2006年5月17日
2006年度 第6回アジア政治論講義
川島 真 shin@juris.hokudai.ac.jp
4.中英貿易紛争
(1)貿易監督官ネーピア派遣
1834年 イギリス東インド会社の貿易独占権の廃止
イギリスのパーマストン外相がパーマストンを広東に派遣
⇒ 決して敵対的な関係とする意思はなし。ただし、パーマストンの訓令の中で、着任を書面によって総督に伝達するように、という部分が問題となった。
1834年7月15日 ネーピアが広東に到着
従来は「大班」というイギリス承認のリーダー的存在はいたが、貿易監督官は存在しない。ネーピアは相次いで慣例をやぶる行動をとる。両広総督は、ネーピアを広東からマカオに退去させようとした。しかし、退去しないので、「防範夷人章程」を列挙してネーピアに規定の励行を命じた。
1834年8月16日 貿易停止の威嚇が公行商人から伝えられる。
(茶と大黄と絹の供給停止をも伝える)
1834年8月25日 イギリス側商業会議所を設置
1834年9月2日 貿易停止を総督が布告 ⇒ ネーピアは軍艦をよびよせる
1834年9月14日 ネーピアが広東を離れることを決意
1834年10月11日 ネーピア、マカオで死去
このネーピアの行動は、ある意味で、その後の清英関係を象徴している。
(2)英国内の情勢の変容
東インド会社以外のfree tradersによる、対中自由貿易要求(貿易停止にともなう損害賠償を含む) → 当初はネーピアの後任の貿易監督官たちも消極的であったが、本国の商人らが賛同。
1836年 イギリスのパーマストン外相がエリオットを派遣。協調政策を改め積極政策に転換
→ネーピアが問題とした文書形式、沙面に行く際の許可制度などを克服
→1837年には東インド艦隊が小規模ながら南シナ海へ
(3)中国内部の貿易論争
銀の流出問題 / アヘンの吸引問題
■アヘン公認論(許乃済、1836年5月) → 厳禁論(黄爵滋ら、1838年6月)
→湖広総督 林則徐は厳禁論に賛成 → 欽差大臣となり広東へ
(4)林則徐によるアヘン取締り、貿易管理
アヘン貿易の取り締まりに。1839年3月 アヘン没収、アヘン持込をしないという誓約書
→マカオへ逃れていたエリオットが広東へ。しかし、3月24日、林がファクトリーを封鎖(当時閉じ込められた外国人は350人とされている)
→エリオットはアヘンを引き渡し(2万箱) → 5月に封鎖解除
→エリオットは英国人を退去させる(林は貿易再開を望むが、エリオットは応じない)
→問題はアヘン持込者に対する法の適用
(5)川鼻の戦の開始(1839年11月)
林維喜殺害事件
1839年3月 マカオ封鎖、エリオットは香港に、9月九龍半島で発砲
1839年11月、虎門にてエリオットが中止していた対中貿易をおこなおうとした英国商船にエリオットが発砲、商船を保護しようとした中国船と交戦状態に
(6)英国艦隊の派遣
1840年 英国議会における審議
(7)戦争へ