張建華副教授に会う。彼とは2002年に台北で会った。彼は1850年前後の中国外交について研究するが、最近は中国における不平等条約認識の起源について研究している。昼食をとりながら意見交換をした。彼は最近、研究拠点を欧州に移しており、そこでの体験が中心。国際連合図書館の史料のこと、スイスでの生活、WTOをめぐる中台関係、スイス政府が台湾にWTOへの代表処オフィス設置を認めたこと、フランスでの反中感情など、いろいろな話題がでる。また中国のメディア論、言論の問題なども。拙著を彼のスイスの居宅に送ることに。
3時に拙著の中国語訳者の候補の方に会う。茅先生ご夫妻からのご紹介である。既に訳書もある、とても立派、かつ有能と思われる方。おそらくは共通の知り合いが多そうである。話がうまくいけばと願うが金銭的な問題になると厄介か。
5時に北海道大学、また他の国立大学から北京に派遣されている事務官の方々を待ち合わせ。食事に行く。帰宅後は、週末の日露戦争シンポの資料の準備。那桐日記を打ち込みながら、鄒嘉来日記と比べる。露清密約の件、那桐日記にはあるが、鄒日記にない。那桐日記には鄒も同席したとあるのだが。
9月24日(土)
ほとんど徹夜で那桐日記を打ち込む。朝5時ごろようやく終わる。外務部時代の中国外交史は、この時期の外交档案が公開されていないため、日記などの史料に頼ることになる。外務部時代の研究だけ少し雰囲気が違うものにもなるかもしれないが、方法論的にはチャンレジングである。だが、それで果たして清末外務部から民国外交部へのつながりを議論できるかどうか。
6時に勺園を出て空港に向かう。空港で期末試験の採点講評を日本に送る。
講談社の新しい総合誌の原稿と、岩波の「近代日本の学知」…月末締め切りの原稿が山積している。終わるかどうか。機内ではついつい映画を数本見てしまう。日本は本当に湿気に満ちている。大きな荷物を成田空港に預け、東京に向かい、原稿執筆を進める。
9月25日(日)
朝、天津出身の知り合いからメイル。最近の天津の景気がいいのは、中央銀行のトップが市長になったからだという。かつての天津に見られた党、政治、政協の三箇所を抑えて権力の連鎖は影をひそめたのか。
早朝から講談社の総合誌の原稿を書く。9時には専修大学に着く。東アジア近代史学会の日露戦争に関するシンポジウム。雑談の中で、NHKの司馬遼太郎『坂の上の雲』のドラマ化が頓挫したことを知る。報告では、池井優、海野福寿先生の後、千葉功の前。結構緊張する。コメントは佐々木揚先生。海野先生の第二次日韓協約、日韓併合に関する議論、はじめて直接うかがった。何をどう考えるべきかわからないことが多いが、自分の勉強不足を痛感する。
佐々木先生のコメントは、小生の報告の至らなさを補うようなものであった。質問はいくつかあったが、アメリカとの関係をどのようにとらえるのかということと、満洲自身の問題、ひいては露清密約について慶親王は1896年から知っていたのではないかということ。いずれも答えにくい。第一のアメリカについては、伍廷芳についてはアメリカ依存的な傾向があるとしたが、1900年代末の以降と同じとは言えないという回答をした。結局、こちらが自分で述べて中国保全論に依拠したアメリカ依存外交が1901年から1920年代まで続くとする見解を修正することになった。また露清密約についても、まだまだ検討します、といった回答にとどまった。勉強不足である。
会場から、パワーゲーム、パワーポリティクス的な観点から質問があった。ジョセフ・ナイの日露戦争に対する見解を受けてのことであろう。パワーポリティクスやパワーゲームで歴史を見ることは、ある特定の国家や地域に埋没していきがちな「一国外交史」にとって、冷たい「指し水」のような役割を果たす。細かく実証をつめていっても、パワーゲーム的にはそんなに理屈をこねなくても、当然のことではないか、そのように論じられる。これは政治過程論とパワーポリティクス論の問題であろうが、悩ましいところがある。他方、中国外交史でパワー論が出るときには、中国はパワーの担い手ではなかった、だから侵略されてきたという被侵略論になってしまう。このあたりを縫うようにして回答するのは困難。しかし、会場に理解されなかったであろう。
稲葉千晴先生から日南のシンポについての原稿を書くように言われている。また今回の東アジアのシンポも原稿を出すことになろう。すでに日露戦争関連で二本書いているが、あと二本文、新しいネタがあるかどうか。
セッション終了後、数名から声をかけられる。東大で動き出しているあるプロジェクトの部門責任者になってほしいという要請。これには困る。保留。あと、知己のK君と話す。彼はある財団に就職予定との事。この日記を読んでいてくれて、さまざまなアイディアを共有していることがわかる。研究助成のツボを心得たアカデミック・コーディネーター兼研究者として育っていってほしい。
講談社の原稿を書き進める。
9月26日(月)
早朝、公共政策大学院関連でトラブル。対応に追われる。
朝7時半過ぎのスカイライナーで空港に向かう。講談社の原稿を引き続き書く。機内で、やはりネットができる。快適であるが、ネット中毒になっている証拠である。
北京大学勺園に戻る。王暁秋先生から、先の黄遵憲シンポの楊天石論文が届けられている。驚いたことに、楊教授は、黄遵憲の曾孫にあたる、黄敬昌氏から家に伝わる史料を見せてもらっていた。だが、楊教授自身が認めているように、蘇州租界に関する日中の外交文書を使用しているわけはなく、課題を多く残したものである。しかし、それでも史料紹介的な価値は高い。黄遵憲がいかに租界の規定を策定したかがうかがえる史料なのである。また、王先生とは、例の外務部档案のことについても話し合う。そもそもこのプロジェクトを北京大学内部で担当していたのは赫副学長だが、その赫学長が北京外国語大学に異動になって、このプロジェクトじたいの北京大学内部の責任者がやや不明になっているという。一部には、北京大学と北京外大と第一歴史档案館でプロジェクトを進めようとする動きもあるという。このあたり継続して情報交換をすることになった。このほか、先にあげたオーストリア以外にも、ポルトガル、スペインについて整理が終わり、出版されたという。購入しなければならない。
王先生のほか、そろそろ帰るのだろうと思われているのか、何人かの方から電話やメイルをいただく。その中で、送別ではなく10月1日からの台湾滞在関連のものも。台湾大学のW先生からメイル。台湾の学界動向について。台湾に着いたら電話するように言われる。
夕食は北京日本学研究センターの徐一平先生と。金源新世紀大広場に。この西三環路の西側にできた巨大モールは、アジア一の面積を誇る。資本はシンガポール系という。5階にはレストラン街。多種多様。苗族料理を選ぶ。話題は多岐にわたる。会食後、徐先生のお宅に。奥様である北京大学の滕軍先生からお茶のおもてなしを受ける。このお宅の定番であるが、おいしいお茶と楽しい会話で10時まで居てしまった。
9月27日(火)
早朝、国家図書館分館に向かう。外交孤本について調べ、購入するのと、国家図書館分館の所蔵史料について理解するためである。まず、外交孤本には「続編」が出ており、出たばかりであった。民国期の本編と続編を買おうと思っていた。先方は配慮をしてくれて、45パーセントオフでいいとのことであったので、1万元もっていく。しかし、清代の目録を見ると、清代のほうがほしくなる。日露戦争部分がほとんど入っているのである。外務部については、ここにあったのだ。由来についていろいろ聞いていると、北京に残された外交档案だという。そして、日本統治時代には興亜院の駐京事務所に接収され、そこの印が押してある蔵書が本図書館には多いというのである。少なくとも、南京や重慶、あるいは洛陽に運ばれたものでないことは確かなようであり、性質からして外交档案の一部を構成するものと理解していいようである。そうなると、外交档案地図を改める必要があり、興味深い。結局、清代のものを買うことに。お金が足りないので、あらためて北京大学の学生に払いに行ってもらうことになる。
北京大学にいったん戻る。午後は三時から北京外国語大学北京日本学研究センターにて座談会。早めに出かけて図書館にて原稿を書き、また厳安生先生の研究室に顔を出す。例の愛知大学の『中国21』の座談会で、言うべきことを言っておいてよかった、とのこと。座談会は、北京大学から二人の日本人留学生が参加して学生が11名、それに徐先生。テーマは、「所謂《歴史問題》与中日関係的現状」。言語は、こちらの中国語能力よりも、彼らの日本語のほうが上なので、日本でおこなう。こちらから30分程度話題提供。それぞれから質問が出てくる。小泉政権の問題、日本人の一般的な歴史認識など。日本人学生からも発言がある。日中間で大きな認識の隔たりがあることを確認できたであろうが、センターの学生のように、もっとも日本に近いところに居る学生でさえ、こうであることを考えると、「認識」問題は絶望的にも思える。だが、国交がなかった時代、また戦争をしている時代、そして「友好の時代」に比べれば、これだけ率直に意見を交換できる空間が得られるというだけ、まだよいのかもしれないと思う。
19時から近くの焼肉屋でかつての学生たちと宴席。徐先生を連れて行く。学生というのは収支を終わって二年経つ16期生である。小生は、北京日本学研究センターに赴任して、14期生の口頭試問(社会コース)を担当するなど彼らの日本からの帰国後の時間をともに過ごし、15期生とはすごした時間が一番長く、16期生については入試を担当し、一ヶ月強い彼らと時間をすごしたことになる。16期生は、入試を行ったということだろうか、いまでも比較的交流がある。今回は、鄭州大学に就職したHさんと、出版社に勤務するLさんが呼びかけてくれた。在京の8名が集まった。みな、国際放送、日系機関・企業、中国側の対外友好交流機関、そして大学教員など幅広く活躍している。昨日徐先生からいただいた『校友通訊録』を回覧する(大平学校以来の北京日本学研究センターの卒業生の詳細な名簿。大平学校以来をまとめたことで連続性が確認できる。また大平財団が支援しているということも合理的。ただ、国際交流基金が相変わらず、こういった人的紐帯に強い関心を見せないというのも考え物である…こういう不満はなるべく忘れることにしている)。
各企業、機関の状況、日中関係などについて幅広い情報交換がなされる。やはり、こういった場が重要である。現在の中国のメディアにおける、「情報」の扱われ方、ニュースの検閲方法、中宣部からの通達などについて教えてもらう。また、それぞれの日系企業のこと、友好交流事業の状況など幅広い。
李敖のことも話題に。やはり清華大学では低調。北京大学での議論も言論自由化にふれているので、敏感となった模様。先般の呉儀の帰国についても話題に。やはり、呉儀のことは国内向けに扱わないようにメディアに通達があったという。また、これは「据説」という範囲であるが、呉儀の帰国については、直前まで王毅大使も知らず、結局呉副首相自身が小泉総理に会って話すことがないということを理由に、会わないという方針を固めて中南海に打診。中南海がそれに「批准」を与えて、呉が王毅大使に伝えたという。大使もご苦労なことである。
中国国際広播電台に勤務するR君から『中国国際広播電台』(上下)をいただく。大変有意義な本だが、この放送局もやはり延安時代の対日本人放送から始まっている。北京外大もまた延安時代も外語翻訳大隊から始まっている。結局すべてが抗日戦争に帰っていく。ほとんどの政府関連機関などが抗日戦争に「起源」をもたせている。
国際政治学会の11月の大会の分科会調整。報告者のレジュメなどを送る。
関東の国立大学から集中講義依頼。話をしてくださった方とゆっくり話したいので引き受ける方向で調整。10月末の国史館でのシンポの原稿の催促が来る。次の次の優先順位。締め切りは9月末だが、10月5日までには出すと返事する。間に合わないことが多い。北海道大学から、10月に北京である日本側の諸機関会議にでられないかと打診。これは無理とお断りする。
来年1月のグローバリゼーション研究会、3回分の調整がほぼ終了。京都大学の浅田正彦先生に大量破壊兵器の件、外務省の分析二課長に六カ国協議の件となったが、あと東アジア共同体論を通商産業省にと思ったが断られ、内閣府に打診したら内閣府は外で講演ができないことになっていると断られる。そこで当初から遠藤乾先生から提案のあった、北大の中国研究をしている教員でのラウンドテーブルにすることに。遊川和郎先生、諏訪一幸先生から(条件付?)了解を得てほっとする。
会議で購入した図書代金や、档案複写代金を科研費で支出する方法を会計係に問い合わせると、手続きや書類のハードルは高くない。便利になった。少し気楽になる。
講談社の原稿の途中経過を編集者に送る。まあまあの反応。書き進めたい。
9月28日(水)
早朝、「中国国家図書館分館所蔵 中国外交档案」という短文を書いて日本に送る。ホームページと台湾の外交史網站用である。
8時に待ち合わせて鉄道科学研究院に向かう。ここに満鉄資料が1000冊以上あることになっている。…だが、間にはいったかたの連絡不足で、今日は「運動会」により閉館。残念だが次回回しとする。北京大学に戻り、大学の床屋に行く。カット6元。100円。
11時15分に勺園を出発する予定であったが、10時半ごろ茅先生が来る。厚く御礼を申し上げるとともに、翻訳のことに関する打ち合わせをする。また、奥様から鉄観音をいただく。忙しい中の気遣いはさすがである。
勺園を出る。西門の外には新しい学生宿舎が立ち並ぶ。最近は北京外大からもっと西にいったあたりに学生用のマンション?ができ、そこを北京大学と外大が借り上げて使用していた。北京大にしても外大にしても、敷地が狭すぎる。もう、大学が住むところを提供する時代ではなくなるのではないか。だが、貧困地域から来ている人も居る。何かの宴会で聞いた話しでは、やはりなんとなく貧困地域からの学生は休めの部屋に固められているという。授業料じたいもばかにならない金額であり、5000元にもなる学期の授業料を払えない層にとっては住居もまた大きな問題である。このあたりの補助は大きな問題。もちろん、各省市別に北京大学に入れる点数が違うというのも、問題。こちらは山東あたりが一番重い負担。北京市はむしろ点が低い。
車は五環から空港高速へ。このようなアクセスには驚く。空港は混んでいるが、比較的スムースに中に入れた。効率は確実にあがっている。(了)