台北日記

 

928日(水)

北京首都空港から関西空港経由で新千歳空港に着く。涼しい。原稿をあまり書き上げられず、そのまま休む。

 

929日(木)

8時、官庁からの聞き取り。六カ国協議、抗日運動などなど。9時過ぎに留学生センターにて、HUSTEPで来校したソウル大学の学生にあう。一年間、北海道大学で学ぶ。関心は日韓のFTAだという。ソウル大学の外交学院なので、張寅性さんの名前を挙げたら知っていた。10時から政治学講座の会議。11時から国立台湾大学に交換学生として派遣する学部学生の面接。…もう少し準備しておいてほしいものだが…。12時前から指導する学生たちと食事。そこに今学期から国立台湾大学社会科学院から交換学生として留学してきた学生や、東京方面で大学院入試を終えた学部生も加わる。博士論文、果たしてみな書き上げられるのか。13時から教授会。15時前に抜け出し、空港に。羽田からは溜池に。夜、内閣府の研究会。

 

一日中アポイントメント続きで疲れきり、原稿が進まず。

広島大学の院生である谷渕茂樹君の書かれた拙著の書評を読む。至極ごもっともなご批判。

 

930日(金)

朝、9時半に駒場にいらしている延世大学の白永瑞先生を訪ねる。両岸三地の件。日韓の会議とはまったく別の話として伝えると安心された模様。あとは経費の問題。11時にNHKに。途中ニュージーランド大使館付近を歩いていて、麻生太郎氏の自宅を見る。巨大洋館。NHKでは、日中戦争史研究の昨今の動向などについて、文化特集担当の方々にお話しする。昼食をご一緒したあと、新宿へ。13時半から、名古屋大学出版会から出す『東アジア国際政治史』の編集会議。コラムは出揃い、本文の第二原稿を集める段階。まだ少し時間がかかるか。服部龍二さんにずいぶんと負担をかけている。15時ごろ神保町に。台湾の授業で使う、日本と中国の歴史教科書を購入。そのまま勉誠出版社に。16時から、貴志俊彦先生、孫安石先生とともに編集している『戦争・ラジオ・記憶』の編集会議。表紙などを決める。この件は、だいぶ貴志先生に負担をかけている。17時半ごろ抜け出し、北千住に。宇都宮の松金さんと食事。台湾事情に関する情報交換。こちらが教わるほうが多いが。10月末の亜東関係協会の会議はどうなることやら。

 

101日(土)

講談社の原稿、岩波の原稿ともに間に合わず。

9時に御茶ノ水へ。明治大学で日本政治学会。中国研究のセッション、分科会5でコメンテーター。辻中豊(筑波大学)「比較のなかの中国『市民社会』組織―市民社会組織調査(JIGS8カ国国際比較に基づいて」は、北京大学との合同研究で特に「社団」の状況について報告。比較政治学の土壌に中国がのることを示す。興味深い報告。平野聡(東京大学)「歴史認識としての中国ナショナリズム」は、平野さんらしい解釈で抗日ナショナリズムを論じる。フロアの近藤邦康先生からのコメント、「1972年から1995年くらいまでは抗日ナショナリズムによって秩序は保たれていたのではないか」という点は重要な論点。滝田豪(大阪国際大学)「農村の統治秩序から見る現代中国の国家」は、村落の「基層政権」から中国を見ようとする。その村落政策が結局「治安」に修練するさまを明らかにする。しかし、「治安」を維持するといっても、それはそれで大変なことである。もうひとりの討論者である下斗米伸夫(法政大学)は、社会主義体制との比較、市民社会論など広い観点からコメント。さすがである。抗日ナショナリズムが共産党の「ひとつ」の正当性の由来になっていることは確かだが、それにすべてを帰着させるのはおかしい、中国はソ連とも、アメリカとも敵対していた…これもそのとおりである。他方、このセッションで一番楽しめたものは、司会である国分良成(慶應義塾大学)先生の司会をおこないながらのコメントであった。(1)反日デモには非常に多くの利益団体、特に日本の電気製品と競合するような利益団体が関与していたことがわかってきている、(2)日中の相互認識は一致している。民族主義、軍国主義、国家主義…お互いに同じイメージをもっている、うまくいくはずがない、(3)中国では対米関係がよくなりさえすれは日中関係が改善されると考える向きが多い(対日関係は従属変数)、(4)鄭永年教授はde-facto federalism という観点で中国を捉えようとしている、(5)中国共産党の支配の弱体化の中で、社団に依拠したような、つまり自民党型55年体制をつくれないかと模索してきたが、それもだめになって、結局市民社会の形成を想定するしかなくなっている…といったことである。きわめて興味深い。会の終了後、野村浩一先生と少し時間をとってお話しする。

 

東京駅から成田空港へ。台風の影響がないのか、フライトに異常なし。荷物が重く、50キロを超える。本や資料のためである。日本亜細亜航空の作成したガイドブックは本当にできがいい。JALがつくったバージョンは、つまらない。機内では、台湾の各紙を読み漁る。高鉄の管理体制、地方選挙をめぐる動き、民進党の改革、小泉総理の靖国参拝違憲判決、金門島での人民元兌換、などといった課題が各紙に。これから12月の選挙に向けて動きが活発になるのであろう。そういえば、李敖がまた台湾に戻っている。宋楚瑜の台北市長出馬への期待を示している。スポーツ欄は、台湾選手の大リーグでの活躍を報じる。東アジア各国は、自分とアメリカとの関係にばかり目が行き、横の国がどうか見ない。報道でもそれがはっきり見られる。

 

空港には劉維開先生と二人の学生さんがお出迎え。台風が明日来るので、今日来られてよかったと話す。いま台湾の東海岸沖に巨大台風がいる。車で政治大学へ。家は、一軒家。とてもとても古く、ドアを開けるのも一苦労というところがあるが、二階建ての一軒家に一人住まいでは、ちょっと広すぎる。実質的には一階部分だけしかつかわないのではないか。二階にベッドつきの部屋が三室もあり、一回のリビングは10数畳あり、それと別にキッチンと、巨大な調理場がある。バストイレは一階と二階にそれぞれ。しかし、相当ガタがきているようで、一階の洗面所は使ってくれるなとか、いろいろなことがある。明日の台風による漏水が不安に。いずれにしても、学内ではなく、学外に住むということはとても重要。生活面での目線が特殊でなくなるからである。

 

台湾の電話のチップをなくしてしまったこと。携帯の番号を変えることにする。

皆さんと軽く食事をして、その後買いだしに行く。

原稿も書けず、そのまま休む。幸い、虫やゴキブリはでてこない。

 

102日(日)

巨大台風。調理場があっさりと浸水。横の家の裏手の地面よりも、こちらの調理場のほうが低いのだから、当然雨水が流れ込む。タオルで防ぐが、どうしようもなし。このあたりのところが、依然台湾である。陳水扁がアラブ首長国連邦訪問を終え、台湾に戻る途中、台風が来ていたことから、インドネシアに降り、臨時の首脳会談をおこなう。予定されたことかどうか、外交部が微妙な言い回しで記者会見。メディア的には、台北市議会議員の呂NNの家庭内暴力と不倫疑惑問題が大きな話題。選挙での呂への事実とは異なる中傷が家庭内に影響したものと呂は主張。夫君は、血判書で謝罪。呂は女性候補に対する残忍な非難に抗議。

 

朝から講談社の新刊雑誌の原稿を書き続け、午後三時ごろ、ようやく書きあがり、メイルで編集者に送る。雨が少し小降りになったので、外に小吃を食べに行く。汁米粉はやはり美味しい。帰宅後、ある学会誌から依頼された査読論文を読む。締め切りを随分過ぎてしまっている。最近中国の外交史研究関連の査読依頼が本当に多い。一応、原稿に書き込みをして、所見を後回しにする。

 

夜から、岩波の「近代日本の学知」の原稿を書き始める。大方できているのだが、最後の調整をおこなう。これもラジオ関係である。…台風は福建省に上陸。だいぶ天気が落ち着いてきたが、まだ雨がぱらつく。木柵も南港同様に雨が多い。

 

103日(月)

朝、岩波の原稿を書き進めるが、なかなか進まない。

朝食は、美而美はないものの、似たような店がたくさんあるので、三明治を買う。新聞を見ると、国民党と親民党の連携がうまくいかないことなど。それに対して、基隆などでは民進党と台聯の連携がうまくいく。下馬評では、(陳総統への不満は相当なものであるが)民進党有利とのこと。宋楚瑜周辺からは、もう降りたほうがいいとの声も。台北市長になったところでどうにもならないではないか…との話。

 

9時半に学生が迎えに来る。学部四年生だという。事務関連の手伝いをしているようだ。まずはインターネット関係、次に保険関係の登録をして、バスに乗って「山上」に向かう。政治大学のキャンパスは山の上と下に分かれている。山上には、文学院はじめ、メディア系などがはいり、男子の宿舎もある(女子は山下)。「季陶」楼という建物の中に歴史学系がはいっている。戴季陶の名をとっているあたり、すでに国民党的な香りがする。歴史学系の事務室で手続きをおこなう。多数の書類にサインをする。問題は、自宅のネット(ADSL)、銀行口座の開設、・・・自宅のテレビのリモコンがないことといったところである。ひとつひとつ解決するしかない。また、小包やEMSはこの歴史学系まで来ず、「山下」の収発室にとどめおかれ、自分にとりに行くという面倒なシステムである。また、教材印刷などのシステムが十分でなく、事務室が開かなければコピーができない。そして、教員に与えられた複写枚数が学期で1000枚。これでは自腹で教材を準備するということになる。あるいは日本の国立大学が恵まれすぎているということか。

 

手続き中に薛化元先生、唐啓華先生が部屋に来る。唐先生から、中央研究院の報告があることを伝えられる。12月の抗日戦争と生活に関するシンポ。ラジオでいいかと、答えると、問題ないという。それで報告することに。手続き終了後、中央研究院の張力先生に電話、国家档案局への紹介を頼むと同時に、最近の档案館事情について。特に杜正勝の部長就任以後の教育部の档案行政について。少しずつ公開が進んでいる。また、国家档案局のホームページの検索システムが比較的よくなっていることに驚く。行政機関よりも、学校などの档案が多いことが特徴か。

 

1040分から、大学院生の研究報告会に参加。問題意識、途中経過、などさまざまな段階の院生が報告をおこなう場。興味があったのは、陳世栄「国家政権、菁英與社会変遷:両個台湾地方社会的個案研究」であった。これは板橋と豊原を事例に、1860年代から1950年代までの下層の

地域エリートを扱おうとするもの。むろん、国家・社会関係が変動する中で、エリート像もかわるという問題もあるが、台湾の地方派系形成史の原点になるのではないかと期待させるものになっている。

 

昼食は唐啓華先生と。政治大学のおかれている状況、学生の状況のことなどを聞く。「近代中国外交」のウェブサイト運営についても相談。档案をウェブ上にアップする方針。ただし、保存された場合どうなるか、そしてあらゆる档案をアップしていいものか、などの課題を残している。午後は、そのまま授業準備などをし、16時過ぎからまた院生の報告会に出席。ちょうど、研究室を出たところで台湾史研究所に来ている石田浩先生に出会う。さて、報告会は、鄭建生「国民革命中的農民運動」。従来の共産党の視点に基づく歴史を、国民党の五部档案などを利用して相対化することを目指したもの。「敵」はいるが、そのあとに構築するものが見えてこないところが課題か。それにしてもいろいろなタイプの学生がいるものである。会議終了後、外出のため研究室を出る。すると5階の教室から聞きなれた声がする。階段をあがって上から覗くと、やはり黄福慶先生である。午前中に黄先生に到着報告を電話でしていただけに奇遇である。黄先生は長期にわたって政治大学歴史学系の日本語の授業を担当している。そして彼の日本語の蔵書は歴史学系図書室に寄贈されている。辛亥革命前後の内容に関するテキストを利用しているらしい。彼の授業をはじめてみたが、わかりやすい授業である。よほど、中にはいってご挨拶しようと思ったが、控える。

 

政治大学からは捷運の動物園駅に行くスクールバスがある。それに乗って、市内に出る。台北市内のレストランで卒業生と、いま台湾大学に交換留学している学生たちと食事。留学の様子を聞く。店のオーナーと少し時局の話をする。この店は、馬英九をはじめ、政治関係者がよく出入りしているので、興味深いはなしを聞くことができる。

 

10月4日(火)

7時前に家を出て歩きながら山をあがる。いい運動である。810分から1限の授業。教材を準備するスペースがないので、不便である。前日にしておく必要がある。学生は教室からあふれている。傍聴者がいるようである。授業は比較的順調?であったか。質問表を日本と同様に配る。来週までにまとめる予定。

 

授業終了後、「発呆」。11月初旬に日本アーカイブズ学会のお歴々が見えるのでその手配。すでに国家档案局には張力さんを通じて依頼。政治大の図書資訊與档案学研究所の薛理桂享受とも連絡が取れ、少し台湾の档案行政について議論。国家档案法以後、档案が宙に浮いてしまっていることの問題性。113日午後か4日にお会いすることに。明日の授業のレジュメをつくる。授業それ自体は、『鄒嘉来日記』を読めないかと思っているが、『那桐日記』のように活字になっているものでもいい。あるいは『汪栄宝日記』か?初回の授業のために日本の学術情報、資料情報入手用のガイドを作成する。役にたつかどうか。

 

午後、政治大学に来ていた何義麟さんと部屋の前で会う。台湾史研究所での講演のため。終わった後に会う約束をする。そのあと、日本語学科の藤井志津枝先生がいらっしゃる(中国語で、傅先生)。主題は、彼女を中心に進めている「日露戦争後の東アジア国際情勢」プロジェクトにおける報告依頼。12月初旬とのこと。この話題のほかに、台湾の学術状況、社会状況、政局などについて話す。また、台湾南部では応用日本語学科で学生が募集しきれず廃科になるところが出だしているという。16時過ぎに講演を終えた何義麟さんが研究室に来る。台湾の日本研究の動向について。また月末に台湾大学である日本研究のシンポジウムに参加をうながされる。また、非常に興味深い194549年の台湾に関する研究について。国際連合のある部局のブランチが台湾にあり、そこに勤務した人の史料から、いろいろなことがわかるという。ジュネーブに行かなければ、と思う。

 

山からおり、スーパーで一通りのものを買い、自宅で洗濯。李明峻さんから電話。土曜の晩に会うことに。また、北大から台湾に戻った学生からの電話。来週会うことに。

 

105日(水)

7時過ぎに大学に着く。大学院生の授業の準備。清末の外務部の官僚の日記、鄒嘉来日記を読むつりである。最初で時間が余るので、日本の資料館、学術情報入手の方法を記したレジュメと、鄒嘉来関連の日本の外交文書を教材にする。参加者は、20名近く。学生たちの反応も悪くない。これほど専門的なことができるということに感動する。北大法学部では、ありえないことである。

 

授業終了後、どっと疲れる。松金さんから、11月の台湾研究会のシンポでの報告の題名の問い合わせ。なんとかでっちあげる。「195060年代の日台関係と官製日本イメージ」、…なんとか図書室にある聯合報とは自由時報を読み込んで、5060年代の日本をめぐる言論をおさえたいのだが…他方、『政経報』『新台湾』などといった194549年の台湾の左翼系雑誌にも多くの日本関係記事があることに気づく。また、日本の台湾統治を振り返るような内容も。228事件以前の言論としてきわめて興味深いものである。台湾の政治思想史の空間はまだまだあるように思う。

 

北海道大学の留学生受入関連のMLを見る。留学生の口座開設に際して、サインでの開設などの便宜をはかってくれると約束したはずの銀行の窓口の対応が悪く、学生たちが憤っている。北大の関係窓口に電話して調整するが、なかなか銀行側がとりあってくれないようである。担当者が代わると対応が変わり、まだある担当者も行くたびに言うことが変わるという。これでは、10年前のどっかの国の銀行や官庁と同じである。日本のアジア化か。WTOとか、FTAとかいいながら、こんな基層がすさまじくドメスティックなのはどうだろうか。グローバリゼーション・・・とは?

 

中央研究院近代史研究所に12月のシンポの題名報告。「戦争與広播:東亜的電波戦争」。昔、档案館の「小姐」だった遊び友達が、いつのまにか研究所の事務方面の偉い人たちになっている。荘樹華さんが、档案館主任になったのもかつてでは考えられない(近代史研究所の中で档案館が軽視される中で、当該ポストを格下げしたという話もあるが)。その荘さんに電話して、11月はじめの日本アーカイブズ学会のお歴々のことについて相談。

 

国民党から、10月末のシンポの招聘状が届く。今月は上旬に法史学関連で岸本先生がお見えになるし、故宮は明清史関連のシンポを開いて茅海建先生らを招くという。月末の国民党のシンポは、当然抗日戦争もの。「お金もないし、やりたくなかったが、やらざるを得ないだろう」というのが関係者の言。また、亜東関係協会からも月末のシンポの招待状が届く。こちらは報告である。会場は国家図書館なので、国民党と近い。両方はしごということもある。

 

まだ終わっていない岩波の論文を書く。

 

18時過ぎに待ち合わせて政治大学歴史学系主催の宴席に。呂紹理さんに送ってもらう。閻心恆、林能士、張哲郎などといったお歴々のテーブルと、若手=現役のテーブルにわかれる。政治大学の結束の強さか。以前ほどの酒の勢いはない。むしろ老人たちのほうが酒を飲む。閻先生に、せっかくなので、政治大学の歴史について聞く。中央政治学校の文書類は、大学内にはないという。しかし、90年代に校史を書いたのは閻教授である。各方面から資料をかき集めたとのこと。国民党との関係を協調せざるを得ない学校史はこれからどう書くのか。閻教授は彭明輝教授に託したというが…。例の必修課関連のポスト削減については、必ずしも悪い話ではない。

 

宴会中、NHKでニュースプラス10を担当しているNアナウンサーから電話。彼とは満洲国のラジオ案件以来つきあいである。休みが取れたので台湾に来るという。楽しみである。

 

…宴会前後に、小生の採用について、国家科学委員会の審査委員からクレームがつき、給料の一部がカットされたことを知る。唐啓華先生が、「もうしわけない」と以前言っていたことを思い出す。問題になったのは授業科目ではなく、もっと根本的なところであったらしい。小生個人に対する評価か、政治大学に対する嫌がらせか、このあたりは不明。通常客員教授はだいたい大教授が来ることが多いので、小生のような若輩が来るといろいろなことがあるのだろう。また「政治的」に何かあったのかもしれない。しかし、それでも台湾の助教授とほぼ同額なので、別に実質的な問題はない。外国人ということで、本来は職種が助教授でも教授クラスの給料が保証されていたものが、助教授級になったのである。政治大学の先生方は、「採用していながら、カットとは失礼である」と言うが、問題の所在は理由が不明なところ、情報非公開にあるのではないかとも思う。台湾の場合、人事などで公開審議がなされる傾向にあるが、まだまだ不分明なことが多い。まあ、三ヶ月居られるだけでもいいことなので、あまり考えないことにしたい。気にすると、また鬱になりそうである。

 

106

朝、意を決して郵便局の口座開設手続きを始める。気分転換でもある。

まず、大学側の指示に従って、善導寺横にある内政部警政局に行く。このあたりは228事件で攻撃対象になったところである。ところが、ここではないといわれ、台北市警察局の外事課に行けという。西門の駅のすぐ脇にある警察局外事課に行く。手続きは至極簡単。要するに「統一証号」という、台湾人の身分証にある番号にかわるものがあればいいのだ。手続きがいろいろありそうなのはフィリピン人たちで、日本人はあまり問題にならないらしい。このあたりは優遇措置だが、台湾でも外国籍看護婦の採用などが制度化されていることを考えると、労働力移動の問題はアジア的課題である。

 

その証号をもらってから、木柵に戻り、指南路(政治大学生門前)の郵便局に向かう。ここでの手続きは面倒である。書類などはまだいいのだが、最後に印鑑でひっかかった。フルネームの印鑑でないといけないという。「洋人だったらどうするのだ?」と聞くと、それでも作らせるという。それが本人であるという証明はパスポートにも、その「統一証号」の証書にもないのに、漢字でフルネームの印鑑をつくらないと口座開設はできないという。これは合理性というよりも、もはや文化である。仕方ないので、大学の中の「刻印」の店にいって印鑑をつくる。隷書を選ぶ。しかし、刻印の店が大学にあるところを見れば、印鑑社会であるということが理解できる。値段も50元、時間は15分。こんなものである。そのあと、郵便局に戻り、やっと通帳をもらう。暗証番号も必要。通帳と印鑑だけではだめなのである。キャッシュカードは一週間後(夕方にきちんと電話で本人確認があった。このあたりはしっかりしている)。朝から、4時間半費やして、やっと通帳をゲットできたしだい。なかなか大変である。

 

午後は、岩波の原稿と雑事に追われる。あと、音がないとつらいのでインターネットラジオへの接続をあれこれ試みる。Real Radio APACというのが実によく、台湾の「宝島新声」などを聞く。本当に便利である。自宅のADSLは、日曜日に工事がくることに。中華電信ではなく、東森になる。契約期間の問題。経費は3000元程度。テレビのリモコン問題を解決すれば、生活問題はほぼ解決しよう。

 

夜、ゴミだし。これがまた大変である。940分に例の音楽とともに収集車がくる。弁別が厳しいと聞いていたが、実際にはコンビニで売っているゴミ袋にいれていればそのまま車に放り込むだけである。多くの家では、このゴミ袋を買わずに自分の袋にいれてもってきて、収集車が準備しているポリバケツにゴミの中身をいれている。

 

…科研申請のシーズンになり、いくつかのお誘いを受ける。エフォート、残っているのだろうか。JFE21世紀財団から正式に採用通知が届けられる。式典には出られそうにない。協力者の中村元哉君に代理出席してもらうことを考える。

 

107日(金)

昨夕のことであるが、大学図書館に行ってみた。実に重要な資料が多い。特に1949年以降の資料はたいへん豊富である。とても使える。特にラジオ関係は充実していた。

 

国務院と呼ばれている国際事務学院の院長との食事の件が固まる。来週。1012月の間に自分が帰国するスケジュールにあわせて、飛行機などを予約する。

 

岩波のラジオ原稿を進める。満洲だけで80枚、行ってしまいそうである。夜、アルバイトの関係で学生と会い、食事に行くことに。18時に国賓で待ち合わせ、台湾料理の紅玉に。久しぶり。

 

108日(土)

大雨である。外に出るという感じではない。雨が降ると家の中の蟻が急増する。

岩波のラジオ原稿をひたすら書き続ける。

 

12月の選挙に向け、さまざまな動きがある。一週間の間にいろいろ聞いたり、見たりしたが、2008年までを視野に入れると、いまピークを迎えている国民党の馬英九をどれくらい下げていけるのか、また民進党のピークをあげていくことができるのかという戦いである。だいたいこのピーキングで国民党は失敗を続けている。民進党のほうが選挙は圧倒的にうまい。また、国民党は総統候補が決まっているが、民進党は副総統が決まっている状態(高雄の女性市長=客家で、日本語も英語もできる。あらゆる要素から見て適任)である。民進党の総統候補は、謝・遊・蘇の争いとなろう。陳水扁は遊に期待しているというが、全体から見れば謝有利といわれる。2007年には、新制度下で最初の立法院選挙がある。これがどうなるか。おそらくは民進党有利だろう。しかし、いまでも第一党である民進党が、果たして台聯とあわせても絶対過半数をとれるのか、わからない。来年におこなわれる台北と高雄の市長選挙。台北に宋楚瑜が出るとか言われているが、民進党的には台北は難しい。高雄は抑えたいところである。今年の年末の選挙は、馬英九の出鼻をくじくことができるか、あるいは陳政権に決定的にダメージを与えられるかというもの。いまのところ、台北県、台中県、台中市、雲林県などが「藍緑」の争いどころ。台北で羅文嘉がどこまで戦えるのか。台北県には意外に客家票が多く、これが羅にいくことになろう。他方、絶対不利の中で、林佳龍がどこまでやれるのか。台中市の場合、胡志強が病気だということがある。いまのところ50パーセントの支持を受けている胡が激しい選挙戦を戦えるのか。そして、任期をまっとうできるのか。うまくいけば今回、できれば次回に林市長を誕生させ、台北出身の陳水扁、南部の謝長廷、そして台中市長出身の林、という具合にトップを排出したい民進党。また、今回は地方の議会選挙も連動しているので、林を盛り上げていくには有利とされる。

しかし、それにしも陳水扁に対する評価はきわめて低い。民心も離れている。特に、先般の彼の息子の結婚式に際して、南部などで洪水で大災害が発生していたにも関わらず、式を強行したことで、南部からの支持も失ったという。だが、民進党にとってよかったのは、あくまでも陳への反対であって、民進党否定にはなっていないことであろう。

 

夜、李明峻さんと食事。また紅玉。

行く途中で中山駅から中山北路下の地下街を歩いて驚く。若い人たちが、ダンスやミュージカル的な演劇を練習する場所になっている。李さんとは台湾の政治状況、日台関係、台湾日本学会のことなど。彼の学位論文の進捗状況を聞き、歓喜する。1月に北大に講演で招聘する浅田正彦先生との関係も知り、おどろく。世の中は狭いものである。二次会は、原住民系のところに行こうとして「関門」。偶然路上で小生の知り合いに会い、その人の店へ。三次会は、北海道出身者が経営する老舗のパブに。台北で最初にカラオケを導入した店とも言われるところ。とてもいい雰囲気で、話がちゃんとできるところである。

 

109日(日)

ひたすら岩波のラジオ論文の原稿を書く。夜九時ごろ、やっと終わり、早稲田の山本武利先生の岩波の編集者に送る。

 

午後から、2月にあった外交史のシンポジウムの自らの原稿の修正、またそのほかの編集作業にとりかかる。青山瑠妙さんと小生が編者に。編集作業もたいへんである。

 

1010日(月)

国慶節。辛亥革命記念日である。中華民国的色彩はほとんどない。中華民国はどこに、という感じである。抗日英雄たちは今年の93日に大陸に招かれたから、それでいいということか。中華芸術学院の踊りなどが続く。台湾色が本当に強い。他方、朝刊に、国際的競争力をつけるための大学ごとの重点配分経費が決定したとある。台湾大学が30億、第二が成功大学。理系の大学がずらりと並ぶ。政治大学も下のほうにランクインして3億元。文系としてはおおいほうであろう。

 

何とか2月におこなわれた外交史のワークショップの編集作業をおえて、PHPに送る。やっと一つ。台湾のシンポも早々に提出することを求められる。…山本先生から、満洲のことを書いた人が多いので、内容を調整する必要があるかもしれない、とのこと。なかなか厳しいコメント。

 

昼食に久しぶりに牛肉麺を食べに行く。午後は、明日の授業の準備。学部向けの授業。特に先週のアンケート結果の打ち込みがたいへんである。またレジュメも作成。なんとか7時に工読生に渡すことができる。彼曰く間に合うという。夜は、督促のあった国史館原稿に取り掛かる。戦後日本の二つの中国をめぐる政策、言論の整理。石井明先生の論文を読み直す。

 

アジア農村研究会編『学生のためのフィールドワーク入門』(めこん)公刊の知らせが入る。うれしい。松金さんとメイルを何回か往復する。台湾日本学会に関する件、また日本の東アジア近代史学会の件。後者はここ数日、茂木敏夫さん、加藤聖文さんとメイルを往復していた。

 

1011日(火)

朝、北大の人事関連についての審査所見を提出する。まったく門外漢だが興味深く読めた。何とか授業前の提出が間に合う。

 

学部の授業。前回の質問表と新しい内容。学生の食いつきはいいように感じる。授業後も質問が出てくる。いわゆる「百人斬」のことや、戦後処理をめぐるドイツとの比較など。戦後における「百人斬」の当事者の家族による訴訟まで知っている。勉強はよくしている学生が居る。

 

明日大学院の授業にそなえ、鄒嘉来日記に関連する事項(赤十字、ビルマ・雲南国境問題)についての日本外交文書をダウンロードするが、印刷に手間取る。

 

この文書を学生にメイルで送るかたわら、先週のゼミのときに提出してもらった院生たちの研究課題や質問に答え、また参考文献などを挙げていく。

同學 : 你要先了解的是日本本身的醫學史 還是台灣的醫學教育史? 我寫過一篇文章一個醫學系教授的台北帝大時代(Academia台北帝國大學研究》2, 1997)

同學你所"士人群"的定義呢? 從甚麼樣的角度來做研究? 是不是從李孝悌的書那樣的做法來作, 或呂芳上作的運動學生的研究那樣的做法來作,,,還是用官僚的日記來作?

同學你的研究的方向,很有意思. 國際組織跟台灣關係不一定是兩者關係,其實中間有許多actor介在. 日本也是.

同學我的大學部時代的導師, 佐藤公教授的書, 你有沒有看過.那本書目前世界最高水準的義和團研究, 包括日本的關係.還是那時候日本軍隊希望作為文明國家軍隊, 行為比較妥當, 保護總理衙門.

同學外交官的世代..."世代"的定義,你怎樣處理? 這是北京以來的宿題.

同學 是的, 9月份我在北京大學當了客座教授.雖然沒有教課, 但是總共有8場的演講.

         最大的收穫呢,...過有學術性的生活, 因為在日本雜務太多,沒辦法過有學術性的日子.還有,看到很多案和雜誌史料,跟中國學者多多聊天等等.

同學你有興趣的傀儡政權是那一個?

同學你的題目, 北洋政府與廣州國民政府 的關係, 聽起來很有意思. 我也在書里討論 了一些. 但是,你的興趣只在廣州"國民"政府嗎?

同學想起來了. 那時候你跟另外一位一起去箱根玩! 抵制日貨運動...那時候的中國人怎樣認知甚麼是日本的貨物呢??  

同學你怎麼看待"吉田書簡"? 你能不能贊成袁克勤和陳肇斌的看法? 還是, 日本的大亞西亞主義的變遷如何? 你有甚麼有特色的想法?

といった具合である。

 

何とか夕方までに間に合い、発出。複写も終わる。香港に居らっしゃる胡春恵教授にファックスを打つ。来年、アモイ大学で開催される両岸三地の会のことについて、「両岸三地+2」とする提案に関する相談。白永瑞先生との相談の結果。夜、福華飯店に食事にいく。卒業生とその友人たちと。新人類のひとたちだろう。思ったよりも北大への留学希望者が多い。8時半には解散、捷運とバスで帰宅。940分のゴミ出しに間に合う。隣家では徹夜のマージャンの音。台湾らしい。テレビのリモコン問題解決。科研関係、いろいろな打診が続く。北大文学部の吉開さんの科研には参加の返事をする。

 

1012日(水)

朝七時に家を出る。だいたい授業があるときはこの時間に家を出る。そしていつも三明治を買う店でそれを買う。いつも買うので、顔見知りになっている。政治大学を山の上まで上るのはなかなかこたえるがいい運動である。

 

10時から大学院生の授業。鄒嘉来日記について読み込んでいく。字の解読が大変だが、本当に面白い。学生の中には、こういった解読が面白い人と、面白くない人がいるだろう。適宜、砕けた話題を提供する。二時間があっという間に過ぎる。授業終了後、学生から満洲国の外交文書はどこにあるのかと聞かれてドキッとする。以前、日文研で報告したことがあるからだ。その状況について答える。なかなか、面白いことになってきている。

 

昼食(だいたい弁当をお願いする)を終えてから、国史館に行く。閲覧室にはいると劉維開先生が居る。今回の目的は、194593日。果たしてなぜ93日が抗日勝利紀念日になったのか、ということで蒋介石档案の『事略稿本』を見ていく。驚いたことに、923日、蒋介石は毛沢東と会い、宴席をおこないながらも、勝利の美酒に酔うどころか、「憂鬱だ」と語っている。周知のとおり、共産党がちゃんと言うことを聞けば一省の主席のポストを与えるなどとしており、この時点では共産党自身の脅威はそこまで大きくない。脅威自体はソ連である。95日にはソ連の駐華大使と握手を交わしているのだが、実際には東北と新疆を「侵略」されており、それが「抗日戦争には勝ったものの、革命尚未だ成らず」とまで言わしめたことにつながるのであろう。93日にした理由については、国際社会は、みなこの93日を記念日にしているといった程度にとどまっている。92日に調印し、3日に祝典を開いているという程度のことか。このときの状況からしてソ連にあわせているということは考えにくいのだが…。それともアメリカの92日の正午が、中国の93日の早朝だからであろうか?

 

他方、外交部档案の公開は一気に進み、同時に史料集の刊行も進んでいる。キャッチアップが大変である。

1726  外交部亜西司

1727  外交部国際司(国際連合

1728  外交部亜太平洋司

1729  外交部領事事務局

172-10  外交部総務司

172-11 外交部駐外使領館

172-12 外交部人事処

172-13 外交部北美司、非洲司など

 

他方、檜山幸夫先生から頼まれていた仕事をする。19451025日に安藤利吉総督がサインした「降書」はどこにあるのかということ。周知のとおり、安藤は、降書は書いていない。台湾は中国戦区の一部であるが植民地である。イギリスやフランスの植民地であった香港やヴェトナムで降書はあっても、日本の植民地であった台湾ではないのである。安藤がサインしたのは「受領証」である。それは台湾省行政長官公署から発せられた、99日の南京での降伏文書調印をふまえた、軍事・行政全体を含む統治権の委譲を命ずるもので、安藤はそれを「受領」したということである。台湾での手続きはこのようにして進んだのである。文書それ自体は国史館にあるようではあるが、確答は引き出せない。99日の南京での降書は国史館が有している。

 

そういえば、国史館では午後二時半から職員全員で映像を見ながら運動をするということになったらしい。世界のアーカイブで、突然職員が全員閲覧室脇で運動しはじめるというのもここだけではないか。それもなかなか激しい運動で、飛び跳ね系もある。なかなか面白い風景である。

 

夕食は、中央大学歴史学系の鄭政誠教授と彼の師範大学時代の先輩の台北市立教育大学の方と。話題は多岐にわたる。今週末、来週末のシンポジウムのこと。また、中央大学での講演は断れなかった。台北市立教育大学は丁重にお断りする。話をしながら、国姓爺合戦伝説(特に鄭成功の母親が日本人ということなど)と日本統治時代の日台連携の神話形成に関心をもつ。いろいろ行きたいところはないかと言われたので、以前南勢角にあるビルマ街(ビルマからの引揚者の街)に行ったが、韓国街に行きたいといった。中和・永和にはそういった街がほかにもあるという。興味深い。

 

9時前に帰宅すると、孫安石さんから『中華教育報』を焼いたCDが着いている。先般、北京大学で汪栄宝日記を焼いたCDは台湾では見られなかったので、これは見られるといい。並木先生のところの戦前期の中国の教科書をめぐるプロジェクトの論文集への論文執筆が課題。皆さんに比べて作業が遅れている。

 

日本の官庁から依頼されたレポートがなかなか終わらない。中国経済に関するもの。また、朱建栄さんが朱版の「参考消息」のメイル配信を再開。嬉しいのだがファイルが大きく、メイルの送受信が突然詰まりはじめる。科研がらみの調整が最終段階に入り始める。駒場の三谷先生から依頼があるが、おそらくこれで今年の研究分担者登録は終わりであろう。最終的に協力者になることにしたのは5件であった。結果が楽しみである。

 

1013日(木)

大雨である。バケツをひっくり返したような状態である。あまりにひどいので、研究室にはいかないで家で原稿を書く。10時ごろ、官庁から頼まれていた中国経済に関する原稿を出す。あまりうまく書けない。国史館の学会論文に取り掛かる。与えられたお題は「1971年以前日本的二中議政」。以前、朝日新聞に依頼されて1960年代の外交文書を調査したときのメモをあさる。また、国会議事録を通してみる。「二つの中国」をめぐる議論がたいへん多いことに気づかされる。

 

昼になると雨が上がる。大学に行き、李英明・国際事務学院院長と同大学院の大学院生たちと食事。李先生とは、台湾における中国研究、両岸関係研究について話す。中国研究が、ある意味で国民党式の研究を克服してきているのに対して、両岸関係研究は完全に政治化しているという。中国研究と両岸関係研究との間に対話がない、ということもポイント。李教授としては、フィールドワークなどを重視した新たな中国研究の可能性を模索しているという。他方、北海道大学と政治大学との交流についても議論。ニーズが相当あるようで、また先方での選抜調整の問題もあり、人数増加について相談される。

 

午後はまた自宅で論文を書き、夕方から休暇を利用して台湾に来たNHKNアナウンサーをホテルまで迎えに行く。彼とはラジオ研究関連の付き合いで、今年の前半にラジオ番組を作成したことがあった。彼と欣葉の本店へ、近くの夜市を抜けていく。話題はいろいろ。二次会は、林森北路へ。午前様。

 

1014日(金)

鍾淑敏さんから、12月にある林本源基金会関連の研究会で報告するように言われる。愛知大学のCOEの北京でのシンポ報告があるときだが、何とか調整をする。この調整に意外に時間がかかる。…ラジオ原稿が終わらない。

 

夕方、Nさんのホテルに行くべくバスに乗ると、石田浩先生に偶然出会う。月末の亜東関係協会のことなどを話す。また、1970年代の日本の台湾研究のことについて。こういった研究史に対する皮膚感覚は自分にはない。石田先生とは公館で別れる。

 

Nさんと今日案内してくれた人と待ち合わせし、国父紀念館近くのレストランに。北海道大学関係の学生たちも一緒に上海料理を食べる。なかなかのものである。終了後、二次会はNさんと二人で茶館に。茶のこと、NHKのこと、あるいは彼の取材したことなど、話は多岐にわたった。今日は午前様にならず。

 

1015日(土)

一日中原稿を書き続ける。国史館の学校報告原稿。あと、火曜日の授業の準備。

 

師範大学の院生からメイル。「汪政権と朝鮮華僑」を研究していて、政治大学でのゼミに出たいという。喜んでお引き受けした。

 

1016日(日)

選挙がだんだんと本格化。この週末に桃園などで決起集会が開かれ始める。だが、ワイドショー的なニュースも相変わらず多い。10時過ぎにやっと国史館で開かれる学会の論文が終わる。「二つの中国」をめぐる議論について整理したもの。「二つの中国」については、戦後、思いのほかその内容に変遷が見られたことを知る。日本語で書いたので、林幸亜さんに送って、訳してもらうことにする。

 

1月末の「日華外交史・日台関係史」に関するワークショップの論文集の編集にとりかかる。自分でまとめる部分と、まえがき、あとがき、そのほかの編集作業を終わらせねばならない。作業途中、集中できず、ある学会誌から依頼されている審査論文や指導している学生の論文を読み始める。学会誌からの査読依頼論文はだんだん増えている。一ヶ月に2本は越える状態である。「不可」はつけたくないが、どうしても問題の絞込みと先行研究のところでつまずくと印象が悪い。

 

北海道大学の農学研究科の卒業生から電話。卒業してから、北海道のNGOで働いていたが、この夏に退職して台湾に戻っていた。居所が萬芳社区と近いこともあり、火曜日に食事をすることにする。夕方、時々ある匿名メイルが舞い込む。簡体字である。北海道日中関係学会のウェブサイトに掲載されている、2001年に書いた「日本の対中ODAを考える」という小考について、「読後感」を送ってきた。「不敢恭維(お世辞にも褒められない)」から始まり、縷々ご批判。日本語が読めていないのか、それとも批判能力がないのか、あるいは2001年に書かれたものであると思っていないのか、内容的には酷いもので、自説を展開しておわっている。調べてみると、日本に来ている留学生か、日本で働いている人らしい。ウェブ上での匿名の批判や、こういった匿名メイルは時々舞い込む。一応、日本語をちゃんと読んでから批判してほしい、という返事をしておいた。

 

東大文学部の院生からメイル。史料についての質問。今週末は、駒場の村田雄二郎先生のゼミの院生たちが政治大学に来てジョイント・シンポを開催する。21日午後が院生の交流会。22日がシンポ。22日は日本に一時帰国するので、出られないが21日はつきあうつもりである。今週は、17日の月曜日から、金曜まで宴会。この週末、いろいろなシンポがあったが、出席せずに休養してよかったのかもしれない。

 

10月17日(月)

朝から雑事。JFE財団にファックスを送り、また自宅のLANの容量増加の交渉など。11月初旬のアーカイブズ関連の手配。日程が固まりつつあるが、ゆっくりしか進まない。国史館に電話して調整。こちらはスムースに進む。午前中は、授業の準備に時間を費やす。山川の詳説日本史の内容が随分とかわっていることに驚く。

 

小泉総理の靖国参拝。やはり郵政法案通過と靖国から秋にと言われていた(17−19日)ことに絡めて今日ということになったのだろう。中国外交部がなかなか声明を出さない。金熙徳さんがいち早く談話を公表。東アジアの首脳外交、12月のノムヒョン大統領の訪日も危なくなるだろうと発言。韓国への言及は金さんらしい。東アジア共同体はどこにいってしまうのか。官庁からいくつか、分析の依頼。

 

原稿は進まない。1950年代初頭の『聯合版』、『自立晩報』などを眺める。1951年9月3日はやはり抗日勝利記念日になっている。

 

夜、5時半に黄福慶先生と待ち合わせてのみに行く。久しぶりである。政治大学の学生を含め、全部で6人。白酒をけっこう飲む。黄福慶先生から、坂野正高先生のゼミの様子を聞く。『籌辦夷務始末』を購読する授業で、坂野先生がしばしば黄先生に内容や読み方を尋ねたという。興味深い。また1980年代後半の日本と台湾の学術交流の状況について、当時は、航空券、宿泊代、講演費を準備しても誰もこなかった、とのこと。その中で酒井忠夫先生、渡部惇先生らが台湾を訪問して学会に参加した。そのときの話など、とてもおもしろい。日台の学術交流がここまで進むと、そういった頃の話が消し飛んでいく。黄福慶先生、林明徳先生を通して交流をしていた頃のこと、段々記憶の中から風化していくのかもしれない。あの頃は、いまのように交流が多元化し、質量ともに向上することを望んでいたが、少しさびしい気もする。終了後、林森北路へ。また飲む。終わった後、黄先生は帰宅され、学生を連れて茶館に。夜中の二時半過ぎまでいる。

 

10月18日(火)

朝、何とか起きる。講義。靖国参拝の背景などについて1時間話す。選挙制度改革も。

 

1月末の日華外交史・日台関係史のフォーラムについての議論の整理。出版予定である。若林正丈先生のレジュメを熟読しなおす。再び強く啓発される。「脱帝国化」きわめて重要である。

 

中華人民共和国外交部のウェブサイトにいろいろなことが掲載されている。公式声明とともに、孔泉報道官と記者たちとの会見の様子も。「小泉首相采取什方式,都不能他参拜的实质,中方理所当然地要做出烈的反」…公的参拝も私的参拝もない、ということである。興味深いのは、「近代史上,日本国主义对中国人民的害最深重。展中日系必有一个定的基,那就是以史为鉴,面向未来。日本领导人在问题上做。然而今天的行动证明,他言而无信,没有遵守自己的承,没有遵守他们对中国人民、对亚洲人民以及全世界好和平人民所做出的承这种错误必然会重的政治后果」というように、日中間には歴史問題に関する「共識」があったものを、小泉総理が破ったと述べていることである。中国側は、この点と感情を傷つけたという二点で抗議しているが、「任何人倒行逆施,都有于两国先人,有于两国子,最必将是搬起石头砸自己的脚’”」という内容を見ると、離別宣言ともとれる。しかし、同時に両国の経済関係などがうまくいっていることも示唆している。小泉総理に対する攻撃を、中国はクールダウンさせていた時期だけに、これで年末までいくのだろうという感じになった。東アジア共同体、サミット、どうなるのであろうか。

 

夜、北海道大学の農学部を出た卒業生を会う。周華建の開いた店。広東料理。明日から層雲峡に講習の講師としていくという。北海道には台湾人の客が多いので、そういった外国人へのもてなしの講習会とのこと。北海道の人に、台北の様子を見せて、彼らが「台湾という遅れた田舎」から繰るのではなくて、東京人と同じように、大都会から癒されにくる、といったことから説明しなければいけないとのこと。

 

1019日(水)

8時からゼミ。学生たちは積極的である。日記の解読が進んでいく。議論も高度である。日本では、こういったゼミは開けないだろう。今日から参加した師範大学の学生から修士論文をもらう。『汪政権与朝鮮華僑』…実に興味深いテーマである。授業の後、郵便局に行き、キャッシュカードを受け取る。届いたら、電話をくれるといっていたのだが…

 

政府に出す「提言書」の締め切りなので、書き進める。だが、靖国神社への参拝…どうしようもないことが多く書きあぐねる。外交部が言っている、任何人倒行逆施,都有于两国先人,有于两国子,最必将是搬起石头砸自己的脚’”は、具体的に何がどうなる、ということなのだろうか。それとも道理の話なのであろうか。

 

NHKから満鉄資料に関する問い合わせ。歴史ものの編集がいろいろな部局で進んでいるようだ。歴史認識についての番組でさまざまな議論があったところだが、この8月にややつっこんだ番組を編集し、従来の限界線が撤廃されたためか。あるいは、NHKにおけるある種の不安感というか、将来への不透明感から、やりたいことは今のうちにやっておけ、という雰囲気なのか。…200612月に西オーストラリアのパースで開かれる会議のインヴィテーションが来る。今年の7月にシドニーであった世界歴史学者会議に参加したメンバーから適当に選んだようだ。テーマは、Indian and Pacific Crossings: Perspectives on Globalization and History…自分に何か発表できることがあるだろうか??しかし、パースには一度いってみたいと思っていたので…

 

政治大学の国際事務学院の学生から会食の依頼。来週に会うことにする。…数日前に国民党の党史館からシンポの案内が送られてきたが、いきなり自分の名前を発見したが、あらためて見てみると国家図書館である亜東関係協会主宰の会議と時間が重なっていることに気づく。あわてて党史館に電話して調整を依頼する。

 

16時ごろ、ようやく靖国に関する提言を書き終え、送る。国内問題であっても、周辺国と外交問題になることを承知でやる場合には、善後処置が重要という、当たり前の内容。そのあと、別の官庁から依頼されていた五中全会の人事に関する簡単なメモを書いて、送る。こちらは、江沢民と胡錦濤の争いという側面、新世代である「三級」と胡錦濤の世代交代的な人事調整面の二面を前提とした上で、「十一五」というケ小平の改革開放を乗り越えようとする胡錦濤が自らの派閥で周辺を固めようとして、問題をおこすよりも、いまのままで行くことにしたという内容。江沢民の息子の上海市「入閣」もまだ先となろう。

 

集合場所へ。週末の政治大学での会議などのために来ている東大の院生たちと食事をする。紅玉にしようかと思ったが欣葉に行く。二次会は久しぶりに風林火山。院生のころは、時間があるはずなのに、なかなか論文が進まないもの。いろいろはっぱをかけるが、…受け止めてもらえたかどうか。

 

1020日(木)

朝、台湾の研究者からメイル。台湾のウェブサイトに小生のホームページのことを紹介してくれた。また、The Communist University of the Toilers of the East関連の史料について尋ねられる。謝雪紅がそこで学んでいた関係。藍適斎さんの文章でもそういったことを見たことがあった。コーネルのホームページに、ペテルスブルグにあるスターリン大学、孫中山大学関係史料について紹介してあったので、それを送る。

 

午後は、日華外交史・日台関係史に関する1月末のシンポジウムの記録のとりまとめ。また、来週、再来週の報告、特に戦後日本における台湾研究について調査を進める。1950年代の日本の台湾研究はきわめて活発であった。これを「脱帝国化」という観点からどう見るか。

 

国民党から電話。シンポの日程調整がつかないらしい。コメントからは外れることに。

宴会がなくなったので、早く帰宅し、上記シンポの記録の取りまとめを継続しておこなう。石井明先生の自らの研究の回顧、袁克勤先生の研究方針、黄自進先生の台湾における日華外交史関連の外交档案分析、いずれも啓発される。

 

1021日(金)

また大雨である。外に出られないので、家で仕事をする。

一月末の日華・日台の仕事。別枝行夫先生の原稿をチェック。自分の原稿は最終段階。

 

午後、大学に出て15時からの東大と政治大学の大学院生交流会に出る。これは若松大祐君、また村田雄二郎先生のご尽力が大きい会。台湾の体育史、メディア史、権威主義体制論、中国外交史、戦後台湾の外交史、日華外交史、日本の学術情報紹介などである。院生たちのこういった会議はどんどん進めるべきだが、質問があまりでない。まあ、休み時間などに交流すればいいのかもしれない。台湾側の報告者が日本語で報告したことに驚く。これは政治大学に来ている日本人留学生たちのおかげである。こういう努力は、直接的にはむくわれにくいが、長期的には大きなものとなろう。

最後に台湾大学の佐藤将之先生が講演。実に「説中了」という感じの日本の学界に対する批判。日本の学界の孤立化…確かに、世界の中国研究の世界で日本の学界