アジア政治論第9回講義〈質問表への回答〉
1.講義の方法などへの質問・要望
〈プロフィール〉
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先生のプロフィールで、「東大大学院博士課程単位取得退学」とありますが、これはどういうことですか?単位はとれたけど、やばい中国論を展開して、締め出されたということでしょうか。(6月8日、学部3年) |
→一般の方には耳慣れない言葉だと思いますし、「単位取得退学」は格好よくないですね。大学院の終わり方には三種類あります。定められた在籍期間中に学位をとれば「修了」となります。次に定められた期間いたけれど、その間に学位がとれないと、「単位取得退学」になります。定められた期間に満たずに籍を抜くと「退学」となります。次にその定められた在籍期間と学位の関係です。在籍期間は、正規には修士2年、博士3年とされますが、延長できます。北大法学部の場合、その二倍、つまり修士は4年、博士は6年ということです。この間に学位をとれば、その学位は課程博士で修了になります。しかし、籍を抜いたら課程博士にならないかというと、違います。北大法学部の場合には、籍を抜いてから一年以内に論文を出せば、「課程博士」となります。それ以後だと、「論文博士」となり、手続き、経費などが全く別のイレギュラーなものとして扱われます。小生の場合、博士二年次で日本学術振興会の特別研究員DCに採用され、博士三年が終わったときに、特別研究員のPDに切り替えられました。学術振興会特別研究院のPDになるためには、学籍を抜く必要がありましたので、博士課程の在籍年限である3年を終えたところで「単位取得退学」としたわけです。東大文学部の場合、学籍の延長は二年間できたのですが、それをしなかったのです。また、東大文学部の場合、博士課程の籍を抜いてから三年以内に論文を出せば、課程博士となります。小生は、1997年3月末日で学籍を抜いて、2000年3月に博士論文を出しましたので、課程博士となりました。
締め出されたかどうかは、想像にお任せしますが、大学院生活はまさに「陰性」生活ですので、華々しいものではありませんし、競争も激しかったですし、箱庭のような環境の中でいろいろなことがおきます。しかし、その箱庭でのやりとりが、その後の大きな糧となることも事実です。
<天皇呼称>
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平成天皇と今言っていいのですか。(6月1日、学部3年) |
→明仁…今上天皇が正しいのでしょうね。亡くなられてから「平成天皇」とお呼びすべきでしょうか。でも「キンジョウ」天皇といってなかなかピンと来ない学生さんのほうが多いように感じますが。
2.内容について
〈時事関連の話についての感想・意見〉
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国連安保理常任理事国入りの問題で、中国は日本帝国主義の防波堤として活躍したから拒否権を与えられたのだと主張していましたが、これは正しいのですか。私の印象では日本にやられていただけのような気がしないでもないです。(6月8日、学部三年) |
→典型的な日本的「記憶」ですね。日本が負けたのは「アメリカに」であって、他の国には負けていないという認識です。しかし、降伏は中国に対してもおこなっているし(在南京)、中国に負けたわけです。個々の戦局で考えれば、日本が負けてないといいたくなることは理解できますし、本土攻撃したのはアメリカです。しかし、中国の飛行場から米軍機が日本本土を空襲することも検討されていましたし、蒋介石軍は明らかに英米との連携の中で戦争を進めていました。ただ、中華人民共和国からすると、アンビバレントといいますか、難しいところがあるわけです。日本が降伏した相手は中華人民共和国ではなく、中華民国。共産党軍もまた抗日戦争に加わりましたが、それは国共合作の下におこなわれたわけです。そうした意味で抗日を自らのリソースにする際に、やや無理がでてしまう面があります。そこで頼りになるのはソ連です。ソ連の侵攻は日本にとってはイレギュラーに見えますが、共産党から見ればともに東北解放に協力した存在とし、そのソ連と連携をすることによって、共産党自身の抗日運動のコンテキストを強化したという面があります。
〈共産党関連〉
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(1)
Communist partyに共産党の訳語を当てたのは、日本と中国、どちらが先でしょうか。(6月8日、学部3年) (2)
文革の話がありましたが、大真面目に紅衛兵をやっていた人たちはその後どうなっていったのでしょうか。文革否定後の現実の変化に対応できたのでしょうか。(6月8日、学部3年) |
→(1)共産主義、社会主義、社会党、共産党などはいずれも、日本語訳です。1904年の共産党宣言の和訳(幸徳秋水ら)の影響も大きかったようです。社会主義は『六合雑誌』において明治初期に紹介されていますが、おそらくは『平民新聞』が社会主義、共産主義関連用語を漢字化する上での大きな役割を果たしたものと思われます。中国への社会主義、共産主義思想の流入も、上海などでの直接受容とともに、日本経由の受容も重要です。
(2)そうですね。授業でも言ったとおり、紅衛兵であっても、79年以降にうまく大学に入れたりすれば人生を転換できたものと思われます。日本だって、1945年で大きく転換しましたし、共産党自身も文革後にあれだけ大きな舵を切ったわけですから、そういった「転向」「転換」は随所に見られたはずです。
〈天安門事件〉
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「六四天安門事件」は、アメリカなどの西洋勢力に煽られたという説があるのですが、そうでしょうか。(6月1日、留学生、学部?年) |
→そういう言説がとくに中国で広まっていますね。確かに、民主化運動を支援する向きがアメリカなどであり、そこに繋がる中国人の民主化運動家もいたと思います。それは否定できません。ただ、そうした集団が「きっかけ」を作ったにしても、組織化と動員までできたかどうか。そうした意味では、内的な論理もないといけません。もし煽動があったとして、それが成功するためには、煽動された側の要因もあるのです。
昨今は、1919年の五四運動に対するアメリカの文化政策の影響に就いてもよく議論になります。
〈北朝鮮と中国〉
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拉致被害者家族会が政府に北朝鮮に対する経済制裁を要請しましたが、北朝鮮はどうすると思われますか。中国はどうして北朝鮮とつながりを持っているのですか?(4月27日、学部三年) |
→ずいぶん回答が遅くなったので、前半部分はあまり回答しても意味がないと思います。中国と北朝鮮の間のつながりは、同じ社会主義国として長い関係があります。また朝鮮戦争で中国側が支援したということもあります。ただ、両国の関係が特別に安定しているというわけではありません。中国とソ連が対立したときには、北朝鮮がソ連側に就いて、関係が悪化したこともありました。北朝鮮は、ソ連と中国の双方を利用する外交をしてきました(成功したかどうかは別です)。そうした点で、北朝鮮としても中国と手を離したくないのかもしれません。また、1992年に中国と韓国が国交を結んだことは北朝鮮に大きな打撃であったと思われます。ただ、南北朝鮮の交流が活発になるにつれて、次第に問題のハードルはさがったものと思います。そして、国境問題について、例の高句麗問題で中朝間でそれが依然大きな問題であることが明らかになりましたが、国境は周恩来と金日成の間で問題にしないと棚上げにされたという経緯がありました。しかし、昨今、中国は北朝鮮を特別扱いしなくなってきています。「旧い友人」だとは言いますが、国益に基づく外交をおこなおうとしています。無論、バッファーとしての北朝鮮は重要なのですが、北朝鮮の突然の崩壊は中国にとっては否定的なシナリオなわけです。国境地帯に10万の陸軍を展開したのもそのためです。中国としては、北朝鮮問題を丸々背負うことは困りますし、責任を負わされることも困ってしまいます。そうした意味では、背負いたくない「お荷物」だということになります。
3.授業から離れて
〈戦い〉
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戦うことで見出すこともあると思います。がんばってください。(年月日不詳、学部三年) |
→励ましいただきありがとうございます。いろいろな局面で戦いながら、フロンティアを維持していきたいと思います。
〈アオザイ〉
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ちなみに関係ないですが、個人的にはアオザイのほうが好きです。(年月日不詳、学部三年) |
→なるほど。チャイナドレスの説明に対するコメントだと思いますが、アオザイファンは多いでしょうね。
<李登輝が北大を訪問したら>
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前回の李登輝の訪日の際に京大は李登輝を迎え入れなかったが、もし北大に来たら、北大は迎え入れるか。(4月27日、学部4年) |
→先般は慶応大学でもバタバタしましたね。まずは、誰がどのような名目で招聘するのかということがポイントになるでしょうね。中華人民共和国は、当然、李登輝の在外活動のすべてを否定的に捉えていますので、温泉旅行をするだけで大いに批判してくるでしょう。そして北大のポプラ並木を見るだけの行為に対して、北大が何もしなかったら、猛烈な抗議が文部科学省によせられるはずです。大学の自主、はあるものの、おそらく文部科学省、外務省との関係でどうかということが第一になるでしょう。次に、誰が呼ぶのかが問題になり、大学として招聘団体の自主的な活動として認め得るかが議論になるでしょう。政治活動でなく、彼の専門である農業建設に絞った場合とか、何か純粋学問的なことを、ある団体や学生が招聘するとしたら、もしかしたら活路が開けるかもしれません。最終的には大学の執行部の判断です。