ASNET講義平成20年度冬学期「書き直される中国近現代史」
第7回(12.3.)
川島真准教授(総合文化研究科)
「顧維鈞と『中国』―近代中国外交官のいきざまと「中国史」―」
キーワード:顧維鈞、「顧維鈞史観」、職業外交官、北京政府、パリ講和会議、政策決定への関与
川島先生の講義では、民国時期から1960年代まで外交官として活動し、生前すでに回顧録を残して自らの外交活動を語った顧維鈞を題材に、彼と各時期の政府との関係、彼の語った「外交史」(=「顧維鈞史観」)と現状における外交史研究の関係(【研究のポイント】)が検討された。また、彼は中国・台湾・欧米においてそれぞれの関心から異なる評価がなされている人物でもある
最初に1999年に中国で上演された『我的1919』から中国大陸における顧維鈞評価の変化が紹介された。それまで顧維鈞は北京政府の外交官であり、パリ講和会議において山東利権を回収できなかったなどの理由から低い評価を受けていた。しかし、1980年代には民国史やナショナリズムの再評価の中から彼の再評価も進み、この映画がその決定的な変化を象徴しているという。それでは、再評価された顧維鈞評価とはいかなるものなのか。その一例として、呉建民氏の『外交案例』が紹介された。そこでは顧維鈞がパリ講和会議において列強に対して「No」と言い、それによってパリ講和会議が彼にとってのハイライトである点が強調されている。つまり、国権回収や愛国という文脈の中で彼の評価が規定されていることがわかる。
では、このような評価の変化を受けた顧維鈞の人生はどのような特徴があったか。それを要約すれば、@西洋的教育を上海とアメリカで受け、1912年コロンビア大学から国際法外交博士を授与されており、職業外交官としても明確な自己意識を持っていること、A北京政府・南京国民政府・中華民国(台湾)の各政府において半世紀近く外交官として活動していること、B国際司法裁判所判事以外にも国際機関の設立や戦後の東アジアにおける安全保障構築において大きな役割を担っていたこと、などである。
続いて、顧維鈞と同時代に外交官として活躍した人々との関係についての言及がなされた。顧維鈞は一般的に「外交系」「ヤング・チャイナ」と呼ばれるグループに位置づけられている。このグループは非科挙官僚、清末の欧米留学者が中心、語学に堪能であったなどの特徴がある。そして、彼らによって民国期の外交が牽引されたと言われてきた。しかし、近年の唐啓華氏の研究によれば、彼らの活動を可能とする環境は、清末に公使の地位にあり、北京政府初代外交総長であった同文館出身者の陸徴祥などにより整えられたものであり、彼らの評価は相対化されていく傾向にあるという。
彼らの関係はどのようなものであったか。川島先生はそのようなグループ化は外側から与えられたものであり、本人たちが派閥を形成するまでの人的関係を持っていたかについて疑問を呈された。一例として、顧維鈞が王正廷を嫌っていたというインタビューが紹介された。しかし、二人は近所に住んでおり、この事実がインタビューの内容とどのように整合させて考えるべきかはまだ問題が残っているという。
それではなぜパリ講和会議が顧維鈞を含む職業外交官たちにとってハイライトであったのか。そこには、川島先生の見解によれば、歴史的評価と彼らの認識はパリ講和会議がハイライトであるという共通の見解でありながら、呉建民氏が指摘した国権回収の文脈とはまったく異なる背景が存在していた。それは当時のパリ講和会議の全権代表が外交における政策決定権を掌握しており、北京政府の介入を排除した外交を行うことが可能であったという政治状況である。したがって、全権代表は自らの認識に基づき、北京政府の訓令を無視して、パリ講和条約の調印を拒否したのである。
しかし、そのような外交官にとって理想的な政治状況は一時的なものであった。南京国民政府が成立すると、外交に対する党の統制が強化され、外交官の裁量権は大幅に減少した。これに対して、王正廷は国民党内で活動することにより、政策決定の場に留まることに成功したが、顧維鈞はあくまでの職業外交官の立場から政策決定に関与しようと試みた。このようなスタンスの違いが、上述の両者の関係に影響を与えたのではないかと、川島先生は指摘している。別の要因としては、顧維鈞自身が蒋介石などと関係が悪かったこともあり、彼が政策決定の場から排除されていったと考えられる。
それでも国際連盟などの国際舞台や第二次大戦後の東アジアにおいて、顧維鈞は民国前期以上に大きな役割を果したと考えられる。しかし、残念ながら顧維鈞研究は民国前期を中心に基本的に民国期に限定されており、戦後の彼の動向に関する研究はほとんどないのが現状だという。さらに戦後の顧維鈞を果して「何史」の中に位置づけて議論するのか、すなわち中国史でも台湾史でも扱いきれない、という大きな困難も存在しており、これらの問題をいかに克服していくかが課題になるだろう。
【質問】
・清朝から中華民国政府への外交制度の継承はどのようなものであったか?→人的には中華民国政府への継承は存在するが、職制は改編されている。また南京の中華民国外交部をどのように考えるかがもうひとつの問題となるが、南京の外交部の人員は北京のそれに合流したが、その後辞職やリストラを受けたことにより、北京の外交部にはほとんど残らなかった。したがって、外交機関としては北京のものが主要であり、南京からの影響はほとんどないと考えられる。
・孫文と顧維鈞は辛亥革命以前接触を持っていたのか?→顧維鈞は唐紹儀と顔恵慶の推薦を受けて外交の世界に入っており、事前のコンタクトはなかったと思われる。
・顧維鈞はソ連の社会主義外交に対してどのような認識を持っていたか?→一貫して社会主義に対して不信感を持っていた一方で、アメリカ寄りの立場を取っていた。1945/46年ごろ、ソ連は国民党を支持していたにもかかわらず、その立場に変化はなかった。
・『我的1919』の評価というものは、中国共産党の公式評価とどのような関連性を持っていたのか?また、その際、中国の台湾政策の影響は存在しなかったのか?→第一にパリ講和会議を評価する際に従来の革命史観に依拠したのみの評価では限界があるため、ナショナリズムなどを補完的に利用し、従来の革命史観を克服しようとするものであろう。したがって、近代史を語る上でもうひとつの軸を政府が認めたことを意味していると思われるが、そのような認識は教科書などの記述までには反映されていない。台湾との関係に関しては、関係改善の一環として捉えることも可能であろう。これは中華民国史の再評価の動きとも連動したものであると思われる。
・なぜ職業外交官としての顧維鈞のハイライトがパリ講和会議なのか?→北京政府期において、彼は外交官として政策決定に直接関与することが可能であったが、南京国民政府の成立後、外交政策は中央の党内で決定されることになり、在外における政策決定への関与は低下した。そのような状況に顧維鈞は適応できなかったのではないか。自己決定による外交活動が可能である理想と現実的な状況が一致した時期がまさにこのパリ講和会議の時期であったと考えられる。
【研究のポイント】
顧維鈞に関しては1960年(1960年代後半に本格化)から始まったインタビューが編集され『顧維鈞回憶録』として出版されており、彼の語った外交史が先行研究においては受け入れられ、民国期の外交として叙述されてきた。さらにインタビューにはウィルバーやネイサンらの学者も関与しており、ある意味では学者にとって必要とされる情報が選択的に収集されて、学者の意向に沿った叙述がなされている可能性がある。インタビュー記録自体は非常に膨大なものであり、『回憶録』に収録されていない記録も大量に存在する。このように取捨選択された史料から構築された「顧維鈞史観」を克服する方法としては、コロンビア大学に所蔵されている顧維鈞の個人文書全体から迫るアプローチや外交档案、そして他国の外交史料などの公的文書からのアプローチがあり、それにより顧維鈞の外交活動を相対化することは可能になるという話であった。また、なぜ顧維鈞がインタビューに応じた時期を考えることも、顧維鈞の史料を扱う上で考えておくべきことのことであった。
民国期の政治家も顧維鈞と同様に多くの個人文書を残し、また自己の正当化を行うためにも自身にとって有利な歴史を叙述していると考えられる。このような現象は、それ以前の歴史上の人物には多くは見受けられない。彼らによって構築されてしまった歴史を相対化していく作業が必要になるだろう。顧維鈞に限らず、民国期ないしそれ以後の歴史を研究していく上で、上記のような史料的問題を念頭に置いておく必要があるとのことであった。
(RA 小池求)