台北日記
9月28日(水)
北京首都空港から関西空港経由で新千歳空港に着く。涼しい。原稿をあまり書き上げられず、そのまま休む。
9月29日(木)
朝8時、官庁からの聞き取り。六カ国協議、抗日運動などなど。9時過ぎに留学生センターにて、HUSTEPで来校したソウル大学の学生にあう。一年間、北海道大学で学ぶ。関心は日韓のFTAだという。ソウル大学の外交学院なので、張寅性さんの名前を挙げたら知っていた。10時から政治学講座の会議。11時から国立台湾大学に交換学生として派遣する学部学生の面接。…もう少し準備しておいてほしいものだが…。12時前から指導する学生たちと食事。そこに今学期から国立台湾大学社会科学院から交換学生として留学してきた学生や、東京方面で大学院入試を終えた学部生も加わる。博士論文、果たしてみな書き上げられるのか。13時から教授会。15時前に抜け出し、空港に。羽田からは溜池に。夜、内閣府の研究会。
一日中アポイントメント続きで疲れきり、原稿が進まず。
広島大学の院生である谷渕茂樹君の書かれた拙著の書評を読む。至極ごもっともなご批判。
9月30日(金)
朝、9時半に駒場にいらしている延世大学の白永瑞先生を訪ねる。両岸三地の件。日韓の会議とはまったく別の話として伝えると安心された模様。あとは経費の問題。11時にNHKに。途中ニュージーランド大使館付近を歩いていて、麻生太郎氏の自宅を見る。巨大洋館。NHKでは、日中戦争史研究の昨今の動向などについて、文化特集担当の方々にお話しする。昼食をご一緒したあと、新宿へ。13時半から、名古屋大学出版会から出す『東アジア国際政治史』の編集会議。コラムは出揃い、本文の第二原稿を集める段階。まだ少し時間がかかるか。服部龍二さんにずいぶんと負担をかけている。15時ごろ神保町に。台湾の授業で使う、日本と中国の歴史教科書を購入。そのまま勉誠出版社に。16時から、貴志俊彦先生、孫安石先生とともに編集している『戦争・ラジオ・記憶』の編集会議。表紙などを決める。この件は、だいぶ貴志先生に負担をかけている。17時半ごろ抜け出し、北千住に。宇都宮の松金さんと食事。台湾事情に関する情報交換。こちらが教わるほうが多いが。10月末の亜東関係協会の会議はどうなることやら。
10月1日(土)
講談社の原稿、岩波の原稿ともに間に合わず。
9時に御茶ノ水へ。明治大学で日本政治学会。中国研究のセッション、分科会5でコメンテーター。辻中豊(筑波大学)「比較のなかの中国『市民社会』組織―市民社会組織調査(JIGS)8カ国国際比較に基づいて」は、北京大学との合同研究で特に「社団」の状況について報告。比較政治学の土壌に中国がのることを示す。興味深い報告。平野聡(東京大学)「歴史認識としての中国ナショナリズム」は、平野さんらしい解釈で抗日ナショナリズムを論じる。フロアの近藤邦康先生からのコメント、「1972年から1995年くらいまでは抗日ナショナリズムによって秩序は保たれていたのではないか」という点は重要な論点。滝田豪(大阪国際大学)「農村の統治秩序から見る現代中国の国家」は、村落の「基層政権」から中国を見ようとする。その村落政策が結局「治安」に修練するさまを明らかにする。しかし、「治安」を維持するといっても、それはそれで大変なことである。もうひとりの討論者である下斗米伸夫(法政大学)は、社会主義体制との比較、市民社会論など広い観点からコメント。さすがである。抗日ナショナリズムが共産党の「ひとつ」の正当性の由来になっていることは確かだが、それにすべてを帰着させるのはおかしい、中国はソ連とも、アメリカとも敵対していた…これもそのとおりである。他方、このセッションで一番楽しめたものは、司会である国分良成(慶應義塾大学)先生の司会をおこないながらのコメントであった。(1)反日デモには非常に多くの利益団体、特に日本の電気製品と競合するような利益団体が関与していたことがわかってきている、(2)日中の相互認識は一致している。民族主義、軍国主義、国家主義…お互いに同じイメージをもっている、うまくいくはずがない、(3)中国では対米関係がよくなりさえすれは日中関係が改善されると考える向きが多い(対日関係は従属変数)、(4)鄭永年教授はde-facto federalism という観点で中国を捉えようとしている、(5)中国共産党の支配の弱体化の中で、社団に依拠したような、つまり自民党型55年体制をつくれないかと模索してきたが、それもだめになって、結局市民社会の形成を想定するしかなくなっている…といったことである。きわめて興味深い。会の終了後、野村浩一先生と少し時間をとってお話しする。
東京駅から成田空港へ。台風の影響がないのか、フライトに異常なし。荷物が重く、50キロを超える。本や資料のためである。日本亜細亜航空の作成したガイドブックは本当にできがいい。JALがつくったバージョンは、つまらない。機内では、台湾の各紙を読み漁る。高鉄の管理体制、地方選挙をめぐる動き、民進党の改革、小泉総理の靖国参拝違憲判決、金門島での人民元兌換、などといった課題が各紙に。これから12月の選挙に向けて動きが活発になるのであろう。そういえば、李敖がまた台湾に戻っている。宋楚瑜の台北市長出馬への期待を示している。スポーツ欄は、台湾選手の大リーグでの活躍を報じる。東アジア各国は、自分とアメリカとの関係にばかり目が行き、横の国がどうか見ない。報道でもそれがはっきり見られる。
空港には劉維開先生と二人の学生さんがお出迎え。台風が明日来るので、今日来られてよかったと話す。いま台湾の東海岸沖に巨大台風がいる。車で政治大学へ。家は、一軒家。とてもとても古く、ドアを開けるのも一苦労というところがあるが、二階建ての一軒家に一人住まいでは、ちょっと広すぎる。実質的には一階部分だけしかつかわないのではないか。二階にベッドつきの部屋が三室もあり、一回のリビングは10数畳あり、それと別にキッチンと、巨大な調理場がある。バストイレは一階と二階にそれぞれ。しかし、相当ガタがきているようで、一階の洗面所は使ってくれるなとか、いろいろなことがある。明日の台風による漏水が不安に。いずれにしても、学内ではなく、学外に住むということはとても重要。生活面での目線が特殊でなくなるからである。
台湾の電話のチップをなくしてしまったこと。携帯の番号を変えることにする。
皆さんと軽く食事をして、その後買いだしに行く。
原稿も書けず、そのまま休む。幸い、虫やゴキブリはでてこない。
10月2日(日)
巨大台風。調理場があっさりと浸水。横の家の裏手の地面よりも、こちらの調理場のほうが低いのだから、当然雨水が流れ込む。タオルで防ぐが、どうしようもなし。このあたりのところが、依然台湾である。陳水扁がアラブ首長国連邦訪問を終え、台湾に戻る途中、台風が来ていたことから、インドネシアに降り、臨時の首脳会談をおこなう。予定されたことかどうか、外交部が微妙な言い回しで記者会見。メディア的には、台北市議会議員の呂NNの家庭内暴力と不倫疑惑問題が大きな話題。選挙での呂への事実とは異なる中傷が家庭内に影響したものと呂は主張。夫君は、血判書で謝罪。呂は女性候補に対する残忍な非難に抗議。
朝から講談社の新刊雑誌の原稿を書き続け、午後三時ごろ、ようやく書きあがり、メイルで編集者に送る。雨が少し小降りになったので、外に小吃を食べに行く。汁米粉はやはり美味しい。帰宅後、ある学会誌から依頼された査読論文を読む。締め切りを随分過ぎてしまっている。最近中国の外交史研究関連の査読依頼が本当に多い。一応、原稿に書き込みをして、所見を後回しにする。
夜から、岩波の「近代日本の学知」の原稿を書き始める。大方できているのだが、最後の調整をおこなう。これもラジオ関係である。…台風は福建省に上陸。だいぶ天気が落ち着いてきたが、まだ雨がぱらつく。木柵も南港同様に雨が多い。
10月3日(月)
朝、岩波の原稿を書き進めるが、なかなか進まない。
朝食は、美而美はないものの、似たような店がたくさんあるので、三明治を買う。新聞を見ると、国民党と親民党の連携がうまくいかないことなど。それに対して、基隆などでは民進党と台聯の連携がうまくいく。下馬評では、(陳総統への不満は相当なものであるが)民進党有利とのこと。宋楚瑜周辺からは、もう降りたほうがいいとの声も。台北市長になったところでどうにもならないではないか…との話。
9時半に学生が迎えに来る。学部四年生だという。事務関連の手伝いをしているようだ。まずはインターネット関係、次に保険関係の登録をして、バスに乗って「山上」に向かう。政治大学のキャンパスは山の上と下に分かれている。山上には、文学院はじめ、メディア系などがはいり、男子の宿舎もある(女子は山下)。「季陶」楼という建物の中に歴史学系がはいっている。戴季陶の名をとっているあたり、すでに国民党的な香りがする。歴史学系の事務室で手続きをおこなう。多数の書類にサインをする。問題は、自宅のネット(ADSL)、銀行口座の開設、・・・自宅のテレビのリモコンがないことといったところである。ひとつひとつ解決するしかない。また、小包やEMSはこの歴史学系まで来ず、「山下」の収発室にとどめおかれ、自分にとりに行くという面倒なシステムである。また、教材印刷などのシステムが十分でなく、事務室が開かなければコピーができない。そして、教員に与えられた複写枚数が学期で1000枚。これでは自腹で教材を準備するということになる。あるいは日本の国立大学が恵まれすぎているということか。
手続き中に薛化元先生、唐啓華先生が部屋に来る。唐先生から、中央研究院の報告があることを伝えられる。12月の抗日戦争と生活に関するシンポ。ラジオでいいかと、答えると、問題ないという。それで報告することに。手続き終了後、中央研究院の張力先生に電話、国家档案局への紹介を頼むと同時に、最近の档案館事情について。特に杜正勝の部長就任以後の教育部の档案行政について。少しずつ公開が進んでいる。また、国家档案局のホームページの検索システムが比較的よくなっていることに驚く。行政機関よりも、学校などの档案が多いことが特徴か。
10時40分から、大学院生の研究報告会に参加。問題意識、途中経過、などさまざまな段階の院生が報告をおこなう場。興味があったのは、陳世栄「国家政権、菁英與社会変遷:両個台湾地方社会的個案研究」であった。これは板橋と豊原を事例に、1860年代から1950年代までの下層の
地域エリートを扱おうとするもの。むろん、国家・社会関係が変動する中で、エリート像もかわるという問題もあるが、台湾の地方派系形成史の原点になるのではないかと期待させるものになっている。
昼食は唐啓華先生と。政治大学のおかれている状況、学生の状況のことなどを聞く。「近代中国外交」のウェブサイト運営についても相談。档案をウェブ上にアップする方針。ただし、保存された場合どうなるか、そしてあらゆる档案をアップしていいものか、などの課題を残している。午後は、そのまま授業準備などをし、16時過ぎからまた院生の報告会に出席。ちょうど、研究室を出たところで台湾史研究所に来ている石田浩先生に出会う。さて、報告会は、鄭建生「国民革命中的農民運動」。従来の共産党の視点に基づく歴史を、国民党の五部档案などを利用して相対化することを目指したもの。「敵」はいるが、そのあとに構築するものが見えてこないところが課題か。それにしてもいろいろなタイプの学生がいるものである。会議終了後、外出のため研究室を出る。すると5階の教室から聞きなれた声がする。階段をあがって上から覗くと、やはり黄福慶先生である。午前中に黄先生に到着報告を電話でしていただけに奇遇である。黄先生は長期にわたって政治大学歴史学系の日本語の授業を担当している。そして彼の日本語の蔵書は歴史学系図書室に寄贈されている。辛亥革命前後の内容に関するテキストを利用しているらしい。彼の授業をはじめてみたが、わかりやすい授業である。よほど、中にはいってご挨拶しようと思ったが、控える。
政治大学からは捷運の動物園駅に行くスクールバスがある。それに乗って、市内に出る。台北市内のレストランで卒業生と、いま台湾大学に交換留学している学生たちと食事。留学の様子を聞く。店のオーナーと少し時局の話をする。この店は、馬英九をはじめ、政治関係者がよく出入りしているので、興味深いはなしを聞くことができる。
10月4日(火)
朝7時前に家を出て歩きながら山をあがる。いい運動である。8時10分から1限の授業。教材を準備するスペースがないので、不便である。前日にしておく必要がある。学生は教室からあふれている。傍聴者がいるようである。授業は比較的順調?であったか。質問表を日本と同様に配る。来週までにまとめる予定。
授業終了後、「発呆」。11月初旬に日本アーカイブズ学会のお歴々が見えるのでその手配。すでに国家档案局には張力さんを通じて依頼。政治大の図書資訊與档案学研究所の薛理桂享受とも連絡が取れ、少し台湾の档案行政について議論。国家档案法以後、档案が宙に浮いてしまっていることの問題性。11月3日午後か4日にお会いすることに。明日の授業のレジュメをつくる。授業それ自体は、『鄒嘉来日記』を読めないかと思っているが、『那桐日記』のように活字になっているものでもいい。あるいは『汪栄宝日記』か?初回の授業のために日本の学術情報、資料情報入手用のガイドを作成する。役にたつかどうか。
午後、政治大学に来ていた何義麟さんと部屋の前で会う。台湾史研究所での講演のため。終わった後に会う約束をする。そのあと、日本語学科の藤井志津枝先生がいらっしゃる(中国語で、傅先生)。主題は、彼女を中心に進めている「日露戦争後の東アジア国際情勢」プロジェクトにおける報告依頼。12月初旬とのこと。この話題のほかに、台湾の学術状況、社会状況、政局などについて話す。また、台湾南部では応用日本語学科で学生が募集しきれず廃科になるところが出だしているという。16時過ぎに講演を終えた何義麟さんが研究室に来る。台湾の日本研究の動向について。また月末に台湾大学である日本研究のシンポジウムに参加をうながされる。また、非常に興味深い1945−49年の台湾に関する研究について。国際連合のある部局のブランチが台湾にあり、そこに勤務した人の史料から、いろいろなことがわかるという。ジュネーブに行かなければ、と思う。
山からおり、スーパーで一通りのものを買い、自宅で洗濯。李明峻さんから電話。土曜の晩に会うことに。また、北大から台湾に戻った学生からの電話。来週会うことに。
10月5日(水)
7時過ぎに大学に着く。大学院生の授業の準備。清末の外務部の官僚の日記、鄒嘉来日記を読むつりである。最初で時間が余るので、日本の資料館、学術情報入手の方法を記したレジュメと、鄒嘉来関連の日本の外交文書を教材にする。参加者は、20名近く。学生たちの反応も悪くない。これほど専門的なことができるということに感動する。北大法学部では、ありえないことである。
授業終了後、どっと疲れる。松金さんから、11月の台湾研究会のシンポでの報告の題名の問い合わせ。なんとかでっちあげる。「1950−60年代の日台関係と官製日本イメージ」、…なんとか図書室にある聯合報とは自由時報を読み込んで、50−60年代の日本をめぐる言論をおさえたいのだが…他方、『政経報』『新台湾』などといった1945−49年の台湾の左翼系雑誌にも多くの日本関係記事があることに気づく。また、日本の台湾統治を振り返るような内容も。228事件以前の言論としてきわめて興味深いものである。台湾の政治思想史の空間はまだまだあるように思う。
北海道大学の留学生受入関連のMLを見る。留学生の口座開設に際して、サインでの開設などの便宜をはかってくれると約束したはずの銀行の窓口の対応が悪く、学生たちが憤っている。北大の関係窓口に電話して調整するが、なかなか銀行側がとりあってくれないようである。担当者が代わると対応が変わり、まだある担当者も行くたびに言うことが変わるという。これでは、10年前のどっかの国の銀行や官庁と同じである。日本のアジア化か。WTOとか、FTAとかいいながら、こんな基層がすさまじくドメスティックなのはどうだろうか。グローバリゼーション・・・とは?
中央研究院近代史研究所に12月のシンポの題名報告。「戦争與広播:東亜的電波戦争」。昔、档案館の「小姐」だった遊び友達が、いつのまにか研究所の事務方面の偉い人たちになっている。荘樹華さんが、档案館主任になったのもかつてでは考えられない(近代史研究所の中で档案館が軽視される中で、当該ポストを格下げしたという話もあるが)。その荘さんに電話して、11月はじめの日本アーカイブズ学会のお歴々のことについて相談。
国民党から、10月末のシンポの招聘状が届く。今月は上旬に法史学関連で岸本先生がお見えになるし、故宮は明清史関連のシンポを開いて茅海建先生らを招くという。月末の国民党のシンポは、当然抗日戦争もの。「お金もないし、やりたくなかったが、やらざるを得ないだろう」というのが関係者の言。また、亜東関係協会からも月末のシンポの招待状が届く。こちらは報告である。会場は国家図書館なので、国民党と近い。両方はしごということもある。
まだ終わっていない岩波の論文を書く。
18時過ぎに待ち合わせて政治大学歴史学系主催の宴席に。呂紹理さんに送ってもらう。閻心恆、林能士、張哲郎などといったお歴々のテーブルと、若手=現役のテーブルにわかれる。政治大学の結束の強さか。以前ほどの酒の勢いはない。むしろ老人たちのほうが酒を飲む。閻先生に、せっかくなので、政治大学の歴史について聞く。中央政治学校の文書類は、大学内にはないという。しかし、90年代に校史を書いたのは閻教授である。各方面から資料をかき集めたとのこと。国民党との関係を協調せざるを得ない学校史はこれからどう書くのか。閻教授は彭明輝教授に託したというが…。例の必修課関連のポスト削減については、必ずしも悪い話ではない。
宴会中、NHKでニュースプラス10を担当しているNアナウンサーから電話。彼とは満洲国のラジオ案件以来つきあいである。休みが取れたので台湾に来るという。楽しみである。
…宴会前後に、小生の採用について、国家科学委員会の審査委員からクレームがつき、給料の一部がカットされたことを知る。唐啓華先生が、「もうしわけない」と以前言っていたことを思い出す。問題になったのは授業科目ではなく、もっと根本的なところであったらしい。小生個人に対する評価か、政治大学に対する嫌がらせか、このあたりは不明。通常客員教授はだいたい大教授が来ることが多いので、小生のような若輩が来るといろいろなことがあるのだろう。また「政治的」に何かあったのかもしれない。しかし、それでも台湾の助教授とほぼ同額なので、別に実質的な問題はない。外国人ということで、本来は職種が助教授でも教授クラスの給料が保証されていたものが、助教授級になったのである。政治大学の先生方は、「採用していながら、カットとは失礼である」と言うが、問題の所在は理由が不明なところ、情報非公開にあるのではないかとも思う。台湾の場合、人事などで公開審議がなされる傾向にあるが、まだまだ不分明なことが多い。まあ、三ヶ月居られるだけでもいいことなので、あまり考えないことにしたい。気にすると、また鬱になりそうである。
10月6日
朝、意を決して郵便局の口座開設手続きを始める。気分転換でもある。
まず、大学側の指示に従って、善導寺横にある内政部警政局に行く。このあたりは228事件で攻撃対象になったところである。ところが、ここではないといわれ、台北市警察局の外事課に行けという。西門の駅のすぐ脇にある警察局外事課に行く。手続きは至極簡単。要するに「統一証号」という、台湾人の身分証にある番号にかわるものがあればいいのだ。手続きがいろいろありそうなのはフィリピン人たちで、日本人はあまり問題にならないらしい。このあたりは優遇措置だが、台湾でも外国籍看護婦の採用などが制度化されていることを考えると、労働力移動の問題はアジア的課題である。
その証号をもらってから、木柵に戻り、指南路(政治大学生門前)の郵便局に向かう。ここでの手続きは面倒である。書類などはまだいいのだが、最後に印鑑でひっかかった。フルネームの印鑑でないといけないという。「洋人だったらどうするのだ?」と聞くと、それでも作らせるという。それが本人であるという証明はパスポートにも、その「統一証号」の証書にもないのに、漢字でフルネームの印鑑をつくらないと口座開設はできないという。これは合理性というよりも、もはや文化である。仕方ないので、大学の中の「刻印」の店にいって印鑑をつくる。隷書を選ぶ。しかし、刻印の店が大学にあるところを見れば、印鑑社会であるということが理解できる。値段も50元、時間は15分。こんなものである。そのあと、郵便局に戻り、やっと通帳をもらう。暗証番号も必要。通帳と印鑑だけではだめなのである。キャッシュカードは一週間後(夕方にきちんと電話で本人確認があった。このあたりはしっかりしている)。朝から、4時間半費やして、やっと通帳をゲットできたしだい。なかなか大変である。
午後は、岩波の原稿と雑事に追われる。あと、音がないとつらいのでインターネットラジオへの接続をあれこれ試みる。Real Radio のAPACというのが実によく、台湾の「宝島新声」などを聞く。本当に便利である。自宅のADSLは、日曜日に工事がくることに。中華電信ではなく、東森になる。契約期間の問題。経費は3000元程度。テレビのリモコン問題を解決すれば、生活問題はほぼ解決しよう。
夜、ゴミだし。これがまた大変である。9時40分に例の音楽とともに収集車がくる。弁別が厳しいと聞いていたが、実際にはコンビニで売っているゴミ袋にいれていればそのまま車に放り込むだけである。多くの家では、このゴミ袋を買わずに自分の袋にいれてもってきて、収集車が準備しているポリバケツにゴミの中身をいれている。
…科研申請のシーズンになり、いくつかのお誘いを受ける。エフォート、残っているのだろうか。JFE21世紀財団から正式に採用通知が届けられる。式典には出られそうにない。協力者の中村元哉君に代理出席してもらうことを考える。
10月7日(金)
昨夕のことであるが、大学図書館に行ってみた。実に重要な資料が多い。特に1949年以降の資料はたいへん豊富である。とても使える。特にラジオ関係は充実していた。
国務院と呼ばれている国際事務学院の院長との食事の件が固まる。来週。10−12月の間に自分が帰国するスケジュールにあわせて、飛行機などを予約する。
岩波のラジオ原稿を進める。満洲だけで80枚、行ってしまいそうである。夜、アルバイトの関係で学生と会い、食事に行くことに。18時に国賓で待ち合わせ、台湾料理の紅玉に。久しぶり。
10月8日(土)
大雨である。外に出るという感じではない。雨が降ると家の中の蟻が急増する。
岩波のラジオ原稿をひたすら書き続ける。
12月の選挙に向け、さまざまな動きがある。一週間の間にいろいろ聞いたり、見たりしたが、2008年までを視野に入れると、いまピークを迎えている国民党の馬英九をどれくらい下げていけるのか、また民進党のピークをあげていくことができるのかという戦いである。だいたいこのピーキングで国民党は失敗を続けている。民進党のほうが選挙は圧倒的にうまい。また、国民党は総統候補が決まっているが、民進党は副総統が決まっている状態(高雄の女性市長=客家で、日本語も英語もできる。あらゆる要素から見て適任)である。民進党の総統候補は、謝・遊・蘇の争いとなろう。陳水扁は遊に期待しているというが、全体から見れば謝有利といわれる。2007年には、新制度下で最初の立法院選挙がある。これがどうなるか。おそらくは民進党有利だろう。しかし、いまでも第一党である民進党が、果たして台聯とあわせても絶対過半数をとれるのか、わからない。来年におこなわれる台北と高雄の市長選挙。台北に宋楚瑜が出るとか言われているが、民進党的には台北は難しい。高雄は抑えたいところである。今年の年末の選挙は、馬英九の出鼻をくじくことができるか、あるいは陳政権に決定的にダメージを与えられるかというもの。いまのところ、台北県、台中県、台中市、雲林県などが「藍緑」の争いどころ。台北で羅文嘉がどこまで戦えるのか。台北県には意外に客家票が多く、これが羅にいくことになろう。他方、絶対不利の中で、林佳龍がどこまでやれるのか。台中市の場合、胡志強が病気だということがある。いまのところ50パーセントの支持を受けている胡が激しい選挙戦を戦えるのか。そして、任期をまっとうできるのか。うまくいけば今回、できれば次回に林市長を誕生させ、台北出身の陳水扁、南部の謝長廷、そして台中市長出身の林、という具合にトップを排出したい民進党。また、今回は地方の議会選挙も連動しているので、林を盛り上げていくには有利とされる。
しかし、それにしも陳水扁に対する評価はきわめて低い。民心も離れている。特に、先般の彼の息子の結婚式に際して、南部などで洪水で大災害が発生していたにも関わらず、式を強行したことで、南部からの支持も失ったという。だが、民進党にとってよかったのは、あくまでも陳への反対であって、民進党否定にはなっていないことであろう。
夜、李明峻さんと食事。また紅玉。
行く途中で中山駅から中山北路下の地下街を歩いて驚く。若い人たちが、ダンスやミュージカル的な演劇を練習する場所になっている。李さんとは台湾の政治状況、日台関係、台湾日本学会のことなど。彼の学位論文の進捗状況を聞き、歓喜する。1月に北大に講演で招聘する浅田正彦先生との関係も知り、おどろく。世の中は狭いものである。二次会は、原住民系のところに行こうとして「関門」。偶然路上で小生の知り合いに会い、その人の店へ。三次会は、北海道出身者が経営する老舗のパブに。台北で最初にカラオケを導入した店とも言われるところ。とてもいい雰囲気で、話がちゃんとできるところである。
10月9日(日)
ひたすら岩波のラジオ論文の原稿を書く。夜九時ごろ、やっと終わり、早稲田の山本武利先生の岩波の編集者に送る。
午後から、2月にあった外交史のシンポジウムの自らの原稿の修正、またそのほかの編集作業にとりかかる。青山瑠妙さんと小生が編者に。編集作業もたいへんである。
10月10日(月)
国慶節。辛亥革命記念日である。中華民国的色彩はほとんどない。中華民国はどこに、という感じである。抗日英雄たちは今年の9月3日に大陸に招かれたから、それでいいということか。中華芸術学院の踊りなどが続く。台湾色が本当に強い。他方、朝刊に、国際的競争力をつけるための大学ごとの重点配分経費が決定したとある。台湾大学が30億、第二が成功大学。理系の大学がずらりと並ぶ。政治大学も下のほうにランクインして3億元。文系としてはおおいほうであろう。
何とか2月におこなわれた外交史のワークショップの編集作業をおえて、PHPに送る。やっと一つ。台湾のシンポも早々に提出することを求められる。…山本先生から、満洲のことを書いた人が多いので、内容を調整する必要があるかもしれない、とのこと。なかなか厳しいコメント。
昼食に久しぶりに牛肉麺を食べに行く。午後は、明日の授業の準備。学部向けの授業。特に先週のアンケート結果の打ち込みがたいへんである。またレジュメも作成。なんとか7時に工読生に渡すことができる。彼曰く間に合うという。夜は、督促のあった国史館原稿に取り掛かる。戦後日本の二つの中国をめぐる政策、言論の整理。石井明先生の論文を読み直す。
アジア農村研究会編『学生のためのフィールドワーク入門』(めこん)公刊の知らせが入る。うれしい。松金さんとメイルを何回か往復する。台湾日本学会に関する件、また日本の東アジア近代史学会の件。後者はここ数日、茂木敏夫さん、加藤聖文さんとメイルを往復していた。
10月11日(火)
朝、北大の人事関連についての審査所見を提出する。まったく門外漢だが興味深く読めた。何とか授業前の提出が間に合う。
学部の授業。前回の質問表と新しい内容。学生の食いつきはいいように感じる。授業後も質問が出てくる。いわゆる「百人斬」のことや、戦後処理をめぐるドイツとの比較など。戦後における「百人斬」の当事者の家族による訴訟まで知っている。勉強はよくしている学生が居る。
明日大学院の授業にそなえ、鄒嘉来日記に関連する事項(赤十字、ビルマ・雲南国境問題)についての日本外交文書をダウンロードするが、印刷に手間取る。
この文書を学生にメイルで送るかたわら、先週のゼミのときに提出してもらった院生たちの研究課題や質問に答え、また参考文献などを挙げていく。
A同學 : 你要先了解的是日本本身的醫學史 還是台灣的醫學教育史? 我寫過一篇文章; 一個醫學系教授的台北帝大時代(《Academia台北帝國大學研究》2號, 1997年)
B同學: 你所說的"士人群"的定義呢? 從甚麼樣的角度來做研究? 是不是從李孝悌的書那樣的做法來作, 或呂芳上作的運動學生的研究那樣的做法來作,,,還是用官僚的日記來作?
C同學: 你的研究的方向,很有意思. 國際組織跟台灣關係不一定是兩者關係,其實中間有許多actor介在. 日本也是.
D同學: 我的大學部時代的導師, 佐藤公彥教授的書, 你有沒有看過.那本書目前世界最高水準的義和團研究, 包括日本的關係.還是那時候日本軍隊希望作為文明國家軍隊, 行為比較妥當, 保護總理衙門檔案.
E同學: 外交官的世代..."世代"的定義,你怎樣處理? 這是北京以來的宿題.
F同學: 是的, 9月份我在北京大學當了客座教授.雖然沒有教課, 但是總共有8場的演講.
最大的收穫呢,...過有學術性的生活, 因為在日本雜務太多,沒辦法過有學術性的日子.還有,看到很多檔案和雜誌史料,跟中國學者多多聊天等等.
G同學: 你有興趣的傀儡政權是那一個?
H同學: 你的題目, 北洋政府與廣州國民政府 的關係, 聽起來很有意思. 我也在書里討論 了一些. 但是,你的興趣只在廣州"國民"政府嗎?
I同學: 想起來了. 那時候你跟另外一位一起去箱根玩! 抵制日貨運動...那時候的中國人怎樣認知甚麼是日本的貨物呢??
J同學: 你怎麼看待"吉田書簡"? 你能不能贊成袁克勤和陳肇斌的看法? 還是, 日本的大亞西亞主義的變遷如何? 你有甚麼有特色的想法?
といった具合である。
何とか夕方までに間に合い、発出。複写も終わる。香港に居らっしゃる胡春恵教授にファックスを打つ。来年、アモイ大学で開催される両岸三地の会のことについて、「両岸三地+2」とする提案に関する相談。白永瑞先生との相談の結果。夜、福華飯店に食事にいく。卒業生とその友人たちと。新人類のひとたちだろう。思ったよりも北大への留学希望者が多い。8時半には解散、捷運とバスで帰宅。9時40分のゴミ出しに間に合う。隣家では徹夜のマージャンの音。台湾らしい。テレビのリモコン問題解決。科研関係、いろいろな打診が続く。北大文学部の吉開さんの科研には参加の返事をする。
10月12日(水)
朝七時に家を出る。だいたい授業があるときはこの時間に家を出る。そしていつも三明治を買う店でそれを買う。いつも買うので、顔見知りになっている。政治大学を山の上まで上るのはなかなかこたえるがいい運動である。
朝10時から大学院生の授業。鄒嘉来日記について読み込んでいく。字の解読が大変だが、本当に面白い。学生の中には、こういった解読が面白い人と、面白くない人がいるだろう。適宜、砕けた話題を提供する。二時間があっという間に過ぎる。授業終了後、学生から満洲国の外交文書はどこにあるのかと聞かれてドキッとする。以前、日文研で報告したことがあるからだ。その状況について答える。なかなか、面白いことになってきている。
昼食(だいたい弁当をお願いする)を終えてから、国史館に行く。閲覧室にはいると劉維開先生が居る。今回の目的は、1945年9月3日。果たしてなぜ9月3日が抗日勝利紀念日になったのか、ということで蒋介石档案の『事略稿本』を見ていく。驚いたことに、9月2−3日、蒋介石は毛沢東と会い、宴席をおこないながらも、勝利の美酒に酔うどころか、「憂鬱だ」と語っている。周知のとおり、共産党がちゃんと言うことを聞けば一省の主席のポストを与えるなどとしており、この時点では共産党自身の脅威はそこまで大きくない。脅威自体はソ連である。9月5日にはソ連の駐華大使と握手を交わしているのだが、実際には東北と新疆を「侵略」されており、それが「抗日戦争には勝ったものの、革命尚未だ成らず」とまで言わしめたことにつながるのであろう。9月3日にした理由については、国際社会は、みなこの9月3日を記念日にしているといった程度にとどまっている。9月2日に調印し、3日に祝典を開いているという程度のことか。このときの状況からしてソ連にあわせているということは考えにくいのだが…。それともアメリカの9月2日の正午が、中国の9月3日の早朝だからであろうか?
他方、外交部档案の公開は一気に進み、同時に史料集の刊行も進んでいる。キャッチアップが大変である。
172−6 外交部亜西司
172−7 外交部国際司(国際連合)
172−8 外交部亜太平洋司
172−9 外交部領事事務局
172-10 外交部総務司
172-11 外交部駐外使領館
172-12 外交部人事処
172-13 外交部北美司、非洲司など
他方、檜山幸夫先生から頼まれていた仕事をする。1945年10月25日に安藤利吉総督がサインした「降書」はどこにあるのかということ。周知のとおり、安藤は、降書は書いていない。台湾は中国戦区の一部であるが植民地である。イギリスやフランスの植民地であった香港やヴェトナムで降書はあっても、日本の植民地であった台湾ではないのである。安藤がサインしたのは「受領証」である。それは台湾省行政長官公署から発せられた、9月9日の南京での降伏文書調印をふまえた、軍事・行政全体を含む統治権の委譲を命ずるもので、安藤はそれを「受領」したということである。台湾での手続きはこのようにして進んだのである。文書それ自体は国史館にあるようではあるが、確答は引き出せない。9月9日の南京での降書は国史館が有している。
そういえば、国史館では午後二時半から職員全員で映像を見ながら運動をするということになったらしい。世界のアーカイブで、突然職員が全員閲覧室脇で運動しはじめるというのもここだけではないか。それもなかなか激しい運動で、飛び跳ね系もある。なかなか面白い風景である。
夕食は、中央大学歴史学系の鄭政誠教授と彼の師範大学時代の先輩の台北市立教育大学の方と。話題は多岐にわたる。今週末、来週末のシンポジウムのこと。また、中央大学での講演は断れなかった。台北市立教育大学は丁重にお断りする。話をしながら、国姓爺合戦伝説(特に鄭成功の母親が日本人ということなど)と日本統治時代の日台連携の神話形成に関心をもつ。いろいろ行きたいところはないかと言われたので、以前南勢角にあるビルマ街(ビルマからの引揚者の街)に行ったが、韓国街に行きたいといった。中和・永和にはそういった街がほかにもあるという。興味深い。
9時前に帰宅すると、孫安石さんから『中華教育報』を焼いたCDが着いている。先般、北京大学で汪栄宝日記を焼いたCDは台湾では見られなかったので、これは見られるといい。並木先生のところの戦前期の中国の教科書をめぐるプロジェクトの論文集への論文執筆が課題。皆さんに比べて作業が遅れている。
日本の官庁から依頼されたレポートがなかなか終わらない。中国経済に関するもの。また、朱建栄さんが朱版の「参考消息」のメイル配信を再開。嬉しいのだがファイルが大きく、メイルの送受信が突然詰まりはじめる。科研がらみの調整が最終段階に入り始める。駒場の三谷先生から依頼があるが、おそらくこれで今年の研究分担者登録は終わりであろう。最終的に協力者になることにしたのは5件であった。結果が楽しみである。
10月13日(木)
大雨である。バケツをひっくり返したような状態である。あまりにひどいので、研究室にはいかないで家で原稿を書く。10時ごろ、官庁から頼まれていた中国経済に関する原稿を出す。あまりうまく書けない。国史館の学会論文に取り掛かる。与えられたお題は「1971年以前日本的二中議政」。以前、朝日新聞に依頼されて1960年代の外交文書を調査したときのメモをあさる。また、国会議事録を通してみる。「二つの中国」をめぐる議論がたいへん多いことに気づかされる。
昼になると雨が上がる。大学に行き、李英明・国際事務学院院長と同大学院の大学院生たちと食事。李先生とは、台湾における中国研究、両岸関係研究について話す。中国研究が、ある意味で国民党式の研究を克服してきているのに対して、両岸関係研究は完全に政治化しているという。中国研究と両岸関係研究との間に対話がない、ということもポイント。李教授としては、フィールドワークなどを重視した新たな中国研究の可能性を模索しているという。他方、北海道大学と政治大学との交流についても議論。ニーズが相当あるようで、また先方での選抜調整の問題もあり、人数増加について相談される。
午後はまた自宅で論文を書き、夕方から休暇を利用して台湾に来たNHKのNアナウンサーをホテルまで迎えに行く。彼とはラジオ研究関連の付き合いで、今年の前半にラジオ番組を作成したことがあった。彼と欣葉の本店へ、近くの夜市を抜けていく。話題はいろいろ。二次会は、林森北路へ。午前様。
10月14日(金)
鍾淑敏さんから、12月にある林本源基金会関連の研究会で報告するように言われる。愛知大学のCOEの北京でのシンポ報告があるときだが、何とか調整をする。この調整に意外に時間がかかる。…ラジオ原稿が終わらない。
夕方、Nさんのホテルに行くべくバスに乗ると、石田浩先生に偶然出会う。月末の亜東関係協会のことなどを話す。また、1970年代の日本の台湾研究のことについて。こういった研究史に対する皮膚感覚は自分にはない。石田先生とは公館で別れる。
Nさんと今日案内してくれた人と待ち合わせし、国父紀念館近くのレストランに。北海道大学関係の学生たちも一緒に上海料理を食べる。なかなかのものである。終了後、二次会はNさんと二人で茶館に。茶のこと、NHKのこと、あるいは彼の取材したことなど、話は多岐にわたった。今日は午前様にならず。
10月15日(土)
一日中原稿を書き続ける。国史館の学校報告原稿。あと、火曜日の授業の準備。
師範大学の院生からメイル。「汪政権と朝鮮華僑」を研究していて、政治大学でのゼミに出たいという。喜んでお引き受けした。
10月16日(日)
選挙がだんだんと本格化。この週末に桃園などで決起集会が開かれ始める。だが、ワイドショー的なニュースも相変わらず多い。10時過ぎにやっと国史館で開かれる学会の論文が終わる。「二つの中国」をめぐる議論について整理したもの。「二つの中国」については、戦後、思いのほかその内容に変遷が見られたことを知る。日本語で書いたので、林幸亜さんに送って、訳してもらうことにする。
1月末の「日華外交史・日台関係史」に関するワークショップの論文集の編集にとりかかる。自分でまとめる部分と、まえがき、あとがき、そのほかの編集作業を終わらせねばならない。作業途中、集中できず、ある学会誌から依頼されている審査論文や指導している学生の論文を読み始める。学会誌からの査読依頼論文はだんだん増えている。一ヶ月に2本は越える状態である。「不可」はつけたくないが、どうしても問題の絞込みと先行研究のところでつまずくと印象が悪い。
北海道大学の農学研究科の卒業生から電話。卒業してから、北海道のNGOで働いていたが、この夏に退職して台湾に戻っていた。居所が萬芳社区と近いこともあり、火曜日に食事をすることにする。夕方、時々ある匿名メイルが舞い込む。簡体字である。北海道日中関係学会のウェブサイトに掲載されている、2001年に書いた「日本の対中ODAを考える」という小考について、「読後感」を送ってきた。「不敢恭維(お世辞にも褒められない)」から始まり、縷々ご批判。日本語が読めていないのか、それとも批判能力がないのか、あるいは2001年に書かれたものであると思っていないのか、内容的には酷いもので、自説を展開しておわっている。調べてみると、日本に来ている留学生か、日本で働いている人らしい。ウェブ上での匿名の批判や、こういった匿名メイルは時々舞い込む。一応、日本語をちゃんと読んでから批判してほしい、という返事をしておいた。
東大文学部の院生からメイル。史料についての質問。今週末は、駒場の村田雄二郎先生のゼミの院生たちが政治大学に来てジョイント・シンポを開催する。21日午後が院生の交流会。22日がシンポ。22日は日本に一時帰国するので、出られないが21日はつきあうつもりである。今週は、17日の月曜日から、金曜まで宴会。この週末、いろいろなシンポがあったが、出席せずに休養してよかったのかもしれない。
10月17日(月)
朝から雑事。JFE財団にファックスを送り、また自宅のLANの容量増加の交渉など。11月初旬のアーカイブズ関連の手配。日程が固まりつつあるが、ゆっくりしか進まない。国史館に電話して調整。こちらはスムースに進む。午前中は、授業の準備に時間を費やす。山川の詳説日本史の内容が随分とかわっていることに驚く。
小泉総理の靖国参拝。やはり郵政法案通過と靖国から秋にと言われていた(17−19日)ことに絡めて今日ということになったのだろう。中国外交部がなかなか声明を出さない。金熙徳さんがいち早く談話を公表。東アジアの首脳外交、12月のノムヒョン大統領の訪日も危なくなるだろうと発言。韓国への言及は金さんらしい。東アジア共同体はどこにいってしまうのか。官庁からいくつか、分析の依頼。
原稿は進まない。1950年代初頭の『聯合版』、『自立晩報』などを眺める。1951年9月3日はやはり抗日勝利記念日になっている。
夜、5時半に黄福慶先生と待ち合わせてのみに行く。久しぶりである。政治大学の学生を含め、全部で6人。白酒をけっこう飲む。黄福慶先生から、坂野正高先生のゼミの様子を聞く。『籌辦夷務始末』を購読する授業で、坂野先生がしばしば黄先生に内容や読み方を尋ねたという。興味深い。また1980年代後半の日本と台湾の学術交流の状況について、当時は、航空券、宿泊代、講演費を準備しても誰もこなかった、とのこと。その中で酒井忠夫先生、渡部惇先生らが台湾を訪問して学会に参加した。そのときの話など、とてもおもしろい。日台の学術交流がここまで進むと、そういった頃の話が消し飛んでいく。黄福慶先生、林明徳先生を通して交流をしていた頃のこと、段々記憶の中から風化していくのかもしれない。あの頃は、いまのように交流が多元化し、質量ともに向上することを望んでいたが、少しさびしい気もする。終了後、林森北路へ。また飲む。終わった後、黄先生は帰宅され、学生を連れて茶館に。夜中の二時半過ぎまでいる。
10月18日(火)
朝、何とか起きる。講義。靖国参拝の背景などについて1時間話す。選挙制度改革も。
1月末の日華外交史・日台関係史のフォーラムについての議論の整理。出版予定である。若林正丈先生のレジュメを熟読しなおす。再び強く啓発される。「脱帝国化」きわめて重要である。
中華人民共和国外交部のウェブサイトにいろいろなことが掲載されている。公式声明とともに、孔泉報道官と記者たちとの会見の様子も。「无论小泉首相采取什么方式,都不能够改变他参拜的实质,中方理所当然地要做出强烈的反应。」…公的参拝も私的参拝もない、ということである。興味深いのは、「近代历史上,日本军国主义对中国人民的伤害最为深重。发展中日关系必须有一个坚定的基础,那就是以史为鉴,面向未来。日本领导人在这个问题上做过承诺。然而今天的行动证明,他们言而无信,没有遵守自己的承诺,没有遵守他们对中国人民、对亚洲人民以及全世界爱好和平人民所做出的承诺。这种错误行动必然会带来严重的政治后果」というように、日中間には歴史問題に関する「共識」があったものを、小泉総理が破ったと述べていることである。中国側は、この点と感情を傷つけたという二点で抗議しているが、「“任何人倒行逆施,都有负于两国先人,有负于两国子孙,最终必将是‘搬起石头砸自己的脚’”」という内容を見ると、離別宣言ともとれる。しかし、同時に両国の経済関係などがうまくいっていることも示唆している。小泉総理に対する攻撃を、中国はクールダウンさせていた時期だけに、これで年末までいくのだろうという感じになった。東アジア共同体、サミット、どうなるのであろうか。
夜、北海道大学の農学部を出た卒業生を会う。周華建の開いた店。広東料理。明日から層雲峡に講習の講師としていくという。北海道には台湾人の客が多いので、そういった外国人へのもてなしの講習会とのこと。北海道の人に、台北の様子を見せて、彼らが「台湾という遅れた田舎」から繰るのではなくて、東京人と同じように、大都会から癒されにくる、といったことから説明しなければいけないとのこと。
10月19日(水)
朝8時からゼミ。学生たちは積極的である。日記の解読が進んでいく。議論も高度である。日本では、こういったゼミは開けないだろう。今日から参加した師範大学の学生から修士論文をもらう。『汪政権与朝鮮華僑』…実に興味深いテーマである。授業の後、郵便局に行き、キャッシュカードを受け取る。届いたら、電話をくれるといっていたのだが…
政府に出す「提言書」の締め切りなので、書き進める。だが、靖国神社への参拝…どうしようもないことが多く書きあぐねる。外交部が言っている、“任何人倒行逆施,都有负于两国先人,有负于两国子孙,最终必将是‘搬起石头砸自己的脚’”は、具体的に何がどうなる、ということなのだろうか。それとも道理の話なのであろうか。
NHKから満鉄資料に関する問い合わせ。歴史ものの編集がいろいろな部局で進んでいるようだ。歴史認識についての番組でさまざまな議論があったところだが、この8月にややつっこんだ番組を編集し、従来の限界線が撤廃されたためか。あるいは、NHKにおけるある種の不安感というか、将来への不透明感から、やりたいことは今のうちにやっておけ、という雰囲気なのか。…2006年12月に西オーストラリアのパースで開かれる会議のインヴィテーションが来る。今年の7月にシドニーであった世界歴史学者会議に参加したメンバーから適当に選んだようだ。テーマは、Indian and Pacific Crossings: Perspectives
on Globalization and History…自分に何か発表できることがあるだろうか??しかし、パースには一度いってみたいと思っていたので…
政治大学の国際事務学院の学生から会食の依頼。来週に会うことにする。…数日前に国民党の党史館からシンポの案内が送られてきたが、いきなり自分の名前を発見したが、あらためて見てみると国家図書館である亜東関係協会主宰の会議と時間が重なっていることに気づく。あわてて党史館に電話して調整を依頼する。
16時ごろ、ようやく靖国に関する提言を書き終え、送る。国内問題であっても、周辺国と外交問題になることを承知でやる場合には、善後処置が重要という、当たり前の内容。そのあと、別の官庁から依頼されていた五中全会の人事に関する簡単なメモを書いて、送る。こちらは、江沢民と胡錦濤の争いという側面、新世代である「三級」と胡錦濤の世代交代的な人事調整面の二面を前提とした上で、「十一五」というケ小平の改革開放を乗り越えようとする胡錦濤が自らの派閥で周辺を固めようとして、問題をおこすよりも、いまのままで行くことにしたという内容。江沢民の息子の上海市「入閣」もまだ先となろう。
集合場所へ。週末の政治大学での会議などのために来ている東大の院生たちと食事をする。紅玉にしようかと思ったが欣葉に行く。二次会は久しぶりに風林火山。院生のころは、時間があるはずなのに、なかなか論文が進まないもの。いろいろはっぱをかけるが、…受け止めてもらえたかどうか。
10月20日(木)
朝、台湾の研究者からメイル。台湾のウェブサイトに小生のホームページのことを紹介してくれた。また、The Communist University of the Toilers of the East関連の史料について尋ねられる。謝雪紅がそこで学んでいた関係。藍適斎さんの文章でもそういったことを見たことがあった。コーネルのホームページに、ペテルスブルグにあるスターリン大学、孫中山大学関係史料について紹介してあったので、それを送る。
午後は、日華外交史・日台関係史に関する1月末のシンポジウムの記録のとりまとめ。また、来週、再来週の報告、特に戦後日本における台湾研究について調査を進める。1950年代の日本の台湾研究はきわめて活発であった。これを「脱帝国化」という観点からどう見るか。
国民党から電話。シンポの日程調整がつかないらしい。コメントからは外れることに。
宴会がなくなったので、早く帰宅し、上記シンポの記録の取りまとめを継続しておこなう。石井明先生の自らの研究の回顧、袁克勤先生の研究方針、黄自進先生の台湾における日華外交史関連の外交档案分析、いずれも啓発される。
10月21日(金)
また大雨である。外に出られないので、家で仕事をする。
一月末の日華・日台の仕事。別枝行夫先生の原稿をチェック。自分の原稿は最終段階。
午後、大学に出て15時からの東大と政治大学の大学院生交流会に出る。これは若松大祐君、また村田雄二郎先生のご尽力が大きい会。台湾の体育史、メディア史、権威主義体制論、中国外交史、戦後台湾の外交史、日華外交史、日本の学術情報紹介などである。院生たちのこういった会議はどんどん進めるべきだが、質問があまりでない。まあ、休み時間などに交流すればいいのかもしれない。台湾側の報告者が日本語で報告したことに驚く。これは政治大学に来ている日本人留学生たちのおかげである。こういう努力は、直接的にはむくわれにくいが、長期的には大きなものとなろう。
最後に台湾大学の佐藤将之先生が講演。実に「説中了」という感じの日本の学界に対する批判。日本の学界の孤立化…確かに、世界の中国研究の世界で日本の学界はもはや発信力を失っている。これは、明治以来の「漢学」の衰退と見るべきであろう。日本の「近代」は、欧米化とともに、近代「漢学」を生み出し、それは植民地支配や戦争と深く関わった。だからいけないというわけではないが、それをいかに位置づけるのかというのは重い課題である。戦後、「漢学」は「脱帝国化」したのであろうか。あるいは、そうした政治性や目的性を希薄化して、漢文を読んだりするテクニカルな部分だけを継承したのか…よくわからない。しかし、
会議終了後、猫空へ。たくさんのレストランがある。二度目か三度目である。土鶏は好物。また高粱酒を飲みすぎる。政治大学歴史系の大酒のみの伝統は、彭明輝、劉祥光さんあたりに継承されている。彭さんの奥さんが、中米関係史をやっている呉翎君であることを改めて確認する。台湾の学界は同業者カップルが多いので、どこでどう情報が伝わるかわからない。
会議の途中、清水麗さんから原稿が届く。これで編集は終了である。
年内にはフォーラムのリーフレットが出版されよう。
10月22日(土)
朝、一時帰国のため空港へ。空港で、日華・日台のフォーラムの原稿一式を発出する。
馬英九が澎湖にいって演説をしたが、全部台湾語でおこなった。「馬の台湾語は外国人の言葉のようだ」とのコメントもあったが、それでも重要なことであろう。ただ、台湾語のできない小生には、どの程度なのかわからない。林濁水が連戦を強烈に批判。副総統時代の「礼遇」をめぐり、その額が高すぎるというもの。連戦が、「愛銭」だという批判は各地で耳にする。
日本アジア航空の志村けんと金城武のコマーシャルは大好きである。雰囲気的に台湾的である。
『週刊朝日』で、水谷尚子の新書『反日』が高く評価されている。活動の方法は異なるとはいえ、「同志」の本が高く評価されることはうれしいものである。
10月25日が近づいてきた。台湾光復節、あるいは民進党の言うような「終戦」記念日と言ってもいいのかもしれないが、この日はいっそう重要な記念日になりつつある。国民党と民進党の間の関係であれば、228事件のあった、2月28日のほうが重要であり、これまでは10月25日よりも2月28日が重要であった。だが、昨今の両岸関係の変容、国民党による共産党巻き込み政策によって、むしろ10月25日が浮上してきたわけである。10月25日に安藤利吉総督は、「受領証」にサインした。いわゆる「降書」は記していない。そうした意味では、「台湾光復」というのは誤解を招く表現なのだが、中国でもそのように言われる。いずれにしても、51年にわたる日本の植民地支配と、台湾における第二次世界大戦が、この日に終わったことには変わりはない。中国共産党はだいだいてきに、この10月25日を祝うつもりのようである。10月23日には台聯主催、10月24日は統戦部主催、そして25日には中国共産党中央主催で行事が実施される。国家博物館では、「台湾同胞抗日闘争展覧」が実施される。全指揮は、賈慶林が執るといわれる。陳水扁総統は、25日、台湾省政府主催の行事に出るという。東アジアのアイデンティティ符号の焦点は、日本よりも台湾にあるのだろう。
10月23日(日)
日本のあまりの寒さに風をひく。講談社の原稿の手直しをはじめる。原稿用紙60枚くらいの、講談社が刊行する新たな論壇紙の原稿で、同時にいま書いている講談社新書の第一章になることが想定される部分。
それにしても、近代東アジアの国際関係を考えていくときに、これほど非国家アクターが多く、現在においても相互に承認しあわない政府で構成されている地域も、世界のほかの地域にないのではないか。台湾はもちろん、北朝鮮、…国と国の関係にさえならない地域である。韓国から見れば、台湾は断交して13年になる。中国は南北朝鮮と国交がある分、優位である。韓国もまた、北との特別な関係がある分有利である。危険なことかもしれないが、日本はたとえば台湾を中国の一部と認めつつも、「特殊な関係」を築くことによって、東アジア国際政治のアクターになることも昼用かもしれない。韓国は台湾には触れないし、中国は国民党というシンボルを通じてしか接点をもてない。イデオロギー的な親台ではなく、国際行政面などで積極的に台湾と関係を築き、中国や韓国にできないことをすることが求められるのかもしれない。無論、相当慎重な配慮が必要だが。
所用をおえて、夜には講談社の原稿を発出する。
10月24日(月)
台湾に戻る。日本の新聞で、中国ではソウルのことを「首爾」と書くことにしたなどということが報じられていた。これは大問題で、たとえばソウル大学を「漢城大学」などと漢字で書いてしまうと、実際「ソウル大学」と「漢城大学」の双方があるため、困ってしまうのだ。無論、こういった実際のことよりも、イデオロギー的な問題のほうが重要であろう。中国からの圧力は、実際日本よりも朝鮮半島のほうが感じるからである。だが、台湾では「首爾」と夏前から前から言っていた気がする。会議のときなど、時々話題になったものだ…確認が必要かもしれない。
週末の会議の原稿を準備しつつ、学生の論文をチェックする。機内では、台湾の新聞を数紙見る。やはり10月25日関連の記事が多い。『自由時報』は国民党非難を極めている。「外来政権的幽霊仍在台北街頭徘徊」という社説。『中国時報』は微妙。朱建陵の「台湾光復大合唱」を掲載。これは、反中的な記事。
年末の選挙については急速に民進党の旗色が悪化している。この二週間で感触がずいぶんと変わった。屏東でも年齢問題もあり、落としそうだという。「三合一」は、民進党には不利かもしれないという憶測もある。一回の選挙で、三者別々のところに入れるなど難しいからだという。また、蘇貞昌を追い落とすために、謝長廷がわざわざ「三合一」にしたということも言われる。
台湾のメディアでは鳥インフルエンザが大騒ぎである。湖南、香港、台湾ルートが盛んに報道されている。危険だという。…19時過ぎに空港に着き、自宅へ。
10月25日(火)
風邪を引く。8時から授業。10月25日という記念日の位置づけについて、8月14日、15日、9月2日、3日などと絡めて説明する。
午後、学生新聞の「記者」たちが来る。長々と3時間も話す。民主主義は多数決ではないのか、という質問にとうとうと答えてしまう。多数決をすれば民主主義だというのは、なかなか凄い理解である。しかし、台湾では、むしろそういう可視的な「民主主義」をアピールすることで、その存在を維持してきている部分がある。それだけに、そうした雰囲気が「政治大学」の学生にもできてしまっているのであろう。
夜は早めに自宅に戻り、週末の会議の原稿を書き進める。戦後日本における台湾研究。思ったよりも多くの研究が、45年から70年代に蓄積されている。
10月26日(水)
風邪が悪化する。熱と、喉と、腹痛と頭痛。
8時からゼミ。日記の解読は進む。日露戦争当時の外務部の動きがよくわかる。
終了後、学生と面談。戦後の台湾のラジオ放送政策について。史料のこと、研究内容について。教育部、中広公司、国民党に残されたラジオ放送関連の史料の公開が待たれる。彼は、『広播週報』を利用。1950年代のラジオ放送と台湾の民衆の問題。主にラジオドラマから迫りたいという。興味深い。
昼は、『問題と研究』の編集部に居る若畑氏と。彼はもともと韓国研究者だが、トレーニングもしっかりしており、比較政治的な見解、また興味深い議論を聞かせてくれる。台湾に留学している東京外大の後輩も一緒。日台関係が専門。重要な分野である。
午後は原稿を書くが、風邪があまりに重く、自宅に戻り休む。夜は李明峻さんと中興大学国際関係の蔡東傑さんと食事。蔡さんは気鋭の中国外交研究者。その議論はとても新鮮。中国の最近の「論壇=フォーラム」外交が、中国自身の対話可能性の表示になっているという方向付け。さまざまな話をしたが、もともと外交史をしていただけに、歴史との対話もできる。とても楽しい時間であった。また、お店もとてもよかった。このクラスの日本料理は台湾で始めてである。会員制で一見入りにくいことで維持されているのか。二次会に誘われたが、体調が悪いこともあり、お断りする。
10月27日(木)
風邪がさらに悪化する。痰がひどく、気管支炎かとも思う。
鈴木賢さんが、昨晩台北に着いている。電話して金曜の晩あたりに会う約束をする。
午前中は週末の原稿を書く。昼に、国際事務学院の学生と食事。戦後日本における現代中国研究についておっていきたいという。方法などについて議論。筋は悪くない。食事が終わってから、政治大学図書館社会科学資料中心に。ここは、総合図書館とは別の建物。台湾の修士・博士論文をすべておいているところ。非常に便利である。ただ、今回の目的は、方豪と程天放の蔵書である。これらは3室に分かれておいてあり、整理状況はあまりよくない。とりあえず、簡単に見ておえる。また戦後台湾の政府公法類も四階にそろっている。便利である。
研究室に出て、石井明先生から送られてきた手紙を受け取る。『国際法外交雑誌』に拙著の紹介をしてくださっている。これまでの書評の多くが清末からのそれであっただけに、どうも辛いところがあったが、現代のほうから見ていただいて拙著のモチーフを汲み取って戴いた感じがする。
北京大学の学生からメイル。『大公報』と日本人の関係について調べているという。方豪の史料を見ていたので、ちょうどいい。早めに自宅に戻り原稿を仕上げ、原稿を亜東関係協会に送る。なんとか間に合う。1970−71年あたりの台湾史をめぐる議論に興味を持つ。戦後知識人というのは、「帝国」をどう清算したのか。
また、11月末の国史館のシンポジウムの中国語訳もできあがってくる。
10月28日(金)
風邪はおさまらない。
学生の論文を二点ほどチェックし、返送する。学生の論文チェックはほとんど日課になっているが、一番集中する時間でもある。その後、来週の学習院の高埜科研のメンバー訪台に関するスケジュールの最終調整。国民党に電話して確認し、調整が終わる。
ある官庁から新しい調査依頼がくる。胡錦濤の北朝鮮訪問について。また、北大総合図書館の機関誌から原稿を依頼されていたことを思い出す。締め切りは過ぎている。あわてて、編集者に遅延の連絡をする。母校の筑波大附属駒場中高校の同窓会機関誌からも原稿依頼が来る。意外であるが、どうも体育祭とか世界史の講師を二年にわたってしていたこととか、そういったことと関係があるらしい。
午後は、来週末の東京での台湾研究会関連のレジュメを作成。4時半ごろ大学を出るが、山を下るところで、東大の藤井省三先生に出会い。学生さんともども一緒に国賓大飯店に。夜は亜東関係協会主催のパーティ。陳外交部長もいらっしゃる。羅福全・亜東関係協会会長、許世かい・駐日代表、また許丙さんの息子さんの許敏恵さん。…しかしジャパンロビーと、対日交流促進会はじめ、どうもある筋の方々のようである。また学会では許海鱗先生、林明徳先生、陳鵬仁先生そのほかの先生方に出会う。陳先生が、馬樹礼大使のお宅にうかがう機会を早々につくってしてくださるという。陳外交部長は低調、というかやる気のないスピーチ。セネガル断交の件で、そうとう立法院でいじめられているためか、それとも日本関係だからなのか。だが、スピーチ内部では、すべて「日台」「台日」、「華」の字はない。また「日本と台湾は運命共同体」とのスピーチ。呉文星先生から、師範大学で講演するように言われる。
終了後、檜山先生、栗原先生、東山さん、松金さんと、打ち合わせもかねて二次会に行く。今回準備した原稿のモチーフを伝える。鈴木賢さんには会えず。
10月29日(土)
早朝より学会。国家図書館に。お願いしたはずのレジュメなどは準備されていない。
ある意味で異様な雰囲気である。会議は日本語。集まっているのも日本関連の人材と、また日本語系の学生など。ちょうど、台湾大学で日本研究の、国民党本部で抗日戦争六十周年のシンポがあるため、日本研究、日中関係史の研究者の顔も多くは見えない。
最初のセッションは関西大学(石田浩先生)のセッション、ついで早稲田(西川潤先生)、東大(藤井省三先生)のセッション。アメリカの対台湾政策の報告などには厳しい質問が飛ぶ。アメリカの対東アジア政策研究における先行研究を整理し、自らの研究のオリジナリティを明確に示しつつ、台湾の研究や、台湾側の史料にも配慮をしなければ、一定の水準にはならないだろう。少なくとも、張淑雅の水準で勝負しないと、厳しい状態になる。また、ディシプリン的な問題も、台湾では厳しく問われるところなので、注意が必要だ。早稲田のセッションでは、亡くなられた劉進慶先生に黙祷がささげられた。西川先生の配慮はさすがである。また、いらっしゃれなかった◆照彦先生のご研究の解説をした石田浩先生のお話は、「さすが」というか、本当にわかりやすく勉強になった。中でも、1945年を越境する研究を◆先生がおい、中でも台湾の中小企業の発展のさまをおっていたこと、そこから戦後に主要産業が国民党に握られながらも、結局台湾の経済発展は党営、国営企業ではなく、中小企業が担っていくこと、ここから台湾を開発独裁と呼べるのか、といった問題提起がおこなわれた。これらは、何度リマインドされても意義深い。
文学も面白かった。二人の大学院生の若々しい報告もさることながら、政治大学の張文薫さんのコメントがふるっていた。小説の中の、世代間の会話などを、どうして祖父母と孫の心温まる会話として捉えずに、世代間のアイデンティティ、あるいは省籍矛盾などから捉えようとしてしまうのか、という問いであった。これは、重要な指摘で、従来、アイデンティティ、民主化、経済発展という三基軸を、分析の軸にすえてしまった、日本の台湾研究のある種の限界か、とも感じた。
昼食は、酒井亨さんと向き合って台湾の政治状況などについて話をする。
実は、会議の途中、国民党の会議にも「報名」した。こちらはこちらで異様な雰囲気である。南京大学からの重要メンバーが集まっている。陳紅民先生は、来年から浙江大学に異動になる。日本からは水谷尚子が参加。台湾は、退役軍人など。あとから聞いた話では、靖国参拝などで、日本側の事情を説明した「知日派」の研究者が相次いで攻撃されたという。悲しき国共合作か。
夜は、杜正勝・教育部長の宴席。円山大飯店に。招かれているのは、教育部、亜東関係協会、外交部などの役人、そして各日本語学科の主任など。こちらは第二テーブルなので気楽。大臣や大使などは第一テーブル。こちらは、官庁の課長クラスと学科主任のテーブル。ただ、座席設定はあまい。向き合う相手なども調整不足。このあたり、大陸の序列社会におよばない。
終了後、国賓大飯店のバーで松金さんとあれこれ話をする。
10月30日(日)
早朝、報告があるので早めに会場へ。準備した文献目録は用意されていた。安心する。会場は昨日よりは少ないが100人強はいる。会議前、栗原先生が、とても詳しく小生の作成した目録についてコメントをくださる。本当にうれしいことである。どこから、霧社事件の研究が盛んになったかということ、東京のある地域でおこなっていた(調布?)研究会、市民向け講座?から出てきた霧社事件のこと。このあたりは春山先生にもうかがってみたい。
中京大学のセッション。檜山先生と栗原先生。報告は小生と松金さん。言語については、日本語でおこなった。
小生の報告は、1945−72年の日本の台湾研究について、(1)台湾からの引揚者の研究が継続されたこと(ただし学界の主流にはならない)、(2)1958年のアジア経済研究所の成立が大きな意味を果たしたこと(「帝国の学知」から国民国家・日本としての学問へ)、そこでは笹本武治の研究グループの存在意義が大きかったこと、(3)日本の戦後左翼は基本的に植民地支配そのもの、特に台湾支配については議論しなかった、(4)1970年前後の日中国交正常化に際して「台湾」が発見され、中国研究の一部として位置づけられた、(5)しかし、1970年代に現在の日本の台湾研究をリードする、若林、春山、檜山、石田、栗原らの研究が生じていること(この原因、背景についてはコメンテーターに丸投げした)、などを挙げた。小生としては、大きな問題提起をおこなったつもりであった。松金さんは、1995年からの日台交流センターのことを紹介しつつも、前半では小生の報告にかみ合わせるべく、戦後の人類学、民族学、宗教学、建築学などの研究を紹介した。それによれば、(1)戦後のそういった学問、すなわち台湾時代をそのまま継承するような学問については、フィールドを同時代におこなったわけではなく、台湾在住時代のものを持ち帰って研究しているので、正統な研究として認められてはいないこと、(2)1970年代にフィールドが開放されるものの、そこでの視線は、「果たして台湾は中国の代用足りえるか」という視点であり、結論として「代用とはならない」ということになったこと、などが紹介された。これらはきわめて貴重である上、(3)台湾が「発見」されたあとも、文献とフィールドを往復する視座が形成されたことが指摘された。これらは、本当に興味深いものであった。
だが、おそらくは松金さんも同感であろうが、筆者にとってもっとも有意義であったのが、松金さんと小生の報告に対する栗原純先生のコメントであった。戦後の台湾研究に対して雄弁に語る栗原先生のコメントは、まさに感動的であった。これは、基本的にこちらから投げた、どうした1970年代なのか、という問いへの対応でもあったろう。以下、栗原先生のコメントを聞きながらとったメモを載せたい。
[栗原純先生コメント]
(1)断交前後の台湾研究
それまで日本の歴史(中国史含む)にとっても、「台湾」は関心とはならなかった。それは、日本の戦後の中国史研究が、(補償はしていないにしても)日本の中国侵略に特化したためであり、またマルクス主義の影響でもある。そして、中国の社会主義、当時の中国に傾倒し、その反面、蒋介石は重視されないということになったのである。植民地の人々が、蒋介石の統治下でどういう生活をおくっていたのか、ということは、少しずつは関心となっていたのだが…
(2)戦後日本の植民地研究
戦後日本の植民地研究がなかったというのではない。朝鮮史などは積極的に議論していた。みすずから出た、台湾の植民地統治に関する資料集の編者が山辺健太郎先生であったということはひとつの象徴だろう。山辺先生は朝鮮史研究者である。その山辺先生が台湾関連の部分の編者であるというところにその問題があらわれている。その時点で、台湾史を担う担当者がいなかったのである。
(3)1970年代の歴史学
1970年代の歴史学はヴェトナム戦争に向き合っていた。そこでは、遠山茂樹と芝原拓自の論争の中で、日本の近代がそもそも何であり、そこにおいてヴェトナム戦争に反対していく論理が日本近代史の中にいかに析出されていくかということが問題になった。当時は南ヴェトナムからの留学生もおり、これは切迫した問題でもあった。そして、当時、台湾から来ていた多くの留学生からの影響もあったろう、そうした環境の中で、あらためて「台湾」が発見されていくのである。そこでは、矢内原の研究をいかに批評し、克服するかということが課題になった。無論、この点では多くの台湾人留学生の視線が重要となったが、矢内原の克服は台湾人にとっても課題であったと思われる。すなわち、矢内原の視線は、日本によって台湾が近代化され、資本主義化されたというものであった。ここでは土地調査などが近代化への基礎作業として評価され、清朝時代は逆に前近代とされた。これは、矢内原の「児玉・後藤ライン」への高い評価をいかに考えるのかということでもあった。ここでの大きな疑問は、第一に、たとえば土地調査を挙げれば、はたしてそれが末端までいくのかということであり、基層社会は清末以来変化がなかったのではないか、ということであった。第二の問題は、清末の台湾を暗黒時代として、遅れたものとして描いていいのかということである。土地所有問題はさまざまなかたちで存在しつつも、砂糖、樟脳、お茶などはすでに国際交易品となっており、すでに近代化に向かっていたのではないか、という問いが成立してきたのである。そうなると、後藤の政策の優越性などは、しだいに批判の対象となっていくことになるのである。何も後藤の政策で決まったわけではないのだ。
矢内原については、新たな検討が必要である。最近わかったことだが、彼が帝国大学教授で台湾に来て誰と会って、誰から話を聞いたのかということは重要である。これは琉球大学の所蔵資料を見るとわかる。琉球大学には矢内原の資料があるが、そこには矢内原が台湾に行ったときの名刺があり、メモもある。それからすれば、矢内原はあくまでも現地の植民地官僚から話を聞いていたことがわかるのである。台湾人は、蒋渭水(肩書きもない、名前だけの名刺だという)などであったという。
(4)ヴェトナム戦争
確かに、ヴェトナム戦争もあったし、またアジア研究所も大切であった。檜山先生も栗原先生もまた戴国W先生の研究会のメンバーであった。なぜ、1970年代に、現在につながるような台湾史研究がおこったのか、ということについては、やはり時代状況、ヴェトナム戦争を無視することはできない。1960年代のヴェトナム戦争こそが、日本の学生や研究者にとっては、近現代史の枠組みを再考する契機となったからである。1960年代後半における所謂「芝原・遠山」論争もまた、ある意味で日本の戦前の「帝国主義性」、満洲、台湾、朝鮮への支配をどのように見据えることが、ヴェトナム戦争反対ということにつながるのかということにつながるという点に支えられていた。当時はこういった「社会的責任」が重要であったし、実際南ヴェトナムからの留学生などがおり、彼らが言論においてなかなか発言できないという面があったのである。
(5)1970年代の環境の変化−矢内原の研究の克服−
このような過程の中で日本の歴史を見直すということがあり、また台湾からの留学生の突き上げもあって、「台湾は再発見」されていくことになる。ここにおいて、大きな課題となったのは、矢内原の業績をいかに批判的に検討していくのかということであった。矢内原の基本的なコンセプトは、台湾が日本によって近代化され、資本主義化されたというものであった。そして、土地調査などは資本主義化へのひとつの過程、作業として評価され、当然のことながら、清末については「前近代」という評価が付与されることになった。そこには、児玉・後藤のラインの「政策」によって近代化が進められたという含意があった。これを批判する上で、第一に果たして土地調査は末端まで行っていたのか、基層社会は清末からの連続で考えるべきではないか、という点が挙げられた。第二に、清末の台湾は「遅れていたのか」という問いが提起された。日本統治時代にまで継承される土地所有問題がある中で、砂糖・樟脳・お茶などはすでに「近代化」へと歩み始めていたのであり、後藤らはそれに乗っかっただけなのだ、という観点である。これらは、矢内原における官僚優位的な研究の問題性をついたものである。
また、これは近年わかったことであるが、琉球大学に矢内原が執筆に当たり台湾を訪問したときに受領した名刺の束があり、そこにはメモも書かれている。それからわかるのは、矢内原は総督府の高級官僚から聞き取りをおこなったということである。これは、「帝大教授」としては当然のことである。矢内原は台湾で講演をおこないながら資料を集めた。台湾人からの名刺もないわけではないが、それは蒋渭水といったレベルの台湾人であった。こうした彼の著作の背景を学ぶべきであろう。
(5)台湾への視線と総督府文書
ヴェトナム戦争などを背景として1970年代には台湾が「再発見」される。アジア経済研究所の戴国W先生のところに、栗原、檜山量先生を含む、多くの若手があつまった。
他方、この時期には史料状況にも大きな変化があった。史料集の公刊だけでなく、国会図書館の憲政資料室でも文書が公開され始めた。台湾総督府文書については、『台湾文献』にその存在を示す史料紹介が掲載されたが、戒厳令下であったということもあり、状況はわからなかった。栗原先生自身は、1981年にはじめて総督府文書を見たという。場所は霧峰の民家。文献委員会の特別のはからいで、一冊だけ触れていいということだったという。この81年には、台湾大学において「台湾史」の授業があったものの、オランダ統治時代までであり、清朝時代にさえ触れなかったのであった。
1980年代後半、台湾総督府の文書(公文類纂)が公開された。そこで檜山、栗原先生が整理に参画していくことになったのである。
この栗原先生のコメントは本当に勉強になるものであった。
昼食は亜東関係協会の幹部と弁当を食べる。亜東関係協会が、外交部に引っ越したこと、その背景、予算、人事、また漁業関係の交渉の背景そのほかについて情報を交換する。
午後、国民党の会議に行こうと思ったのだが、亜東関係協会側が準備したエクスカーションに参加する人が石田浩先生以外、余りに少ないようなので、松金さんと一緒に故宮博物院に行くことにする。久しぶりの故宮。工事中である。九份行きはお断りする。
山を降りて、国父紀念館の「台湾地方自治発展」史料特展に行く。そこまで目新しいわけではないが、特に1950−60年代の部分が興味深い。戦後の台湾の民主化の歴史をしっかりと、地方レベルからおさえた研究が必要だろう。夜は、福華大飯店で友人と食事。その後、松金さんと院生たちの飲み会に合流する。
10月31日(月)
会議も終わったので、授業の準備も含めてたまっていた仕事をする。週末の東京での会議の準備を始める。
夜は、日本の官庁関係者と遠東大飯店に。ここは、最近総統、副総統がよく利用している。台湾の状況などを紹介する。終了後、来来大飯店で陳鵬仁先生と食事をしていた友人をピックアップし、林森大学の日本料理屋に。酒を飲む。来ている日系企業のひとたちと盛り上がったところで、松金さんが学生二人と現れる。また大酒になる。
11月1日(火)
授業。「民主主義」について話す。多数決とどう違うのかということ。多数決は民主主義、民主主義は多数決でしょう、という学生新聞の記者の発言に驚いたので。やはり、多数決と民主主義を同義と思っている学生が多い。このクラスで、男子のほうが多いときに、女子トイレの撤廃を多数決で決めていいのか、と問えば、それは駄目という。ではどういう場合にはよくて、どういう場合にはいけないのか、分類してほしいと言って、考えてもらう。実際に多数決を使えないことのほうが多いし、多数決を利用するには相当な慎重さが必要だということを伝えたかったが、どうであったか。
授業は、台湾出兵から日清戦争のこと。台湾の地位にもかかわる問題。馬英九さんが、下関条約無効論をぶちあげているので、話題性もある。12時からまた補講。ここでも継続して日清戦争。だいたい終わる。
夕方、筑波大学から来ている学生を誘って食事に行く。広東料理。彼女には、明日からの「参観」の「しおり」を作成してもらう。
終了後、檜山先生、栗原先生、東山京子さん、日本財団の方と待ち合わせて茶館にお連れする。東アジア近代史学会関連のことについて。また中国の外務部文書のことも話題に。
11月2日(水)
朝、ゼミ。日露戦争関連の記述が日記に増える。チベット関係も。当時の外務部内部の感覚がわかってとても面白い。こういう現場感覚が外交史には必要。
週末の報告の準備をすすめる。また、来週に金門島、民雄の国家広播文物館に行くことを企画。金門については、学生たちに公募をかけ、参加者を募る。また、鍾淑敏先輩にお願いして、国立金門技術学院の先生を紹介してもらう。金門の建築の専門家。彼からは民宿の宿泊を勧められる。
17時過ぎに台北駅そばの華華大飯店に。「日本檔案學 / 檔案館學學者代表團」と小生が勝手に名づけた科研のメンバーが来る。高埜先生が日本アーカイブズ学会の会長ということもあり、こういうネーミングにした。参加者は、高埜利彦(学習院大学文学部教授)、安藤正人(国文学研究資料館archives研究系教授)、所澤潤(群馬大学教育学部教授)、櫻井良樹(麗澤大学外国語学部教授)、加藤聖文(国文学研究資料館archives研究系助手)、李Q龍(韓国国家記録院学芸研究士)、川島真 (北海道大學公共政策大學院副教授, 台灣國立政治大學客座副教授)ということになっている。この日は、初日なので、衡陽路の上海極品軒で食事。このレストランは、以前、塚本元先生に最初に紹介してもらって以来、10年近く使っている。総督府に近いので、ときどき要人に出会うところである。
終了後、遠東飯店のバーにて友人と会う。
11月3日(木)
8時集合。まずは国史館に。館長、委員クラス、史料処処長が出てくる正式な接待。張炎憲館長から説明の後、意見交換。また、燻蒸、補修、デジタル化、文書保管庫などを見学。特別史料室では、1945年9月9日の「降書」などもある。国史館の所蔵品は、基本的に(1)総統府、(2)国民政府(大陸時代)、(3)地方政府、(4)文献委員会(台湾総督府)などであり、現在のところ国家計画でのデジタル化を進め、国家歴史史料データベースの作成、オーラルヒストリー、各界のエリートたちの聞き取りおよび資料収集が進められている。議論では、档案と公文の違いについて問題になったが、国史館側は档案こそがドキュメントだという。この解釈は、やや偏ったものである。また、地方との関係については、国史館は特に地方の文化局などに対しての権限はない、とのことである。台湾における地方史は、各地方の選挙がおこなわれ、民進党が政権を獲得する中で編纂が進んでいったものである。1989年のことである。そうする中で、国民党もまたそれに追随して、地方史の世界に踏み込んでいったのである。地方政府が編纂する地方史じたいに国史館が関与することは、協力はありえても、審査権などはない。これはあくまでも、台湾省政府、中央政府内政部にぞくした権限であった。このほか、EAD、あるいはISADなどといった文書の整理、登録の方法についての議論がなされた。
13時半からは国民党。邵銘煌主任による説明。政党アーカイブとしての機能の説明、国民党档案の概要の説明など。新たな動きについても。スタンフォードのみならず、台湾大学や中央研究院との協力体制が模索されているという。また、地方の国民党については、文書がここには来ていない。馬英九は、文書の公開については積極的だとのこと。だが、党の財産部分など、反国民党に利用される可能性のあるものは公開しないという。これについては逸話がある。中央研究院近代史研究所の档案館で公開している李国鼎档案の中に、彼が財政部長であった時期の党産関係のものがあり、それが民進党に利用されたのだ。なお、国民党からすれば、蒋介石の資料もまた、国民党に属するべきだということになる。蒋介石が「総統」であるから、「国家」のものであるので、国史館にあるべきだという議論は理解できるにしても、そうであるならば、蒋介石が総統になった1947年以前のものは国家のものになるわけではないということになるのである。この論理は通らなかったが…
15時半に、伊通街にある国家档案管理局に。局長以下、課長クラスが全員居並ぶ。国家档案局は、あらゆる档案は自らに属し、国史館はユーザーに過ぎないという。ここでは公文と档案の分別は明確。現在、8400ある機関の档案の目録を提出させている。フォーマットは国家档案館R局が指定している。档案庫がないので档案は受け取れない。だが、将来的には、東部、中部に分館をつくり、軍事、外交、立法などは別途特別档案館をつくってもいいという。なお、同局にも法人化するという話があったが、国家機関でなくなれば、档案に対する権限がいっそう弱まることが懸念されるので、強く反対したという。もともと、アメリカ型の民主主義的なアーカイブと、ソ連型の社会主義的=集中的管理制度の双方を取り入れたところであり、法人化にそぐうかどうかわからないところである。専門家の養成に付いては、公務員試験の中で档案館利方面の枠が設けられているのと、政治大学や中華档案学会での「研修」によって「専門家」と認知することによって解決しているという。収集していく文書については、行政機関だけではなく、五院すべてを相手にするという。…相変わらずの鼻息の荒さである。
会議終了後、欣葉で台湾料理を食べ、また二次会に行く。実は、このあと、ジャケットをなくしてしまう。どこでなくしたのかわからなかったが、帰宅後、近くで麺を食べたときにおいてきたことが判明。翌日の夕方になってやっとありかがわかった。ポケットの中に大切なものが入っていたので、本当に冷や汗ものであった。最後は、学生にとりに行ってもらい、届けてもらった。
11月4日(金)
9時に華華飯店に。ジャケットのことが気になるが、気を取り直して政治大学に向かう。圖書資訊與檔案學研究所の薛理桂教授に会いに行く。彼こそが、台湾における档案館学の権威である。プレゼンは学科の紹介が中心に、台湾における档案行政について、まとまった話がされる。そのカリキュラムなどについて、安藤先生が大変強い関心を示しておられた。会議終了後、文学院長に会う。政治大学と日本の大学の交流の状況など。
昼食は猫空へ。久しぶりに茶油麺や川七を食べる。
14時ごろ中央研究院に着く。喫茶と本屋で時間をつぶす。15時半に近代史研究所に。入り口で、張力さんと、東華大学の許育銘さんに会う。ちょうど会議をやっていたのだという。莊樹華主任も出てくる。彼女は、研究人員ではないにもかかわらず、最初の档案館主任になった人物。彼女と立ち話をしているときに、もうすぐ定年、ということを聞いて驚く。研究人員でないために、定年の目安が50歳という。愕然とする。彼女が辞めたらどうなるのか。…セットされた説明会での話はさすがという感じであった。飾るというか、いっさい自己主張のようなものがなく、きわめて淡々としたもの。国家の方針への批判的検討、また自らの判断基準などが、次から次へと出てくる。ここは、常に最先端である。
夕食は、松山の祥禾園。広東料理。終了後、松山の夜市へ。饒河街夜市。この河川交通の要衝にできた寺廟を中心とする市は、観光化されても十分に魅力がある。このあと、茶館に皆さんをお連れする。
11月5日(土)
帰国準備。午前中に、6日の報告原稿を提出する。「脱帝国化」について。1945年8月15日以後、たとえば台湾で医師資格を得た日本人は日本国内でも資格を得たのか、国内貿易が国際貿易にかわって、どのような変化があったのか、日本国内の台湾人の法的地位はどうなったのか、といったことがポイントになった。レジュメは若林先生にも送る。
午後三時発。19時ごろ成田に着く。最近、中正空港の滑走路が工事をしており、一本しか滑走路が使えないので、離陸に時間がかかる。到着後、日暮里へ。松金さんと宇都宮大学の学生さんと食事。交流協会日台交流センターの野村英登さんも来る。
11月6日(日)
パソコンが崩壊する。ワードが動かない。CPUがすぐに100になる。いろいろやったが無理。ワード以外も、異様に遅い状態。CDドライブをもってきていないこともあり、あきらめる。
台湾研究会に。これは石田先生の主宰する台湾研究会の関東部会。こういった地道な研究会活動が実に重要。金戸さんの報告は、台湾人の外国人の地位問題、北波さんの報告が台湾の電力。小生は「脱帝国化」、松金さんは仏教。松金さんの報告は久しぶりに聞いた。堅実な研究。仏教団体が南部への布教に抑制的であったことなど。
終了後、北海道大学の修士課程を受験したいという学生と面談。日本統治時代の台湾における教育関連。終了後、ホテルに戻る。
11月7日(月)
山手線が全面的にとまる。内回りだけでなく外回りも。北大総合図書館の機関誌への原稿、また日本財団への起案書を書き上げて送る。
地下鉄を乗り継いで渋谷へ。駒場の三谷博先生に会う。新たな企画ものについての相談など。2時間近くお話しする。
パソコンが壊れたので、池袋で購入。VAIOをやめる。大容量のUSBをあわせて買い、古いPCのデータを移すことにする。そして、無線ラン用の「電話機」を購入する。台湾では使えないが、早く買っておくことにする。夕方、官庁の研究会。今年最後。「よいお年を!」という挨拶に、驚く。研究会の議論の内容も多岐にわたる。米軍再編、憲法九条、そして国連の下での自衛隊派遣。三者の問題。また、ある意味で米軍とコードを共有している海上自衛隊とそれがない陸上自衛隊の問題など。終了後、参加者とのみに行く。この会合は、いつも先に失礼しているので久しぶりである。この研究会は次年度も継続するという。
11月8日(火)
朝10時の便で台湾に戻る。家に戻らずに大学に出る。
雑事の処理におわれる。
唐啓華教授から連絡。茅海建先生が見えておられるので、一緒に食事をしようという。しかし、先約あり。お断りする。残念である。
夕方、台湾日本学会の関係者に会って、最近の台湾における日本研究の組織化について話をうかがう。ひたすらメモを取る。食事をしているのだが、食べたものにはあまり記憶が無い。
11月9日(水)
朝、ゼミ。日記が一ヶ月進んでいく。
後半は、学生が提起した問題を中心に、日本の「終戦」「敗戦」そして「脱帝国化」「脱植民地化」について話をする。
台湾のある大学の人事案件の外部審査の依頼が来る。こういった仕事は、外国人がすべきことであろうか??よくわからない。
交流協会に行き、文化部で話をする。「台湾における日本研究の再組織化」と題したメモを渡す。内容的には、来年の旧正月あけを目処に大きな変動があるということ。もともと、台湾には日本語学、日本語教育方面以外に幾つかの集団があった。それは、(1)日本研究学会(許水徳、陳水逢、医師やガイドなどが中心。老齢化進行)、(2)南海基金会(蔡焜燦、背後に李登輝、日本からの招聘、案内。新竹から南部へ。許文龍。司馬遼太郎、小林よしのり、を招聘したのが、この南海基金会)、(3)中華民国留日同学会(頼浩敏、陳慶立、陳伯志) 、(4−1)日本語学科系統、(4−2)許介鱗教授の系統(台湾日本総合研究所)などである。日本では、小林よしのりであれ、司馬遼太郎であれ、(2)の意図の下に招聘され、対日文化政策の枠組みの中で、キャンペーンをはったという意識はないかもしれない。李登輝らの対日文化政策が成功したのである。彼らの議論の是非は別にして、そういった文化戦略の観点から、『台湾紀行』や小林の『台湾論』を見るべきだろう。
こういった幾つかの集団が、高齢化や色々な政治変動中で、新たなかたちを得ようとしている。世代交代、また日本留学組の危機感などさまざまな背景があるが、大きな問題は「日台関係の希薄化への危機」だろうと思う。観光客の増加、日本文化流入、ソフトカルチャー、哈日族、…などといったことはあっても、日本研究、日本論、ひいては政治家、官庁、日本への認識のレヴェルは低下の一途。日本との実質的な交流も低下していると考えていいだろう。この点、日本での対中イメージが悪化し、台湾へのイメージが良好になっているのと一見相反しているが、日台の政治、官僚レヴェルでの交流は厚みを失ってきている。また、日本留学者内部の不調和も指摘されるところである。それが、欧米留学にポストを奪われている遠因になっているという指摘もあるほどである。学会を作って克服できるかどうか不明だが、団結を示すことはできるだろう。そして、これまでのような私的団体では活動範囲が限定されるということ、またアカデミックであるのか、という問いもあったろう。2000年以後になって、ようやく「台湾」と冠せられた学会の登録が可能になったことを考えれば、あらたな学会の形成が期待されるところでもあった。具体的には、台湾日本学会(2006年2月設立予定、歴史など人文科学中心、日本留学経験者)、東北亜研究学会(2006年2月、設立予定、国際研究者の集まり、日本留学経験者とは限らない)などがある。
夕方、政治大学の歴史系を中心とした学生たちと食事に行く。また紅玉。二次会まで行き、午前様状態。
11月10日(木)
9時半、教育部脇の台湾大学の校友会館に行く。李明峻先生と待ち合わせ。中央広播電台に向かう。彼の紹介で、同電台の董事長ら幹部たちに会う。董事長は、元雲林県県長の息子で、弁護士。非常に若い。中国広播公司が国民党系で国内メディアになっていると対照的に、中央広播電台は(民進党的か?)対外向けになっている。場所は円山。中央広播電台には、文史館がある。そこに資料が残されている。アーカイブというか、展示機能しかないが。特に驚いたのは、民雄放送局の日本統治時代の業務日誌があったことである。これは一級の史料である。
民雄にできた国家広播文物館は、呉密察さんが文化建設委員会の副主任であったころに、いまの董事長と協力したつくったものだという。民雄は、日本が主に南洋向けにつくり、戦後は対大陸向け。発射機はNEC。全体で五体つくったものの一体がここに残っていた。その作成者である田中信吉氏との連絡を取ったという。ただ、中華民国は重慶から発射機をもってきたという。ラジオ関連の人材も基本的に外省人だったという。なお、興味深いことに、この民雄の発射台付近については土地争議があるという。この土地は国民党が来てから購入したものだが、予算は交通部が支出しているものの、登記上は国民党のものになっているという。そのために、国民党が土地の返還を要求してきていて、訴訟になっているのである。地方法院では国民党の勝利。高等法院では、中央広播電台が勝利。最高法院の判決が待たれている。こういった党産問題は各地にある。他方、董事長から民雄の放送局の日本側の資料調査について依頼される。明日の民雄については、「接待」をセットしてくれるという。
終了後、李さんと昼食。公平交易委員会の主任委員事務所のところに行く。結局、黄宗楽委員には会えなかった。その後、バスに乗り南下する。明日の金門行きの件で諸調整。金門技術学院の江先生が、急遽金門県政府の派遣でアモイに行くため、調整。
南京大学の陳紅民先生から電話。あさって中国に戻るという。来年の両岸三地の会こと。そして彼の今後のこと。
香港の珠江学院から来年1月上旬の会議の招聘。ちょうど日韓の会議と重なっているが、両岸三地のことを考えると、決して無視できない。参加するべきか。
11月11日(金)
車で民雄にある国家広播文物館に向かう。運転手は場所がわからないという。広播電台といえば、わかるのだが、「文物館」など聞いたことがないという。とりあえず、その放送局それじたいに行ってもらうと、そこには確かに「文物館」がある。だが、非公開の様子。門衛もいない。インターホンで連絡してあけてもらう。ここは、事前連絡をした者にしかあけないことになっているようだ。
この文物館の「専員」である方と、副台長が案内してくださる。この放送局のスタッフは15人、放送は日本にも届いている。参観のひとつのポイントは、この民雄の放送局における「継承」問題である。結論的には、日本統治時代には日本人が技術、番組編成などをおこない、台湾人はあくまでも基層の技術人員に過ぎなかったという。だが、日本の敗戦とともに、一部の日本人が残り、技術を台湾人に伝授。ただし、非常に短い期間だったので、実質的には大陸からきた人々から教わったという。当時を知る老人はまだ健在とのこと。インタビューがとれないであろうか。中華民国は、放送機械を重慶から運んできた。当初は板橋に置かれ、やがて民雄に運ばれてきたのである。イギリス製。戦後、この民雄の人員は大部分が台湾人であった。これ以外のポイントの一つが、有名なNECの放送機械。このほかに例の土地問題などがある。他方、昨日の台北でも話題になったのだが、こうした海外向け放送が、昨今では、国内のマイノリティ(外国人労働者など)に多く聞かれているということがある。この点は、この民雄でも話題になった。また大陸に多くの「聴友」がいることも。
嘉義空港まで送ってくださる。なぜここから金門行きの飛行機があるのかわからなかったが、空軍基地を見てはっとする。事実飛行機には多くの軍人が乗り込むことになった。また、「三通」を利用する人も多く見られる。三通については、(1)金門島に住民登録している人(してから少なくともは半年?が必要)=ただし携行できるのは三親等までに限定、(2)「台商」としての証明がある人、(3)ここ半年で5−6回以上の?往来がある人、に限定される。このあたりの制度は随時かわっているが、すでに頻繁に利用されている。
金門空港に着く。3回目か4回目である。
金門国家公園管理処解説課の黄子娟課長に出迎えていただき、そのまま国家公園の管理事務所に向かう。ここで、金門の概要について解説をうける。歴史、自然、人々、建築、さまざまな角度から説明していただくが、基本的にこの金門国家公園は、ほかの国家公園と異なり、「人文」を強く押し出したものであることがわかった。ほかの公園は「自然」型である。台湾には、陽明山、懇丁、太魯閣、玉山付近などの国家公園があるが、これらは自然を資源とした公園となっている。また、一部、国家公園に「なるべき」と思われるところもあるのだが、地域利害を侵害される原住民による反対があるので、実現しないところも多いという。そうした中で、金門国家公園が「人文+自然」をリソースとして国家公園となったのは異例である。金門は、(1)閩南文化=建築や町並み、(2)僑郷、(3)戦後の戦争、(4)自然、といったことをその特徴としている。日本統治時代は日中戦争開始後で、10年に満たない。戦後における戦争、軍の管理地であったということが、逆にさまざまな特徴を「保存」させたのである。また、1912年以来、現在にいたるまで中華民国であり続けているのは、この金門と馬祖である(金門と馬祖のほかにも、台湾海峡に沿った多くの島嶼が中華民国の支配下にある。こういった島嶼には人が住んでいないので、あまり知られていないが、燈台研究などではよくしられたことである)。他方、国家公園が現地の地域社会といかなる関係を形成するのかということも大きな問題である。特に建築物などの場合、地域社会の理解なくしてはできない。今回、国家公園+金門技術学院系統にいろいろセッティングしていただいたが、こちらのラインのほかに、金門県政府のラインもある。県政府の観光局には、彼らの考えがあり、事業がある。そうした意味で、国家公園と金門県との間で微妙な関係にあるが、現在は関係を改善中という。地域社会との調整については、「溝通」「協調」などといった言葉で説明される。つまり、相手に信用してもらい、共同事業化するしかないのである。今回、宿泊先となった珠山というところや、水頭などはそうした国家公園との共同事業で整備された街区である。
国家公園を出て、黄課長に水頭を案内いただく。水頭は、ボルネオ島への移民を多く出しているところである。洋館や見事な建築の小学校もあり、その小学校に展示が施されている。これらは、国立金門技術学院の江柏煒先生の協力で作成されている。興味深いものがいくつもあった。これらは僑郷としての金門の性格をよく示している。第一に、金門の各村の移民先が異なっていること、またその行き先などが明らかになっていることである。第二に、移民として父親、息子を送り出す側の家庭状況、特に女性の置かれる境遇について示していること、第三に、移民にまつわるさまざまな「故事」について紹介しているところであろう。第四は、華僑送金(僑匯)について、薬局、民信局が大きな機能を果たしたこと、などが展示されていたことである。このほか、洋館を見学する。東南アジアの植民地様式である。ある意味で派手な色使い(朱色、ピンク?)をしていたことをうかがわせる。意匠も興味深い。インド人のものなどもある。
道すがら、小金門が見える。ここも戦役に巻き込まれたが、自然などは金門本当よりも多く残されている。聞いたところでは、郷公所には823のときの文書が残されているという。これを利用すれば総動員体制がわかるであろう。また、これは後に江先生と話したことだが、金門では「戦後」という言葉の意味が台湾とは異なるという。だいたい戦後といえば823以後である。「台湾」との大きな歴史の違いがさまざまなところに残されている。
また、道すがら、選挙の宣伝を多く目にする。「国民党が有利なのでしょう?」と聞くと、金門の選挙は、そういったものではない、とのことであった。そういったものではない、というのは、何党かということはたいした問題にはならないという。問題は、「姓氏」だというのである。金門にはいわゆる単姓村が多く、黄氏、李氏などが、それぞれ代表を出したり、あるいは「姓氏」ごとに投票行動を決定するという。この点については、若い人たちはそうでもない、という話であるとか、あるいは選挙が出現してから、「姓氏」間の関係がしばしば緊張するようになったという話を耳にしたが、総じて政党<姓氏という傾向については一定であった。
空港に行き、学生たちを迎える。江先生の助手をしている陳さんも来る。彼の車で「民宿」へ。珠山地区にある。金門は、小金門を除くと四つの地区にわかれている。中心は金城。珠山は、島の西南に当たる。島の東部は池の水を、西部は地下水を利用しており、珠山あたりの生活条件はいいとされる。宿泊先の民宿は、清代以来の伝統的な建物。国家公園の支援もあり、きちんと整備されている。所有者は金門出身で、台北の官庁に20年近く勤めた方。行き届いた整備感覚。部屋も綺麗である。
陳さん夫妻とみなで食事に出る。食事の後、街を歩く。陳さん夫妻も、ある意味では「街づくり」の関係者で大変詳しい。金門の総兵署に。清代以来の役所。また、会館周辺には模範街もできている。砲弾でつくった金門包丁の店、金門高粱酒の店などが並ぶ。民宿に戻ってから、金門高粱酒の民国81年物を手に入れて、飲み始める。放談の時間となった。
11月12日(土)
朝、散歩に出る。老人たちと話をする。日本統治時代の話も。日本時代、日本兵がこの村にも来ていた。していたことは、アヘン栽培。村人たちも植えたという。日本人たちに売ると高く買い取ってもらえた。ここにおいても、日本兵は、後に来た国民党軍との比較の中で好意的に語られる。国民党軍は、半ズボンで、整列もできず…このあたりは台湾に似た「語り」である。1949年から1958年、国軍による「総動員」的体制が島にしかれると、副村長は国軍から派遣されるようになった。だが、一方で、胡l将軍の発案で高粱酒の生産が始まると、高粱を作れば高く買い取られるようになっていく(95年の開放当初は大陸からの密貿易で大量の高粱が金門に流れ込んだが、いまは島のものと東南アジアから輸入ものでまかなっている)。江先生は、国軍への強い反発がありながら、次第に国民党支持にかわっていく変容過程が面白いという。支配と抵抗、ではない論理がそこにはあり、そのうえで高粱酒は大きな役割をもったと考えられる。
朝食は、広東粥。金門のものは台湾とも異なる。無米粥とよばれ、米粒が見えないほど、煮込まれている。午前中は、「戦役」関係のところをまわる。翟山坑道、古寧頭戦史館、馬山観測站、823紀念館などをまわる。ラジオ関係から見ても、馬山の播音台でケ麗君が呼びかけをおこなったことが思い出される。昼食は牛肉料理を食べる。金門は牛肉の産地。これも国軍が来てからである。
午後は、陳先生夫妻と。莒光楼、次いで水頭へ。水頭は昨日と同じだが、建築の専門家といくと説明が異なる。さすがである。終了後、海岸で潮干狩り。何年ぶりか。ハマグリを採る。砂抜きが必要なので、今晩のおかずにはならないが・・・夕食は、金門から戻った江先生、国立公園の黄課長一家のいらして、みなでバーベキューをしてくださる。金門関係のさまざまなことが話題になる。途中で薛家の長老もいらして、日本時代、また一族のこと、戦争のこと、いろいろ話してくださる。とても興味深いことである。明日、夜来れば親戚が集まるから…とおっしゃってくださったが、とても残念である。
11月13日(日)
朝、民宿の老闆が珠山を案内してくれる。ここは、「薛家」。12月には家廟もあけるという。また、媽祖は、新しい神であり、ここでは別の神が祀られている。各地に823戦役の傷跡が残り、「阿兵哥」が滞在した跡が各地にある。ここはルソンに多くの移民を送り出している。そして、僑報と呼ばれる移民したひとたちや現地の人々を対象とした新聞を発行している。そして、それが現在も残り、整理されているところなのである。
江先生の研究室へ。途中、牧場侯祠に。唐代に牧場を開くために金門に来た人物を祀る。これが、金門の諸氏姓のアイデンティティの核となっている。海外の金門の同郷会も、この神を祀る。この祠の横には軍の施設がある。「軍中茶室」、またの名を「831」。いわゆる「慰安婦」がいたところである。1995年まで存在し、「人権」の問題などから撤廃されたという。神聖なる祠の横にこのような施設があることには反発が多かったが、この831がなくなるときには、地域社会からの反発があったとされる。それは兵と現地の女性との間に問題が発生することを恐れたからである。だが、一時は15万いた兵士も現在は5万以下。831の女性たちは、多くの場合、台湾から来たという。違法で捕らえられた娼婦などが、刑に服するか、ここに来るかということで、選択を迫られた局面もあったという。だが、彼らの中には兵隊と結婚し、その兵隊とともに金門に住んでいる人も少なくない。そのために、詳細な研究はなかなか発表できない面もあるようだ。このような831は、金門各地に存在し、馬祖にもあったという。台湾本土にはなかったとされる。
国立金門技術学院に。新しい大学だ。金門県からも相当の支援があり、海外華僑にも募金しているという。ここには閩南文化研究所をつくり、修士課程を設けている。建築史がご専門の江先生の研究室で、珠山で出している僑報や薛家の家譜を見せてもらう。来年早々にはCDを購入可能になると思われる。この新聞には、衛生問題、また移民方法など、さまざまな記事がある。海外の会館も、比較的裕福なものが入る「会館」と、苦会向けの「公会」双方があり、いまは一緒になっているという。各地の金門からの移民者は、台湾ではなく、大陸を向いている。このあたりは面白い。移民は、1937年からの日本占領時代に下火になり、戦争が始まり、国民党政府の管理下におかれると、移民先はむしろ「台湾」になっていくが、現在でも世界の金門からの移民者との関係は続く。各地の金門会館の資料もあった。
空港へ向かう。
金門が特別な地区でなくなり、一般にも解放されたのは、1990年代半ば。90年代前半までは、金門の通貨と台湾本島のそれとは異なっていた。いま、金門県政府は高粱酒からの収入で、比較的潤っている。また、人々は小三通で頻繁にアモイに行き、当地に家を買っている人も多いという。だが、全体的に見て、まだまだ「発展」という観点からは難しいところも多く、若い人は台湾に行ってしまう。だが、一方で文化などを保存して金門的特色を維持しつつ、持続的な発展をしていくことを模索しようとする方向も強い。アイデンティティから見れば、第五の族群とも言えるだが、人口5万前後では、影響力も大きくない。研究の面でも、果たして金門研究は台湾研究なのか、中国研究なのか、という問題もあろう。
金門空港で石田浩先生に会う。台北の空港に着くと、中興大学の蔡東傑先生が迎えに来てくださる。本を渡してくれた上に、木柵まで送ってくれる。
文化大学の李朝津先生から連絡。ずいぶん前に翻訳された「方法としての台湾」という拙稿がまもなく公刊されるとのこと。李先生と食事をする約束をする。帰宅後、ネットを見ていて、先日の抗日戦勝勝利六十周年のことが報道されていて、新聞などに小生と水谷尚子が参加したことが生地にされていたことを知る。また、中国の『抗日戦争史研究』(2005年1月号)において、李恩涵先生が書いた文章が眼にはいる。内容は日本の台湾への「野心」への警鐘。日本台湾学会のことが大きく取り上げられている。小生の名もある。松田康博さんが防衛研究所の職員であること、また日台交流センターが助成していることから政治との関係が指摘され、また沼崎一郎先生が台湾でおこなった報告などが取り上げられ、そこにおける意識が問題とされている。ただ、一番最後の産業で、いまのところ日本台湾学会は純粋に学術的なようである、としており、さらにもしその範囲からはみ出してきたら、われわれは断固として抗議しなければならない的に締めくくられる。李先生の言論はやや激しいところがあるが、今回もなかなかのものである。だが、何も知らない人が見たら、本当にそう思うかもしれない。
11月14日(月)
午前中、大学院生のゼミの補講。学生の報告会。上海の族譜に関するもの。上海市図書館で族譜を収集し、その形成などを追ったもの。「革命」という用語から民国初期の思想を追求しようとするもの。堀内次雄と台湾の医学教育。近代中国の外交官の変遷に関する分析。抗日戦争初期の在華日本財産の保護について。朝鮮半島における華僑に対する汪政権の政策。興味深いものが並ぶ。予定の時間を大幅に過ぎてしまい、13時までかかる。4時間、休みをとらなかったのできつい。終了後、学生たちと弁当をたべる。
午後は中央大学の報告準備。夕食は黄自進先生と二人で。三次会まで行く。途中、日文研の白幡洋三郎先生から電話。ちょうど、日文研のことなどを黄先生と話していたので驚く。白幡先生には北京以来お世話になっている。博士論文の審査委員の依頼。お引き受けする。
11月15日(火)
授業。日中の教科書を提示しながら、授業する。終了後、明日の中央大学の報告の準備をする。12時から補講。今度は、日中関係史の構造について、政治外交部分と友好史に関する部分について。夕方、何とか準備を終え、食事に出る。政治大学歴史系の教員・学生の交流会は欠席する。
呂紹理さんから新著を受け取る。博覧会に関するもの。興味深い。
11月16日(水)
朝、早起きして師範大学での報告準備をする。
朝からゼミ。議論の点は多い。上奏のシステムなどについて説明する。政治大学は意外に明清が弱いのでは?と思う。終了後、明日の師範大学の報告の準備をし、終えてから台北駅に向かう。
中壢へは、ほぼ一時間。近頃は鉄道の遅れが多く指摘されているが、時間通りに付く。寒い。鄭政誠先生が迎えに来てくれる。今回は彼の招聘。報告は戦後日本の台湾研究について。前回の国家図書館での報告に、いろいろつけくわえたもの。先生方は多くないが、現代中国研究者の斎茂吉教授と知り合えたことは収穫。学生は20名弱。終了後、近くのレストランで宴席。客家料理。このあたりだと客家料理が多いのか。1996年に中央大学に泊まりながら10日近く復興郷で調査をしたころと、あまり変わらぬキャンパスであった。ちょうど、大陸からミサイルが飛んできたときである。懐かしい。
台北まで鄭先生が送ってくださる。
中壢の選挙の様子などを尋ねると、何とも言えないという。台北では、民進党の圧倒的不利が話題になっている。だが、台北の様子は台湾全体を見る場合には当てにならない。また、選挙前の「読み」は多くの場合、あたらない。民進党は、選挙の重点を台北県に置き、ここでの勝利を目指すという話もある。また、陳総統に任期最後までやらせられるのかという根本的疑問(辞任すれば呂秀蓮副総統が総統になる)まで出てきている。陳哲男の韓国チェジュでの賭博疑惑などは、確かに陳政権にとって打撃になっている。馬英九からスキャンダルを引き出すのは難しかろう。…しかし、だからといって国民党を圧倒的に支持するという雰囲気にもならない。「民進党はいつまでたっても野党気質が抜けず、国民党は野党の癖に与党のように振舞う」、「結局のところ、民進党は選挙のプロの集団、政治行政、外交はできない」、「阿扁は炒作ばかり、でも国民党は党産を売って商売している。連戦の欲深さはひどい。党幹部への給料の支払いでてんやわんやだ」…いろいろなコメントや批判が渦巻いている。
山本武利先生からメイル。岩波の「近代日本の学知」の原稿について、削るように求められる。でも、それ以外大きな改正点はありませんというコメントに安心する。白永瑞先生から12月にあるソウル大学の国際シンポのパネルに招聘される。しかし、北京大学での報告と同日。残念だがお断りする。
11月17日(木)
朝、学術論文の査読を終えて、送る。読みにくい論文であった。まだ査読がおわっていないものがいくつかある。月曜日の学生の報告会で話題になった堀内次雄について、関連資料を調べる。また、「革命」思想の研究についても調べる。小島佑馬、島田虔次、小野川秀美、野村浩一、近藤邦康、丸山松幸、狭間直樹・・・先学の業績を目録化していると、またあらためて読みたくなる。これらを学生に手交して参考にしてもらう予定。
名古屋大学出版会の『東アジア国際政治史』のテキストの原稿チェックを始める。チェックというよりも大幅な修正になる。今年のサントリー学芸賞をとった岡本隆司さんの『属国と自主のあいだ』が出たことにより、朝貢システム論によって、清末を説明することが困難になる(そういえば、今年のサントリー学芸賞は、また名古屋大学出版会から三点はいった)。このところ、岡本さんの本を再読していたが、本当に再考を迫られることが多く、とても勉強になった。というよりも、いくつかの原稿の書き直しの必要が生じた。
ラジオ論文集原稿、また1−2月のシンポの論文集の校正作業も平行しておこなう。
午後は二時ごろ師範大学に。師範大学周辺には、学生街が形成されている。なぜ政治大学にはそういったものが形成されなかったのか。不思議である。2時40分に呉文星先生と待ち合わせ、歴史学系へ。いまの主任は林麗月先生。十年以上前、岸本美緒先生のゼミでご一緒したことがある。会場には大学院生50名程度。テーマは「戦後日本の二つの中国政策と台湾観」。学生からの反応もある。やはり師範系統は、とても国民党教育の影響が強く、カイロ会議の意義、台湾の法律上の地位など、質問が出る。終わった後は呉先生らと食事。
11月18日(金)
国際政治学会のために帰国。
空港近くが異様に渋滞している。新幹線の駅が近いためか、工事車両が多い。朝一番の9時10分の日本アジアも混んでいる。新聞では、APECでの林信義の発言が比較的大きく取り上げられる。独立国であることを主張している。ブッシュが台湾を民主的であると認めたことも追い風。中国が民主化途上だとされたのでなおさら。また、中央信託局と台湾銀行の合併が伝えられる。資産三兆台湾元。そして、台湾経済についても、楽観論が出始め、年率4パーセントをこえる成長が試算として出される。日本の影響もあるだろう。胡耀邦の生誕九十周年も一部に触れられている。
機内でラジオ論文集の校正を終わらせる。
到着し次第、神保町の勉誠出版に向かう。貴志俊彦・川島真・孫安石編『戦争・ラジオ・記憶』(勉誠出版社)のゲラがあがってきたので、その編集会議であった。なかなか、面白い論文集になってきていると感じる。民雄のことを話題にする。また、ユビキタスのことも話題に。メタデータの可能性は大きい。
札幌は寒い。霙がぱらついている。
自宅に着くと、『アステイオン』が届いている。「『共通敵』のない時代」(<特集 米中関係−中国は『超大国』になるか>『アステイオン』63号、2005年11月、P.34-59)が掲載されている。
11月19日(土)
朝、子供の学習発表会を見てから、札幌コンベンションセンターに向かう。
国際政治学会、アジア主義の行方の部会。戦後までを見通した「アジア主義」の議論はもっと進めるべき。日本史的にあまり収斂されないほうがいいのだが…いずれにしても、脱帝国化との関係も深い。途中で抜け出して、12月9日の北京大学の会議の原稿をつくり、発出する。昼は国際政治学会の分科会会議。なんとか分科会全体の代表幹事になることは防ぐが、歴史関係のAブロックの幹事になってしまう。ローテーションで致し方なし。
13時半から官庁の聞き取り、14時半から北海道大学の学生たちとの面談。途中国分良成先生と会い、幾つか仕事を「頂戴する」。こちらも固辞はしなかった。学生たちの論文、なかなか進まない。夕方、すすきののすし屋で明日の東アジア国際政治史分科会の懇親会。岡本隆司さん、本野栄一先生、茂木敏夫先生、そして院生のひとたち。10名。終了後二次会。
11月20日(日)
午前中、コンベンションセンター。国際政治学会、東アジア国際政治史分科会。岡本隆司、箱田恵子両氏の報告。司会は茂木敏夫氏、コメントが片岡一忠先生と小生。内容的には、岡本さんが出使日記、箱田さんがビルマと雲南の国境交渉における薛福成。箱田さんの言う、薛のパフォーマンスとしての「文明国化」は興味深い。共感できる。また、岡本さんと議論しながら、『清朝外務部の研究』を書かねばならないと決意する。
終了後、新札幌経由で空港へ。岡本さんと食事。羽田到着後、横浜へ。久しぶりに両親、兄弟と過ごす。
11月21日(月)
家族を連れて、空港へ。台北に着き、ホテルにチェックインしてから、少し休んだらもう四時。今日は何もせずに食事へ。黄自進先生のご家族と。
11月22日(火)
朝授業して、ホテルに戻り、故宮へ。何度見ても面白い。職工図などは世界観を示す。仏像のコレクションには日本のものも。いつ購入したのか気になる。廃仏毀釈の時期?ブックロードだけでなく、日本の骨董なども中国に流れたのか。故宮のあと、龍山寺へ。海軍の軍人であったというお爺さんに占いの方法をちゃんと教えてもらう。占いの流儀は、人によって違うことを言うことがある。
ホテルに戻らず、木柵の自宅に戻る。少し休んで政治大学歴史系の宴会。家族も参加。
台湾大学政治学科に来週の講演のレジュメを送る。
11月23日
午前中授業。日記を読むが、清末の北京駐在の公使たちが、皇帝に林檎を送っていることなど、よくわからないことが多い。ホテルに戻り、家族を連れて、101に。展望台に上る。雲で何も見えない。午後は彼らをエステに放り込む。夕方、中央研究院の近代史研究所の面々と宴席。馬祖のとても美味しい高粱酒を張力さんがもってくる。これは民国81年物の金門高粱よりも全然上。飲みすぎたので、ホテルで休む。
11月24日(木)
家族を空港に送り出して、家に戻る。審査論文結果を発出。
また、12月10日の民雄の件、今週末の宜蘭の件などを手配。研究室で、来月の中央研究院台湾史研究所での報告準備をする。これと、近代史研究所のレジュメが終われば、年内の報告については作業が終わる。戴国W先生の「台湾」(『アジア経済』100号、1969年7月)を読み直す。この論考は実に面白い。戦後日本の台湾研究を理解するうえでは必読の文献である。
午後から国家図書館に。国史館主催の「台湾1950−60年代的歴史省思−中華民国史専題第八届討論会」というシンポへ。14時に李明峻さん、今度北大に留学する学生たちと。日本人の院生を家庭教師として紹介。会議では、第四場で報告。李明峻、頼怡中さんたちと同じセッション。報告内容は、「1971年以前日本的二中議政」。コメントの許慶雄さんは、自説を展開。選挙前でもあるし、なかなか難しい。
香港の珠海学院にメイル。1月8−10日の会議に出ることに。次年度の「両岸三地+2」の大学院生会議のために、行かねばならないと考える。ただ、会議のテーマが<非政府組織,志工團體與現代社會>。何を話していいものか。何か国際協力的なことでお茶を濁すしかなかろう。
国民党の創立111周年記念。記念式典に連戦が招待されず。馬英九も王金平も「なぜだかわからない」という。選挙は、国民党有利で進んでいる。焦点の台北県は、羅文嘉が苦しい戦い。『自由時報』は誤差範囲だと強調するが、周錫瑋支持者が羅支持者を5パーセント以上上回っている状態。台中市の林佳龍は、胡志強に勝機を見出せない状態。胡の健康不安説もいまのところは空振り。台南県では、台聯が国民党支持を公然と表明。国民党の郭添財が民進党の蘇煥智よりも支持を集めているとさえ言われている。だが、蘇もまた国民党系であった「農漁会」を引き剥がして民進党支持にし、また現職県議会議員の7割近くからの支持を得ている。そうした意味では激戦である。台南市では、決して国民党有利ではないのだが、そもそも民進党の許添財と台聯の林慧君の間で調整ができず、それが基隆市での分裂にも波及したという経緯がある(嘉義などではうまくいった)。このあたりがいかに影響するかが問題である。
総じて言えば、首長選挙で民進党が比較的有利かもしれないと思われるのが、嘉義県、高雄県。国民党やや有利が伝えられるのが、台北県、宜蘭県、嘉義市、基隆市。膠着状態にあると思われるのが、雲林県、南投県、彰化県。国民党側は、現在首長の席を有している8県市のほかに、嘉義市、宜蘭県、台北県をその勢力範囲に収めようとしている。そのほかの県でも国民党有利とされる地域が多い。今回の選挙は、来年の台北、高雄、再来年の立法委員選挙に大きく影響する。もともとあった陳水扁政権への批判票、そこに陳哲男案の影響、また中国と接近しようとした連戦をスケープゴートにしつつ再生イメージを強調した馬英九・国民党。国民党有利の状況が続いている。
11月25日(金)
久々にアポがはいっていない一日である。台湾史研究所での報告レジュメをつくりつつ、2005年1−2月のシンポのゲラを整理、校正し、また講談社の雑誌の校正もおこなう。結構時間がかかる作業。
作業を終えてから郵便局で発出。午後は、台湾史研究所での報告原稿をつくり、夕方なんとか終了。鍾淑敏先輩に送って見てもらう。残るは、近代史研究所でのラジオ関連の報告原稿である。夜、以前、北大に留学していた学生たちを誘って食事に行く。
11月26日(土)
宜蘭に。目指すのは頭城。バスで向かう。海岸線を抜けていく。貢寮までもが「台北県」であることに驚く。台北県は異様に広い空間である。頭城に行く目的は老街。日本アジア航空の『アジアエコー』などで紹介されている。日本統治時代の1924年まで、この頭城は水運で栄えていたが、巨大台風が来て土石流が来て、その川をせき止めたために水運が途絶え、街も衰退していった。ちょうど、鉄道が開通する直前であり、なんともいえない自然災害である。だが、その東部鉄道が開通するまで、東部の交通は水運中心であったのだ。頭城に10時ごろ到着し、和平街へ。十三行、盧家の邸宅などがある。盧家の前の池にかろうじて「水運の街」の雰囲気が残る。もう少し、早い時期に保存がされていれば、と思う。他方、この頭城は依然活気がある街である。政治的には「藍」が強いことは明らかだが、物資の集積地としての役割はまだ残っているのではないかと感じさせた。ここで昼食を摂ってから、電車で礁渓へ。礁渓は温泉街。清末以来の古道がある。日本統治時代の派出所あとも。原住民の世界との境界という意味もあったのではないだろうか。
礁渓駅付近の茶屋に入り、ご主人と小一時間話をする。この地域は茶の名産地。他方、政治的には国民党の地盤。郷長選挙も、結局のところ国民党だけである。基本的に、未だに地方の競う選挙は国民党有利である。特に北部や東部、山間部であればその傾向は顕著である。民進党が2000年の選挙で勝てたのは、国民党が二分されたからである。地方選挙はまだまだ国民党。2004年の総統選挙であっても、民進党はかろうじて半分。立法院であっても、民進党は第一党とは言っても、過半数にはほど遠い。まだまだ国民党が強いのである。そうした意味で、民進党政権の基盤を過度に評価してはいけないし、国民党を過大評価してもいけないだろう。だが、総統選挙ならいざ知らず、こういった基層選挙は国民党が歴史的に形成した地盤が機能する。宜蘭は、県長は民進党が基盤としてきた。だが郷長は、国民党が目立つ。
この日、宜蘭も激しい選挙の攻防戦。国民党は馬、民進党は陳、謝ともにはいる。激戦区となっている宜蘭。民進党の地盤が揺らぎだしている。郷、鎮レベルから選挙を見ると、違う側面が見えてくる。陳哲男の件は民進党にとって予想以上の衝撃だろう。ここ宜蘭でも、国民党の勝利の可能性が示唆される。屏東県、台南県などでも、民進党と国民党とのバトルが続く。
少し休んで「古道」へ。光緒年間にできた路。台北に抜ける。派出所跡も。漢族の世界と原住民の世界の境界に日本時代の派出所跡があるという面も。
11月27日(日)
チェックアウトをして、電車で宜蘭へ。雨が降り出す。駅から一時間以上歩いて宜蘭県政府に。県史館に行き、いくつかの文献をチェックするが、とてもいい資料館である。1924年以前の地図を見ると、頭城は確かに水運の中心で、南北と山間部の結節点として重要な位置を占めていることがわかる。頭城には小学校もあり、多くの日本人が学んでいた。
昼食をすませて鈍行で台北に戻る。松山で降りて、学生と食事をする。
11月28日(月)
朝8時半から補講。大学院生の報告会。台湾における代書人、1950年代の台湾思想、六三法や台湾統治の政治理念の問題、フランス革命の問題、閻錫山、東亜同文書院、教科書問題など多岐にわたる。終わったのが14時。5時間以上かかった。
そのあと、メイルの処理などに追われるが、五階のテラスで学生とタバコを吸っていると、黄福慶先生がやってきて、東南アジア旅行の話をしてくださる。海外華僑協会の活動の一環として、鄭和の600周年を記念した行事に参加されたのである。
夜、台北大学に移られた李朝津先生と食事。湖南料理。酒井直樹先生の学生時代のこと、台湾の学界状況、そして香港のことなどをうかがう。
11月29日(火)
朝から授業。学期末の評価について説明する。また、中華人民共和国における歴史の語られ方など。11時半から卒業写真の記念撮影。こういった行事に参加するのは今回ならでは、である。また12時から補講。1900−1920年代について話す。
授業終了後、大学のネットワーク環境が悪いので、自宅に戻り、サントリーの出版助成の申請書、神奈川大学の雑誌から依頼されている書評原稿を書く。申請書はなかなか面倒である。出版にいたる手続きや、必要となる書類が日中で異なるので、どういう書類が必要なのか、そこから説明しなければならない。
18時半、仁愛路にあるレストラン、上海郷村で宴席。弁護士の方、有名なアメリカの大学の教員など。宴席の主たる目的は、小生が拙著を送った方の奥様が、拙著でも登場する汪栄宝の孫にあたるので、小生とその方を会わせようということにある。たいへんありがたいことでもあり、また同時に緊張するものである。汪栄宝は1920年代に駐日公使を務めた。その叔父は、日清戦争当時の駐日公使である汪鳳藻である。汪栄宝は若いころに清朝の憲法の起草にかかわり、ベルギー公使などを歴任している。そしてその子息のうち3名が、戦後中華民国の在外大使となる。筆者は汪公紀(この方は大使にはなっていないが、外交部に勤務していた)の千金である。汪公紀夫人は、かつての駐神戸総領事の任氏。外交官一家である。汪家は徽州商人の系統。蘇州の拙政園の脇に豪邸があったという。話は、汪鳳藻が戦争開始後に帰国して西太后にどのように罵られたか、また関東大震災のときの駐日公使館状況、汪栄宝の日本語能力など多岐にわたる。実に有意義な時間であった。
この日は早く、九時前には帰宅でき、ごみも出せる。
奇妙な報道が流れる。『聯合報』が突然、これまでの民意調査は信じられない!と報じたのである。無論、これからも民意調査はあてにならない!と報じた。これは大変なことである。というのも、『聯合報』こそが、その調査を主導し、利用してきたのだから。『聯合報』の議論では、要するに「緑」系の人々は、『聯合報』と聞くだけで本当のことを言わなかったり、無回答になったりする、というのである。しかし、そのようなことは今に始まったわけではない。現在、その民意調査では国民党が圧倒的に有利な状況にある。そこで出た『聯合報』=国民党系の報道は、大きな波紋を広げている。そして馬英九も、民意調査は信じない、と発言。さらに呂秀蓮までもが、「今回は藍軍が有利」といったような発言をした。こういった「遊戯」は興味深いが、投票までまだまだ何かがあることを感じさせた。現在のところ、高雄県、台南市県は民進党。そのほかは微妙。以前聞いた、民進党としては総力を台北県に注ぐということは本当のようである。現在のところ羅文嘉は不利だとされるが、民意調査が虚偽ならばどうだかわからない。メディアも全て「緑」「藍」に分かれているので、中間が弱くなっている。TBVSが期待されたが、中国の関与が指摘され、いまでは期待が薄まっている。台北市内でも、台北県のための活動が見られる。昼間は有権者が台北市内にいるためであろう。焦点の一つの宜蘭は、週末にいった頭城などの北東部は、圧倒的な国民党の地盤という。ちょうど、国民党の地盤を歩いたわけである。まだまだわからない、という話が宜蘭も含めて出ている。しかし、陳哲男案というパンチの効力は未だにある。また新幹線をめぐる民進党側の汚職の話も効いている。国民党側は、大きなスキャンダルがない状態にある。連戦に全てを着せているからだ。連戦は自らの財産を上海に移しているという噂があるほどだ。いまのところ、民進党系のひとびとは、こういった汚職とされているものは、もともと国民党がそういったシステムをつくったからであり、また陳哲男もまた国民党から民進党にはいったもので、国民党の自爆テロであるとさえ言っている。ただ、陳を強く推薦してきたのは陳水扁ではなくて李登輝。逆に李登輝の地位を下げる昨日も果たしていることは忘れることはできないだろう。
11月30日(水)
朝、ゼミであるが、その前にサントリーへの申請書を作成。ゼミでは、1904年11月が終わる。
終了後、師範大学の学生の修士論文出版計画について相談。汪政権の対朝鮮華僑政策というきわめて興味深いもの。
サントリーの書類を作成。茅海建先生からも見積書が届く。12時には何とか発出できる。
またネット状況が悪化したので自宅に戻る。しかし、自宅でもだめである。
18時にシェラトンで陳鵬仁先生と待ち合わせ。バスに乗って、信義路へ。馬樹礼大使のご自宅へ。今週は「外交世家」めぐりである。馬先生は97歳。耳がやや不自由だが、お元気そうである。あまり多くお話はできなかったが、日華懇の成立をめぐるところについては、灘尾、藤尾らの名前を挙げられて、はっきりと話された。日華議員懇談会の成立は、実質的に馬大使が深くかかわった。陳鵬仁先生からも関連するお話を多くご紹介いただく。馬大使の『使日十二年』は日本語訳の途中である。また馬大使が、インドネシアに駐在しておられたこともあり、『インドネシア革命史』という本も日本語訳され、もうすぐ出版される。これは、1950−60年代のインドネシアをめぐる両岸の関係を知る上で極めて貴重な著作となろう。
終了後、台湾の政治家が数多く利用するワインレストランに。そこのご主人と政治談議。
12月1日(木)
台湾滞在もあと一月となった。選挙まであと二日。熱気、というよりも、中傷合戦が熱を帯びてきた。政策論議はほとんどない。不正、汚職をめぐる論戦が中心である。馬英九は過半数がとれなかったらやめると言っている。林佳龍は、だいぶ支持をとりつけて、盛り返してきていることを強調している。羅文嘉も、支持者が国民党と拮抗していることを強調している。だが、1票150元で買ったとして攻撃され、涙ながらに否定していた。台南には李登輝が、基隆には宋楚瑜が登場。23の県市のうち、おそらくは15弱を国民党がとるだろうと予想されている。もともと、社会から組織を通じて動員するという選挙を民進党はしてこなかった。南部ではもちろん強いが、組織選挙というよりも、アイデンティティをからめた動員選挙である。それだけに総統選挙では票をずっと伸ばしてきた。立法院でも第一党となった。だが、基層選挙となると、まだまだであろう。アイデンティティ動員はきかないことが多いし、小さな郷にも組織をもっている国民党に対しては対抗手段がないことが多い。今のところ、台南県市、高雄県、嘉義県、雲林、屏東、彰化などが民進党有利といわれており、宜蘭、台北県、苗栗、南投、嘉義市、澎湖などが拮抗しているとされている。そのほかは、国民党有利ということである。
午前中、書評原稿を書き、昼前に台湾大学へ。社会科学院の政治学系で報告。ランチョンである。教科書問題についての話をするが、先生方の議論も面白かった。終了後、南門市場へ。ここは、外省人の世界。夜の宴席に「考菜」をもっていきたいので買いに行く。上海料理であるが、これは「考菜」を紅焼的につけこんだもの。台湾にはあまりないのであるが、上海から来た人々がきっとほしがるはずであると思い、先日、例の外交官の汪家の方にうかがったら、南門市場にあるというので、きてみた次第である。だいぶたらいまわしにされたが、結局見つけることができた。
そのあと自宅に戻り、原稿を書き、台湾大学に来ている永吉さんに資料を渡して、学生たちとのみに行く。高級高粱酒を飲む会であったが、途中からの記憶が確かではない。
12月2日(金)
選挙の前日となった。羅文嘉が優勢になってきた。逆に150元の事件が大きい。もともと客家である羅文嘉。この150元の事件でも、客家関係の組織がかかわったかのように言われたため、客家は国民党にいれる可能性は激減するという観測。台中の林佳龍も急速に盛り返してきた。可能性がわずかだが、でてきた感じである。台南市・県、高雄市は固いとして、このほかの台北県、雲林、嘉義県、宜蘭、屏東あたりで優勢となり、澎湖、南投、彰化あたりで拮抗、台中などで可能性が出てきている状況である。ここにきて民進党が急速に追い上げてきた感じである。毎回の選挙がそうだが、民進党のほうが国民党よりもピーキングがうまい。国民党は選挙前一週間にピークを迎え、そのあとに落ちていく。民進党は、選挙直前にまだ伸びそうな雰囲気にもっていく。このあたりの差は今回も見られている。現在、民進党は23のうち9県市で首班となっているから、10で勝利、ということになる。しかし、いずれにせよ、台北県で負けたら民進党はたいへん厳しい状況に追い込まれる。羅文嘉はなんとか勝たせたいであろう。
今回の選挙を総括すると、(1)政策的な問題は焦点になっておらず、スキャンダル選挙となっている。これは、統独問題、アイデンティティ問題を避けた結果であろう。(2)連戦、李登輝、宋楚瑜の出番がなくなり、世代交代が決定的となった。(3)国民党が地方組織を依然しっかりと有しており、民進党はそれがないために弱みなっていることが改めて確認された。こういったことになろう。
午前中、原稿を書き、午後に大学に出る。五時に日本の記者の人と待ち合わせて食事。そのあと、二次会で行った店で李明峻さんに会う。11時過ぎまで彼と話す。板橋の「造勢」、三重の「造勢」に行った友人と話す。やはり民進党のほうが優勢らしい。…明日、行政院副院長の家に招待されることに。
12月3日(土)
官庁から台湾での選挙に関するレポート提出依頼が数件来る。JIOAでの講演の依頼など。いつの間にか一月のスケジュールが相当うまってきている。東大社研のシンポ、東大文学部の多分野交流など。朝、神奈川大学の人文研究所の紀要に掲載する書評がようやくおわる。楊艦『近代中国における物理学者集団の形成』(日本僑報社、2003年、187頁)という本の書評。母方の祖父であった坪井忠二は、寺田寅彦の弟子で、地球物理学者であった。1982年に亡くなったが、亡くなる前の日、中国から来た学者たちと会っていたと聞いた。本書で取り上げられた学者たちと会っていたのであろうか。
清末の外交官である張蔭恒の曾孫が台北にいて、かつて大阪の代表処に勤務していたことがわかる。何とか紹介してもらう方向で依頼する。
12月17日に中央研究院近代史研究所である「戦争と生活」というシンポにおける原稿の作成に取り掛かる。清華大学の当代中国研究センターからも講演の依頼。やっと今年は終わりかと思ったところで一つ増えた。
午後、開票が始まる。どのテレビ局が一番頼れるのか、前回の総統選挙は「民視」が一番正確であったためか、今回は「民視」への支持があるように思う。午後4時半、呉栄義・行政院副院長のご自宅(官邸)に。民進党の若手ブレーンが集まっている(台湾大学の同級生集団でもある)。選挙結果速報を見ながら、議論をする会。こちらからは一度だけ、国民党は組織選挙をしているが、民進党はアイデンティティ動員に頼るしかなく、今回のような基層選挙では弱いのではないか、と発言。「いや省籍矛盾はそれでもある」との声。6時前に、別の約束があるので、先に失礼する。まだこの時点では惨敗という感じではなかった。午後9時、ほぼ大勢が固まり、羅文嘉が敗北宣言。挫折をすることで政治家は大きくなる、と発言。民進党は、台南市県(ここでさえも対象というわけではなかった)、高雄県、嘉義県、雲林県、屏東県の6県市のみ。台北県、宜蘭県などを喪失、歴史的な大敗北となった。蘇貞昌・謝長廷・遊錫堃らが民進党本部で釈明会見。一部の引責辞任は必至。場合によっては陳水扁にも及ぶ可能性がある。国民党は勝利に歓喜。今回の結果は、来年の台北市、高雄市長選挙に直接的に影響することになろう。民進党の敗因は、陳哲男案、高捷安、非常光dieのこともあるが、全般的に陳水扁政権の政策に対する否定的な評価だとも受け取ることができよう。選挙戦略としては、やはり基層選挙において、アイデンティティ動員が封印された状況では打つ手がなかったというところだと思われる。組織強化が求められよう。国民党の勝因は、陳哲男案などで民進党を攻撃しつつ、馬英九と王金平が分裂することもなく、連戦をスケープゴートにしながら、中国との統独問題にふれず、新しいイメージを提供しつづけたことにあろう。また、得意の組織選挙を展開したこともある。恐らく、海外メディアなどは、五月にあった連戦や宋楚瑜の訪中と今回の選挙結果を絡めた報道をするだろうが、それはまったくのミスリーディングであり、そうした統独問題に過度にひきつけた報道をすることこそが、危険を増徴する効果しか果たさないのである。むしろ、連宋の訪中は国民党に逆利用されたし、連宋をスケープゴートにし、李登輝を含めて世代交代が決定的になったのである。中国も(地方選ということもあり)今回の選挙に介入したり発言したりすることを徹底して差し控えていた。
12月4日(日)
民進党惨敗報がかけめぐる。2000年に陳水扁が当選した際に、「早すぎる」という声があった。経験不足、あと四年外国などで勉強してから…という懸念であった。この懸念は正しいものであったのかもしれない。そうした意味では、羅文嘉も、林佳龍もいい充電期間を得たということになろうか。民進党には、50代のいい候補がいなかったとも言える。今後のポイントは、今後の数年間に、国民党が調子に乗って中国との関係を何とかしようとするかどうかにある。馬英九や王金平は、中国との関係を言い出すと省籍矛盾に火をつけるので言わないだろうし、暴走しないと思う。だが、連戦はじめ、一部の老人たちは今回の勝利を勘違いする可能性がある。そうすれば、省籍矛盾を利用する民進党に勝機が出る。他方、民進党は内部崩壊しないように、若手のブレーンが支えないと、空中分解してしまうようにも思える。そして、最大の爆弾は、アメリカが第二のニクソンショック的な行動をとることである。中国政策を根本的に(テンポラリーにであれ)変更し、日米安保などよりも中国重視に移行したとき、新保守主義を放棄していない小泉政権も、また台湾も大変大きな危機に直面することになる。そうなると、国民党に圧倒的に有利な状況になる。中華民国はそもそも議会専制的な要素をもつ国。総統でも議会をおさえられない。2007年の新制度の下での最初の立法院選挙まで、議会での第一党である民進党も過半数が確保されていないので議会運営ができない。そうした意味では、当面国民党優位の状況になるのかもしれない。民進党は、国民党末期に混ざっていた社会における水と油を、極力分離し、それを利用してきた。それが逆にアダになるようなことになってしまうのであろうか。
他方、地域的に見れば、「南緑北藍」の形勢はかわらない。前回、濁水渓を越えた「緑」だが雲林まで押し戻された格好である。また、鎮市選挙について見ると別の方向性があることに気づく。実は市郷、県議会レベルの議席を見ると民進党が増えているのだ。他方、基層レベルでは高雄県などでも、市鎮は依然として国民党が強い(10対9)。少しずつ、国民党が基層の基盤形成を進めているが、国民党の地盤にまだまだかなわないということだろう。地方派系については、宋楚瑜の有していた系統が、ほとんど国民党に吸収され、再編がおわった、とも判断できる。
総じて言えば、2000年以後の民進党勝利は王朝交代ではなく、台湾政治の「民主化」なのであり、国民党が政権を取り直すことも有る、ということをあらためて確認できたということが、第一にある。第二に、今回の選挙は決して五月の連戦、宋楚瑜による訪中の連続性の下に語られるべきものではなく、むしろ両者の路線を否定した上で、あらためて新党首である馬英九をたて、2008年への道程を明確に示した国民党が、連戦らをスケープゴートにして、大陸との関係や統独問題、またアイデンティティ問題に触れない状態で、民進党の腐敗と問題を糾弾しつつ得た勝利だということである。五月の延長上にこの勝利を位置づけ、すぐに大陸政策がどうかなどと考えるのはいかがなものであろうか。第三に、今回の票は民進党への批判票、「教訓」を民進党に与えるという要素が強いということである。ただ、議会運営が十分にできない中で、これはあまりに酷だということもあるが、民進党政権へのいらだちの表れ、だと見ることもできよう。「教訓」を受け止め、どう改善するのかが問われている。第四に、世代交代をあげることができる。李登輝、連戦、宋楚瑜という時代を築いた人たち、また実は陳水扁もまた、その神通力を失っていることを印象付けた。陳の総統の地位そのものに対する疑問も提起されるかもしれない。第五に、この結果として、陳水扁の求心力が急速に失われ、民進党はポスト陳の見通しが立たないまま、来年、再来年の方向付けをしなければならない。台北市・高雄市長選挙、再来年の立法院議員、それをどう戦うのか。陳総統、呂副総統を出している正義連戦系と、新潮流系の争いも指摘される。謝長廷の福利国連戦系は
正義連戦につくであろう。新潮流の呉乃仁らの立場は苦しくなるのではないだろうか。民進党は、党内の調整をあらためて迫られることになる。第六に、国民党は、この大勝によって、中国大陸との関係を変えようとした瞬間に支持を多きく失う可能性をかみしめずに、もし馬英九が親中路線を提示したら、まさに民進党の思いのままになっていくことであろう。ここが国民党の我慢の政治が求められる所以である。ここで調子に乗れば、間違いなく、破綻する。連戦らをスケープゴートにしたという事実を忘れてはならないだろう。第七に、国民党が地方派系の再編に比較的成功し、民進党はその地方地盤の弱さを露呈したこと、総統選挙で濁水渓を超えた民進党も、基層社会では戦いにならないのである。特に客家地域での敗北はあまりに大きい。他方、台北県での敗北は今後二年間の選挙に大きく影響することになる。これをいかにカバーするか。問題となる。
一日、市内を散歩して歩く。中正紀念堂、国民党本部、龍山寺、忠孝東路などの繁華街を歩く。街は比較的落ち着いている。総統府周辺も各地の物産を集めた経済部のイベントがあるだけで静かであった。
12月5日(月)
午前中、何とか中央研究院近代史研究所での報告原稿を仕上げる。今回も翻訳をお願いする。次は…岩波のラジオ原稿の圧縮である。ちょうど岩波から催促がきた。『中央公論』に今年書いた文章のスペイン語訳が公刊された。英語版に引き続き、である。
午後、政治大学に出る。明日の授業の準備。夕方から学生とのみに行く。
12月6日(火)
早朝、日本の官庁から依頼された今回の選挙のレポートを2本送る。また、中学高校の同窓会から依頼されていた会誌用の原稿を出す。こういう原稿が一番手間取る。
授業。朝から戦争の話。ワシントン体制から話していく。金法郎案の重要性、北京政府が維持されなかったこと、などについて。ワシントン体制とはいっても、結局北京政府を維持しようとしなかったのだから、「体制」といえるのかどうか、わからないところがある。また、辛丑条約体制の継承という側面が強いので、そこも強調する。だが、日本での「中国の民族運動」を過度に意識した言説についても、ソビエト連邦の成立と日本陸軍の焦燥あたりから話す。昼にも補講があり、そこでは対日協力者の問題なども話す。敏感な話題。
午後、北大の公共政策大学院のウェブページ用の原稿を出す。今日、四つ目の原稿。引き続き、岩波のラジオ原稿の修正を始める。山本武利先生から10枚は削るように言われる。清華大学政治学系での講演が確定。
胡春恵先生と会う。来年の両岸三地+2の件。アモイ大学との調整が難航。経費の面で。会場変更の可能性が出てきた。夕方、明日の若林先生歓迎会で使うレストランに下見に行く。
12月7日(水)
体調が思わしくない。顔にニキビというか、吹き出物がたくさん出てくる。蕁麻疹か。
ゼミ。『鄒嘉来日記』の光緒30年が終了。
岩波の修正原稿を提出。また北大総合図書館の機関誌の校正原稿を送付。
応俊豪の博士論文『「丘八爺」與「洋大人」−国門内的北洋外交研究』(国立政治大学歴史研究所博士論文)を読み直す。実に興味ふかいものである。
台湾内部の大学から頼まれていた人事考査の評価を書き終えて送る。点数までつけるのだから責任が大きい。また日本の学会誌の論文審査をして、審査所見を送る。
夜は若林正丈先生を囲んでの政治大学の学生たちとの宴席。
北京の社会科学院近代史研究所の王建朗・副所長がまもなく台北に来る。唐啓華さんと三人で、来年の北洋外交の会議について話し合うことになろう。王所長は、会議を大陸で開きたいという。だが、場所の候補地が日照だという。山東の日照。理由が不明であるが、話し合ってみたいところである。
12月8日(木)
朝、中央研究院に。早く着いたので、久しぶりに学術活動中心に。ここには一年間住んだことがあるので、そこで朝食を摂る。スタイルはあまりかわっていない。8時半ごろ台湾史研究所に。今回の会議は、「『台湾史研究新思維』研究会曁2005年林本源中華文教基金会年会」という題名。第一セッションで、「戦後日本の『脱帝国化』と台湾研究」という題名で報告をおこなう。コメンテーターの周教授から、いくつかコメントをいただく。終わり際に許雪姫先生が、戦争や植民地支配に対する「日本人の憂鬱」を話題に。第二セッションは、若林先生と石田先生。若林先生が日本の台湾政治研究を紹介。歴史中心で理論研究が弱いとのこと。確かにそのとおり。呉密察先生がコメンテーターで、日本の学界は国家学と歴史学があまりに強いと発言。石田先生は、自らの研究を振り返る。台湾の民主化、台湾化は、中国への経済的依然とともに進行したという指摘、聞いたのは何度目かだが、考えさせられる。途中で抜けて、鍾淑敏先輩にご挨拶して空港へ。香港経由で北京に向かう。
幾つか新聞を読む。香港では、完全な民主化を中華人民共和国がいつから認めるのかが話題に。中国の新聞では、人民元が米ドルに対して急騰、いまや一ドル8元を切る状況にはいりつつある。また、中国の大学の学位について、博士無用論が経済界から出てきているとのこと。空港には、人民大学の学生が迎えに来てくれている。今回のシンポジウムは、愛知大学のCOEの一環で、愛知大学と人民大学が共同開催しているもの。「“中国学”方法論の構築を目指して」がシンポの題名。政治、経済、環境の3セッション。小生は政治セッションで明日報告。人民大学の学生と話をする。学生にかけられている圧力、博士学位をとったとしても仕事がないこと、しかし受験戦争は小学生から過熱し、みなオリンピック数学に通っていることなど。ホテルに着く。稲香湖。海淀区の郊外。設備は充実している。
この会議には、時殷弘、馮昭奎らも参加している。彼らの日中関係論が最近どのようになったのか、も関心のあるところである。
12月9日(金)
次年度は北海学園大学と筑波大学で非常勤。テーマ選定に悩む。
昨日の話、人民大学の学生が、清華大学は学部一流、修士二流、博士三流、と言われていると言っていた。日本の大学にとっても、あまり笑えない話である。
朝の鳳凰電視台。李敖が朝から吼えている。元気である。大川周明を紹介。大川が発明した?democracy<democrazyについて、台湾はdemocrazyだという。台湾の民主主義はすべて「にせもの」と述べる。民進党は、制度などについても国民党のまねをしたソ連型の政党であり、また陳水扁も国民党籍を二つも有していると批判し、トルコの第一党が二つに割れて野党を作ったのと同じだという。これは相当無理がある議論だが、大陸の若者たちが、どれくらい「炒作」だと考えるか。ただ、民進党の形成過程で、組織また政治のおこない方などについて国民党の影響を受けたということについては、そうした側面があろう。中米間の戦略対話が終了。ゼーリックと戴秉国。また「利益相関者」であることを確認した。この含意何なのか、ここのところ議論が盛んである。マレーシアで起きた反中の動きに、中国側が反発して観光客が激減している問題で、マレーシアの閣僚が訪中。キャンペーンを張る。
ここ数日、西村成雄編『中国外交と国連の成立』(法律文化社、2004年)を読み進めている。随分前に戴いた書評の依頼をまだ果たしていないためである。年内には終わらせたい仕事である。
会議。政治セッション。ドリフテさんから発表が始まる。アメリカの中国に対するEngagement政策と constainment政策の関連性、変遷など。加々美先生は、いわゆる戦争責任の区分論の危機について述べる。区分論は、戦争責任について、一部の軍国主義者にだけ責任があり、一般人民にはそれがない、とする周恩来らの見解(日中国交正常化の際の周恩来スピーチにその内容がはっきりと示される)。だが、『読書』をはじめ、区分論放棄論が登場。確かに今年の排日運動において、区分論は見られず、攻撃対象は日本の一般民衆に向かっていたところもある。また、日本側の問題として、「一億総懺悔論」があるが、加々美はこれでは責任の所在が不明確になるとして、適切でないとする。無論、一国民として心情的には総懺悔的な発想があるが、理性的には受け入れがたいということである。東久邇宮が「一億総懺悔」をおこない、国際軍事法廷を経て、一段落した「責任」論ではあるが、心情的には責任論が残っていった。小泉総理もそれを利用して、A級戦犯だけに責任を負わせないように、「日本の国民の代表として」参拝していると述べている。他方、日本国内で戦争責任論について、さまざまな反発があるが、それもまた基本的に総ざんげ論への反発として受け止めることができ、区分論はそこまで受け入れられていないことがわかる。時殷弘は中米関係について。急速に関係を強化しており、臨機応変に、しかし全面追随はしない方向での関係が築かれているという。アメリカには挑戦せず、もっとも効率的な方法で対応するというのである。中米関係は複雑化しており、その複雑な状況に対応する複雑な体制が求められるという。日中関係については、持論である日中双方台頭論。2005年は1972年以来最悪であったと総括。日本はその自らの台頭について、隣国に安心させる努力を怠ったという。日中関係を立て直すには、双方が歴史問題について問題のありかを具体的に明らかにした上で、極端な考え方を捨てて、双方が譲歩すべきだという。しかし、こうした方向に日本が応じないならば、中国としては日本を孤立化させていくしかない、とのことである。しかし、そうした方向は、中国外交の根本である「和平堀起」のネックになっていくことになろう。小生は、時先生の後を受け、日中米関係について、米中が軍事、政治外交、経済、国際行政などの幾つかの面で、日中以上に接近すると、それが日本では「第二のニクソンショック」として受け取られ、さらに日米関係が強固であることを確認するために、いっそう軍事面=日米安保に依存する体制ができあがっていくことになる、と指摘。ただ、本題は歴史の話。中国の国際的地位の向上。三船恵美さんは、中国とイランの関係。中国がイランカードを、対米関係の中でいかに使っているかという問題。台湾との相関性が高く、台湾問題で対立したりすると、イランとの関係をきょうかするという。興味深い指摘である。イランは上海協力機構に、今年、オブザーバーとして加わっている。馮昭奎先生は、「冰凍三尺、非一日之寒」という語で日中関係を総括。中米関係については、政治的には問題を抱えても、経済的には相互利益があるようにしてくというスタンス。また、やがて米中関係が日米関係を上回ることも想定しているとのこと。平野聡さんは、中国における民族概念の形成の問題など。総じて中国側からの日中関係に対する厳しい意見が印象的であった。日本孤立化政策、これについては今後しっかりと見極めていく必要があろう。
昼食後、直ちに空港へ。香港経由で台湾に戻る。『環球日報』。ゼーリックと戴の戦略対話の内容が一面。ポイントは、台湾問題の重要性が下がった、という方向性。初日には台湾問題を語らなかった、という。ポイントは今年五月の連戦らの訪問。中国もまた、連戦らの訪中が実際に両岸関係にどう影響するか、ではなくて、それを対米カードとして利用していたということだろう。いまや米中は、イラン、イラク、スーダン、北朝鮮問題などにおける、戦略的パートナー。中国は、国際政治のアクターとなりつつあるのだ。台湾問題よりも、そうした問題のほうが重要、というのが趨勢である。中国を国際政治的なスタンスで今一度見据える必要があろう。また、呂秀蓮が民進党「権」を奪取したとして非難。
台湾には夜の十時ごろたどり着く。やはり遠い。三通があれば、と思う。
12月10日(土)
朝7時の電車で民雄に向かう。「親子焢窯暨畫我電台」という、国家広播文物院の活動に参加。稲刈りが終わり、乾いた田圃の泥の塊を円錐状に組んでいき、真ん中の空洞に火をいれ、一時間以上あたためたあと、鶏肉、魚、芋などをいれ、その円錐をつぶし、上から土をかけてまた一時間以上待つ。そうすると、非常に美味く仕上がる。これは台湾の農村部で共通して見られるものという。民雄の地域の人々が参加。小生も案山子コンクールの審査委員などをする。放送局との関係構築が重要と思ってきたが、それ以上にこちらが楽しんだ。
嘉義の酒廠に行く。意外に多種類の酒をつくっているので驚く。茅台や五加皮なども。そのあと、呉鳳の故居、墓地へ。非常に辺鄙で探しづらいが見つかる。呉鳳伝説については、日本統治時代、また中華民国もまた利用したのだが、それだけに中華民国もしっかり祀っている。
夜は、文化路夜市で名物の鶏肉飯。
12月11日(日)
朝、ホテル付近の市場を散歩。牡蠣やハマグリ、魚が並ぶ。海が近いことがわかる。
北港の媽祖廟へ。この地域で重要な民間信仰の拠点。ただ、住所的には雲林県。ちょうど、雲林県議員になった蔡永常らが「お礼参り」をしており、壮絶な爆竹の音。そして御神体の入場。とても興味深い儀式を見ることができた。そのあと、海岸の東石へ。遠浅の海が広がる。いまは牡蠣の養殖が中心。先天宮も地域の民間信仰の中心。遠く布袋の太聖宮が見える。布袋は塩場が広がる。牡蠣を食べる。台北などとは食べ方が違う。食事後、太保へ。嘉南大圳を見に行く。いまでも流れはしっかりしているが、構造的に見て、浚渫が必要かと感じた。
嘉義県あたりはまさに台湾の「臍」にあたるところ。台湾らしさが強く残る。印象深い。
バスで戻る。渋滞。夜八時に台北に。五時間近くかかる。
12月12日(月)
書評原稿執筆。また明日の清華大学の講演および授業の準備。授業については、カイロ宣言前後なので、特に念入りに準備をする。カイロ宣言については、英文の原文をそのまま読ませるつもりである。また、テヘラン宣言などにもしっかりと言及し、日本の一号作戦の意味などについても説明したいと考えている。
昼過ぎに若林正丈先生がいらっしゃる。久しぶりにゆっくりお話をする。
呂秀蓮が民進党の代理主席を辞したというニュースが流れる。午後六時、馬英九と宋楚瑜が会談。今後の政策および選挙協力を約す。だが、台北市長選挙のことなどは特に議論せず。李登輝、連戦、宋楚瑜という三人から見れば、宋がしぶとく一線に踏みとどまろうとしている。
12月13日(火)
日記を読み返してみて、12月2日に民進党が急速に盛り返したように感じたのはどうしてかと考える。台中の林佳龍については、結果を見てもだいぶ盛り返した(もともとはもっと差があった)と思うのだが、羅文嘉については前日の「造勢」にしても勢いがあったとされているし、もっと接戦になってもおかしくなかった。また、羅文嘉が本当に150元で「買票」をするなどということも本来は想像しがたいことであった(通常南部でも1票500元は超えている)。一般的に言えることは、民進党に対する強い不信感が底流としてあったということであろうし、最後まで「何かあるかもしれない」と思っていたところで、結局民進党からは何も出てこなかったという感覚が12月2日から3日朝にかけてあったということなのだろうか。それとも、もともと民進党は本当に駄目で、12月2日に盛り返したように見えたこと自体が錯覚であったということか。確かに一日だけで盛り返せるはずもなく、そうした勢いが一日しか見られなかったこと自体が異常かもしれない。選挙戦はずっと国民党有利で推移し、最後になって民進党が少し輝いたように見えたが、それでもかなわなかった、というのが結果から見た総括であろう。
マスコミでは陳と呂の間の確執がここ数日報道されている。11月の日記でも書いたように、民進党が大敗北したら、陳水扁をおろして、呂を総統にして残り二年の間に改革を断行するという声も、一部から聞こえてきていたが、それが現実になったものと考えられる。民進党内部の調整はまだ続きそうである。2008年まで、あと2年以上あるのでその間になんとか落ち着けば、いや何とか立法院の選挙までに持ち直せれば、というところだろう。
朝、授業。1940年代前半の中国をめぐる国際政治。日中戦争というよりも、連合国の形成、四国宣言、ダンバートン・オークス会議、カイロ会議、テヘラン会議、サンフランシスコ会議、ヤルタ会談といった方向で説明していく。中華民国の歴史は、カイロ会議史観なので、なかなか大変である。
授業終了後、すぐに新竹にある清華大学に向かう。清華大学社会学研究所の現代中国研究センター(大学院としては一個の「組」)にて講演。また教科書の話。もともと清華大学は、中華民国の原爆開発の拠点から大学化した。ここは、一学年5−10名の大学院生。博士課程も有る。議論については、こちらから見て好印象。比較的、社会学が強いので田野調査に基づいた研究が多くおこなわれているが、そのほかのジャンルの研究もおこなわれている。こういったアメリカ留学経験者を中心とした中国研究の拠点が台湾各地に形成されつつある。両岸研究は政治がかっているが、こうした中国研究関係は、比較的政治から離れている。具体的状況は『当代中国研究』というニュースレターに記されている。中興大学の蔡東杰、また国立台湾大学政治学系の面々、さらにはこの清華大学の当代中国研究センターの面々、いずれも印象的である。水準がとても高い。台湾の現代中国研究の動向については本当に注意する必要がある。
…だが、同時に台湾の日本研究もアメリカのジャパン・スタディーズの影響を受けながら再編されないものか、などとも思う。
新竹からはバスで台北に。今日は宴席もなく、そのまま自宅へ。
12月14日(水)
午前中ゼミ。評価方法も決める。各参加者がそれぞれ半月ずつ「解読」することに。
終了後、自宅に戻り、書評原稿を書く。しかし、先週、台北と北京を一日で往復し、翌日民雄に行き、一日で戻ったりしたので、体が疲れていたので、少し休む。
書いている書評は、西村成雄『中国外交と国連の成立』(法律文化社、2004年7月)。国際連合、国際連盟と中国については、特に台湾で盛ん。劉志攻『中華民国在聯合国大会的参与』(台湾商務印書館、1985年)などがあり、90年代には、張玉法『論中華民国與聯合国創立之関係』(東海大学政治学系叢書、1994年)、唐啓華『北京政府与国際聨盟(1919〜1928)』(東大図書公司、台北、1998年)、張力教授の著作『国際合作在中国:国際聯盟角色的考察 1919−1946』(台湾、中央研究院近代史研究所、1999年)などが出版された。また昨今では国際合作基金会『台湾対外技術援助45周年』慶紀専刊(国際合作発展委員会、2005年)など、戦後の中華民国による(国連を通じた)対外援助に注目したものや、戦後直後の台湾における国連事務所の活動に対する関心が集まっている。史料の面でも、国史館から『中華民国與聯合国 史料彙篇』(全四冊、国史館、2001年)などが刊行され、研究が新たな段階を迎えている。日本においても、2003年12月に半澤朝彦を中心として、国際シンポジウム「The
Role of the United Nations in International Politics- A Historical
Re-examination from the Member States` Perspectives -」が開催され、そこでは中国外交と国際連盟・連合の関係が改めて議論され、その成果がまもなく公刊されるところである。
これは中国「大国化」の一つの問題性を内包している。国際的地位の向上と「大国化」をいかに整合的に説明するか、ということである。本書が興味深いのは、中国の外交空間を、二国間、大国間国際政治(ヴェルサイユ=ワシントン、ヤルタ=ポツダムなど)、国際連盟・国際連合の三者に分け、中国が国際的地位の向上を(形式的に)達成したのは第三の外交空間においてであり、第二の点では異なり、またそれもアメリカの大国化政策によって暫時的に形成されたものだとしている点だろう。
夜遅く、というよりも15日(木)の朝早く書評原稿が書き終わる。そういえば、15日は中国大国化と外交について著書の有る王建朗(中国社会科学院近代史研究所副所長)さんが台北にいらして、宴席がある。
12月15日(木)
朝早く書評原稿を書き上げる。
大学に出て、偶然会った唐啓華先生と話をする。昨日、中央研究院近代史研究所であった王建朗さんの議論。また近代以来の日中関係に関する議論。王先生の議論は、カイロ会議における蒋介石の戦後アジア構想に関する部分。対朝鮮、対琉球など。ここに面白さがあるという。無論、これは実現せず、単なる構想に過ぎないが、ここにこそ蒋介石の想定していた世界があるという。唐先生は1890年代における日本の領事裁判権撤廃問題。日本としてはイギリスとの領事裁判権撤廃以後、同時に中国とも条約改正を進めたかった。しかし、中国はそれを拒否。このあたりの日中間のやりとりは本当に面白い。
昼。彭明輝学科主任をはじめ、唐啓華、劉維開、あとは学生。王建朗さんもお元気そう。北洋外交の会議は、どうも中国史学会が日照でやることをふまえ、それと連続して開くことを考えているらしいこと、日本からも数名呼ぼうとしていることがわかる。国際交流基金に経費申請をしているらしい。昼間から高粱酒。さすが政治大学。台湾第一の水準。大酒のみが多い。一つの話題は国民党のこと。多くの人は兵役に行くと党員になる。特に前線に出る場合。また、戒厳令が解除されるまでは、政府職員と党職員が一体化しており、給料が引き継がれていたという。これはいまの共産党も同じ。また、国民党が敗北した2000年、国民党は従来の20年勤続で退職(退職金が出る退職)としていたものを18年勤続に引き下げたため、1000人近くが退職したという。当時は、職階にもよるが400万元の退職金が出たようである。財源が尽きるわけである。40億元前後がそれだけで消えたことになるのだから。
午後、自宅で岩波の世界史史料集の原稿を書き始め、夕方学生たちと食事に。
12月16日(金)
次年度のシラバスを書き始める。次年度は、非常勤を含めて前期に6コマ+αもあるために身動きが取れない。また、学部、院、公共政策大学院と合併科目があるため、それぞれ別の書式でシラバスを書かねばならず、膨大な量にのぼる。一日作業である。
夜、濱島敦俊先生と食事。
12月17日(土)
官庁から依頼されていたレポートを送付する。上海協力機構について。
また、シラバスをほとんど書き終える。
10時に中央研究院近代史研究所に。中国近代学会の年次大会と「戦争與日常生活」という学会に参加、そして報告するため。思ったよりも、ラジオが話題になるので驚く。第一セッションでは、日本の重慶空爆の問題が議論される。それが日常生活にいかなる影響を与えたのか、ということ。第二セッションは、ラジオやメディア関連。王正華先生が、ご自身のご両親の「情書」を利用して論文を発表。ラジオをめぐっては議論が多く出る。会議終了後も、台湾大学で一名、中国の雲南で一名研究者がいることがわかる。聞黎明先生によれば、抗戦時期の昆明放送局の専門家がいるという。会議終了後、張存武先生が「あのころの国民政府はラジオでたいした効果をあげられなかった」と話しかけてくれた。当事者であっただけに傾聴に値する話を字数多くしていただき、有益だった。陳永発先生からは『陸鏗回憶與懺悔錄』(時報出版、1997年)の重要性を教わる。中国のメディア、ラジオ放送関係に関係がもっとも深い人物。
夕食は北京の近代史研究所の聞黎明先生と陳永発所長の討論が続く。現代中国思想史の史料をめぐり、経済日報、財政日報、自由論壇などの重要性が説かれる。また抗日戦争の主体の問題。共産党だけでは抗日戦争史がかけないなどの率直な意見交換。終了後、政治大学の学生を連れて二次会に行く。台湾の学界や若手研究者の状況などについて話しをする。
12月18日(日)
朝6時過ぎのバスで中部に向かう。観光と打ち合わせのため。
228関連の史料などを見る。やはり、日本の軍事関連業務に関わった人に犠牲者が多い。また自治団の形成過程などが重要か。当時の武器は、日本が残したものだろうが、武装解除はどのようにおこなわれたのか、またおこなわれていなかったのか。またラジオ放送局の位置づけについても関心がある。
学界のニュースレター用の原稿を国際政治学会に送る。
12月19日(月)
蒜頭の砂糖工場などを見学に。また海岸部に行き、市場で食事をする。
夕方台北に戻る。引き続き、岩波世界史辞典の原稿を書き進める。
行政院長ポストをめぐる動きがあわただしくなり、王金平が陳総統から直接の依頼はなかったなどと発言。馬英九は唐飛の轍は踏まないなどと発言。宋楚瑜は急にメディアで元気に発言。血色を取り戻した感さえある。
12月20日(火)
朝、プロパンガスがなくなる。
授業。戦争の終結にいたる過程を解説。またファシズムのこと。玉音放送も聴いてもらう。
授業終了後、自宅に戻り、ガス屋に電話する。あっという間に届けに来る。
昼にも補講。引き続き、戦争の終結について話していく。後半は試験。問題は以下のとおり。
(1) 課上聽到的一些內容裡頭, 你選一個最有好奇的內容. 你來思考,做研究討論.
(先寫你選的內容,介紹課上之說明,然後寫你的研究結果)
(2) 重新思考你擁有的歷史觀, 然後試圖把這種歷史觀相對化,解體和再構成.
(先說明你的歷史觀念之形成過程和背景, 然後提出其具體的問題,再建立新的歷史觀)
日本と同じで試験になると人口が増加する。月末までに採点する必要あり。
午後は、明後日の講演準備。また1月初旬の香港での報告準備。
夜、中央研究院近代史研究所の沈懐玉さんと、北京の近代史研究所の楊天石先生とその娘さんと食事。彼女(楊雨青さん)も人民大学歴史系の副教授で、中米関係史を研究している。だが、博士学位がないので在職博士として北京大学歴史系に所属、政治大学には二ヶ月間の客員教員兼学生としてきている。彼女と話していて、どうも小生の授業を聞いている学生たちが、信じられない(または受け入れがたい)話や事実について、彼女に聞いて確かめていたらしいことがわかる。授業の内容にとても詳しく、あとでいろいろ議論になる。日中間の歴史問題や昨今の靖国問題などを次から次へと浴びせてくる。久しぶりに「激論」という感じになった。ただ、彼女としては、北京で教鞭をとっているときも、激昂する中国人学生たちを、いつも冷静に、客観的にと窘めたくて、いろいろな観点、情報を入手したいという感じ。
楊天石先生は悠然と聞いておられ、ときどき話しに加わる様子。ただ、楊天石教授が最終的には日中関係は大丈夫、とおっしゃられていたことが印象的。また、楊教授とは、黄遵憲と蘇州租界に関することなど、さまざまな史料情報を交換する。とても有意義。
陳水扁が立法院に対して軍事費に関する問題提起。GDP比で3パーセントを目安とすることについて意見を求めた。これには国民党も準備がなく、というよりも国家の安全保障の根幹について定見がないことを見せてしまい、困っているといった報道が出てくる。陳水扁がだんまりを決め込んでいたのも、この玉を投げるためだ、とも言われる。最近は、アメリカの武器購入などをめぐって、立法院が紛糾、それがアメリカのイライラの種になっている。こうした安全保障問題は、中国への「接近」が取りざたされる国民党としては急所となり、武器や軍事費に消極的になることが親中ととられかねない形勢にある。特に、連戦らが訪中して国際世論でそういったレッテルが貼られただけに、あまり統独問題やナショナリズム問題にもちこみたくない馬英九としては厳しい政局運営となろう。
12月21日(水)
朝からゼミ。光緒31年2月。鄒嘉来日記解読の成果が近代中国外交のウェブサイトに掲載される。このあたりは台湾の学生たちは熱心である。議論も盛ん。
香港の会議の原稿を書く。NGOと国際協力などまったくの素人だが、参考文献をとりよせて書いていく。啓発されるところが大きい。今回の会議は、来年の両岸三地のために行くので、行かざるを得ない。
夜、学生たちと食事。疲れが抜けない。
12月22日(木)
香港の原稿の締め切りが延ばされたので、岩波の原稿を書く。
昼には政治大学で講演。立ち見が出ている。動員があったのかもしれない。
唐啓華先生が司会。ありがたいことである。質問は高角度。だが、台湾における日本研究の欠如を強くかんじる。しっかりと政治や歴史を教える講義はないものか。日本の中国・台湾研究者が、日本人だというだけで、結局のところ日本のことを説明してまわることになる。不幸なことである。
午後も原稿を書くが、16時から研究会に出る。王凌霄(東森新聞事業總部專題企劃處經理)による「歷史紀錄片的初體驗」という報告。最近、東森は蒋介石、蒋経国の記録映像を放送、またCDとして販売した。その中心的な推進者が王氏。彼の企画過程、編集過程などを、映像を交えながら聞くことができる。NARAだけでなく、ロイター(ただし版権が高すぎる)などで収集。特にNARAについては日本から接収したフィルムが数多く残されているらしい。興味深い。台湾内部では三台にあるが出さない。軍も樹林にフィルムセンターをもっているようだが、公開しない。いまのところ、国民党党史委員会がもっとも利用度が高いという。また、記録における「真偽」「事実」について議論になる。
夕食。学生といく。足の不自由な学生も一緒であったが、彼のこれまでの辛い経験と台湾における福祉方面の状況について聞く。日本も、北海道大学も偉そうなことはいえないが、体に不自由なところのある人が大学院に入るということは台湾においても極めて異例とのこと。また、中国大陸ではもっと「ありえない」ことだとのこと。彼の中国旅行(特に史料調査)体験を聞くと、そういった差異についてもうかびあがる。
12月23日(金)
東京の台北駐日経済文化代表処に10月のシンポの修正原稿を送る。公刊するらしい。
昨日は冬至であったが、湯圓を食べるのを忘れた。日本はゆず湯などだが、台湾では湯圓である。以前出した、高校の同窓会報の原稿の修正版が来たので、チェックして送り返す。恥ずかしい文章である。また、東アジア国際政治史のテキスト原稿が集まってきたので、それを打ち出したものが送られてくる。
午前中、岩波の世界史史料集の原稿をひとつ終わらせる。日清修好条規の部分。条規については、1860年代の交渉が影響していると筆者は考えているが、条規締結時に「中国」「天皇」などの用法が問題になっていることをあらためて確認する。日本側は「中国」を用いず、「大清」としたのである。「天皇」についても、これを中国側が用いるのには躊躇があり、基本的に「皇帝」ならばというところまで李鴻章の判断としてきていたものと思われる。
千歳丸のものと一緒に岩波に送る。日本は休日なのだが、さっそく編集者から返事が来る。
夕方、宴席。公正取引委員会の委員長(大臣)である黄宗楽氏主催の宴席。こうした宴席に出るたびに北京時代を思い出す。小生が主賓なので、飲まざるを得ず。金門の高粱酒、やや特別なもの。最近、日本に関する質問にやや辟易としている。「大男人主義/大和撫子」とか、北海道=寒い、とか、刺身とかお茶とか、こういった「誤解」にもとづく質問に辟易気味だ。台湾の場合、60年前の日本への印象が凍結されて現在に至っているところがある。こういった日本論にいちいち立ち向かっていてはきりがないのだが、時々反論したくなることもなる。今日の宴席でも、なぜボストンと札幌の気候は大差ないのに、北海道だと寒い寒いと言い、ボストンだと言わないのか、台湾のオリエンタリズムではないか、などと述べてしまう。よろしくない。日台関係については、表面的にはいいように見えるものの、政治家、官僚、学者、…どの領域においても戦略的な対話にかけていることを述べ、何か問題が起きた場合、交渉・コミュニケーション不全をおこすのではないかと述べた。
二次会はまったく別のところに連れて行かれる。民進党の若手の集まり。三次会は日系商社主催。最近大きな仕事をとられたところなので、お祝いを申し上げる。帰宅したら1時近くになっている。
12月24日(土)
午前中岩波の原稿を書く。『日本国志』をあらためて読み返していく。
昼、文化大学の張瑞徳先生と食事。情報交換をする。また、日米中台で進めている日中戦争に関する共同研究についての話を聞く。ボーゲル先生、だいぶ失望されたようである。このほか、台湾の海事博物館、海関博物館、港史博物館のことなどを聞く。あと一週間でどこまでいけるか。
誠品書店で幾つか本を買う。出所のよくわからない中国駐米公使館の文書を紹介した著作など。
夕方は学生たちと摂る。
12月25日(日)
汪道涵が亡くなった。今年の1月3日に辜振甫がなくなったことを考えると、両岸関係もあらたな時代を迎えたことになる。政府は誰を葬式に派遣するのか。
三田裕次先生のウェブサイトを見る。台湾【省】行政長官公署、また牡丹社事件における「漁民」のことなど、はっとさせられる。実はこの日記でも、台湾行政長官公署と記したところがあったので、修正する。注意しなければならない。
『日本国志』を読み続ける。また、学部の試験の採点をはじめる。
夜、以前の学生たちと食事。レストランで偶然北海道大学の同僚と会う。
12月26日(月)
台湾大学付近で買い物。そのあと、台中へ。檜山幸夫先生、栗原純先生たちのグループと夕食。いくつか話があり、檜山先生から来るようにとの呼び出しがあったため。
台中までは電車。先生たちが宿泊しておられるホテルで、グループのパーティがあり、それに参加する。東アジア近代史学会の大会のことなど。台北には夜中の12時半ごろ着く。
12月27日(火)
石田浩先生が入院。昨日から。
本務校からさまざまな雑務が流れ込み始める。在外生活も終わりということ。
学部の最終講義。国民党による教育に対する批判、また自己の相対化まではいけても、文化相対主義的になってしまい、そのあとがなかなか進めない答案が多かったとコメント。
昼、台湾で活動している日本人ジャーナリストと食事。岸信介の外交のことなど。
1時間ほどあるいて南京東路へ。呉三連基金会に行く。ここの台湾史料中心に所蔵されている三田文庫を見るために来た。充実した蔵書。パンフレット、新聞なども多々ある。2時間ほど資料を見てから日台交流センターへ。しかし、22日から1月3日までお休み。…嘆息。
夕食は政治大学の学生たちと。
だが、またそこで偶然、北大の同僚たちに会い、また飲みに行く。
12月28日(水)
岩波の原稿を二点出す。日本国志のものなど。まだ20点以上ある。
最後のゼミ。簡単に総括する。ゼミの評価は各自半月分を解読するというもの。
昼、唐沢靖彦さんの報告を聞きに行く。裁判文書に見られる「僧」のイメージのこと。そこであらわれる「姦淫」の姿など。興味深い報告。民間信仰が深まる時期の僧の位置と同時に、ジェンダー的な面白さもある。…採点、そのほかの業務が進まず。意外に時間がかかる。
夜、ゼミの宴席。学生の大半が来る。二次会を林森北路で。黄福慶先生もいらっしゃる。日記の解読は今後も継続することに。
12月29日(木)
午前、原稿、そのほかを進める。昼、また唐沢さんの報告を聞きに行く。今度は「近代砲台」の話。海上防衛のありかた、そしてキールンなどの砲台についても。唐沢さんにこのような専門があるとは知らなかった。終了後、薛化元台湾研究所主任、また彭明輝主任らと台湾大学病院へ。石田浩先生の様態が昨晩から悪化。様子に驚く。内科病棟からICUまでベットを押す。
16時、民進党系のシンクタンクである台湾智庫に。日台印の連携の可能性など、いろいろな点について議論。東アジア共同体についても。終了後、宴席。その方面の学者、メディア関係者などイデオローグが集まる。貴重な機会。20時ごろから別の宴席。北海道大学の台湾人の卒業生たち。こちらは気楽。
12月30日(金)
午前中、台湾大学病院に。石田先生を見舞いに行く。
午後、陳鵬仁先生と。3時間以上お話いただく。前後の日台関係、陳先生ご自身の体験、国民党のことなど。興味深いお話ばかり。陳先生のオフィスにもうかがう。
終了後、北海道大学の卒業生と会う。彼は記者をしていて、北海道出身の画家・木田金次郎について触れる。興味深いので、簡単に調べることにした。
16時半から別の宴会。中央研究院近代史研究所のかたがた。今後の研究協力のことなど。
ゴミ出しがあるので9時前に失礼する。ゴミの時間が台北人の行動を抑制している(品行方正にしている)。
12月31日(土)
午前中、部屋の掃除、荷物のとりまとめをおこない、学生の車に乗って、台湾大学病院へ。石田先生を見舞いに行く。まだ意識戻らず。奥様もいらっしゃり、体制が整う。政治大学側などとの(保険、支払い面などでの)調整が気がかり。そのまま空港へ。乗るべき中華航空がキャンセルになったので、一便早いものに乗る。香港行き。久しぶりの香港。夜、街をふらふらし、スターフェリーで九龍に行く。人々が何となく集まってきている。あとで知ったことだが、20万人という。香港の研究者が、大晦日、みな何となくぶらついて集まる、といっていたことがよぎる。ただし、それは旧暦ではなかったか。
1月1日(日)
マカオに初詣に行く。香港から一時間。マカオ博物館などにも行く。普通話は香港よりも通じるような気がするがどうか。今回、政治大学で受け持った学生の中に、学部生、院生ともにマカオからの学生がいた。彼らの歴史観も独特であった。夕方、香港に戻る。
胡錦濤の念頭の挨拶を聞く。自信のあらわれでもあるが、昨今の引き締め傾向の中に、バランスをとることの難しさを感じる。新京報のことがあったので、気になる。
1月2日(月)
天皇の言葉がメディアで話題に。「外国人犠牲者」に触れたこと。また駐華大使が宮本大使に決定。香港メディアが日中和解に向けて少し光がさしたと報道した。陳水扁は両岸政策について、微妙に言い回しを変える。「監視」的な内容を前に出した上で「積極交流」を後回しに。否定的な印象として大陸側には映る。
香港の街中を歩く。午後、こちらの大学関係者とホテルで会う。今年の国際会議のこと。週末に継続して協議予定。
1月3日(火)
日本に戻る。台北、東京で二度乗り換える。機内で何とか採点を終える。