2006.4.21 国際協力論

 

2006年度第三回国際協力論

川島真shin@juris.hokudai.ac.jp

 

 

ODAとは何か:歴史的考察(川島)

ODA政策の起源,戦後補償との関連,アジア各国との条約締結,外交政策上の位置づけ)

 

0.自己紹介

 

1.国際協力の歴史

(1)戦前期の援助 ⇒ 国際連盟への注目

()戦後初期: 1945年 世界銀行

          1947年 マーシャルプランに始まる援助

                  1947年−52年 マーシャル国務長官(ヨーロッパ復興計画)

                  冷戦構造の影響

                  受け皿:欧州経済協力機構(OEEC、後のOECD)

          1949年 トルーマン大統領、ポイント・フォア

1950年 コロンボプラン ⇒ 南アジア、東南アジア

 

http://en.wikipedia.org/wiki/Four_Point_Speech 

Four Point Speech

The four points

(1)"First, we will continue to give unfaltering support to the United Nations and related agencies, and we will continue to search for ways to strengthen their authority and increase their effectiveness."

(2)"Second, we will continue our programs for world economic recovery."

(3)"Third, we will strengthen freedom-loving nations against the dangers of aggression."

(4)" Fourth, we must embark on a bold new program for making the benefits of our scientific advances and industrial progress available for the improvement and growth of underdeveloped areas."

 

(3) 援助競合時代

    トルーマンの演説、コロンボプランに対応 ⇒ 「南」の諸国による援助申請要請

    東側: 1954年 ソ連がアフガニスタンへの援助を開始

     冷戦上の拠点となる地域の重視

1955年       バンドン会議(アジア・アフリカ会議、29カ国)

  反帝国主義、民族主義、反植民地主義…東西両陣営がAAからの支持拡大に動く

1950年代後半、国際援助組織の設立

1959年       アメリカの国際収支悪化、援助の分担化

1960年       DAGの設立へ(開発援助グループ) ⇒ 1961年にDACに

        英米仏独、EEC諸国、カナダなど。各国でも援助のための機関

        日本も、海外経済協力基金が61年、海外技術協力事業団が64年に設立。

          (日本は1954年にコロンボプランに参画、55年から研修員の受け入れ、専門家の派遣などの技術協力を開始=戦後日本の国際協力のはじまり)

 (4)国連開発の本格化

   1961年 「国連開発の十年」計画の採用 ⇒ ケネディ大統領の提案

(a)     開発途上国の経済成長を年率5パーセントに  ⇒ 成功(ただし・・・)

(b)     途上国への資本移転量を先進国の国民所得の1パーセント ⇒ 失敗

   なぜ失敗? 途上国のポテンシャルへの楽観、援助から経済成長、経済自立への転換の困難。⇒ 貿易拡大のための努力必要 ⇒ 「援助よりも貿易を」

  ★日本の国連加盟は1956年。サンフランシスコ講和会議から5年も必要であったのは何故?

 

 (5)第二次国連開発(1970年代)

   貧困からの脱却ではなく、先進国にも最終的には利益になる援助の推進。

   経済成長率が6パーセント、先進国のODA(政府開発援助)をGNPの0.7パーセントに。 

   (→ ODAという概念の登場)

   ■重要な報告 

@ティンバーゲン報告

オランダの経済学者ティンバーゲンを中心として、国連開発計画委員会が1970年代の開発のあり方についてまとめた報告書。「第2次国連開発の10年」について勧告・提言。開発には社会的な側面も配慮すべきこと、自助努力の重要性等を指摘している。具体的には、途上国のGNPの年成長率を6−7パーセント、援助をGNPの1パーセント、ODAをGNPの0.7パーセントにするという目標を掲げる。

Aピアソン報告「開発におけるパートナーシップ」

ピアソン元カナダ首相を委員長に7人の委員が作成。マクナマラ世銀総裁からの委嘱。

1970年代の開発戦略に関する報告書。1969年の世界銀行・IMF年次総会で公表。南北問題への勧告、援助の伸び悩みの解決、ディンバーゲン報告を受けた第二次国連開発の十年を受けて、各先進国のODAのGNP比0.7%目標や、借款の供与条件などについて目標を勧告。→日本のODAはこれによって急速に拡大する。

     ★他方、途上国への開発援助が国民全体に広まるのかどうか(トリックル・ダウン)という不安…そこでBasic Human Needsがマクナマラ世銀総裁によって提起されることに

    → カーター大統領による人道外交

   【参考】当時議論されていた手続き論として重要なのは、UNTIED化の問題である。援助主体が、それに用いる物資などを援助国からのみ供給しえるとする「ひも付き」について、それを緩和する方向性がとられるようになる。DACなどで頻繁に議論され、援助対象国もそこに含めていくようになっていく。⇒日本の無償資金協力ではどうか?  

 

  この二つの報告書は以下のものとなって結実 

 ◆国際連合第25回総会(1970年)「第二次国連開発の10年のための国際開発戦略」採択

   

 [新国際経済秩序] 

    1973年 オイルショック → 途上国の開発にとっても大きな問題に

    おりしも、食糧危機が重なる。アフリカ、インドなどでの旱魃。

    1974年4月 国連特別総会:新国際経済秩序

 「NIEOの樹立に関する宣言および行動計画」

            →資源保有国による価格決定など → 先進国の反発、骨抜きに

    1974年12月 「国家の経済権利と義務に関する憲章」(国連総会)

            天然資源に関する途上国の主権認める。

            一次産品共通基金などが設立される。

 

(6)第三次国連開発(1980年代):構造調整の時代

  1980年の国連総会。ブラント元西ドイツ首相を委員長とする委員会が、「南と北−生存のための戦略」という報告書を事務総長に提出した(ブラント報告、と呼ばれる)。これは南北が相互補完的に関係付けられていることを指摘し、南北双方の対話と経済構造全体への見方の転換を先進国側に求めるものとなっていた。これを受け、国連も第三次国連開発を採択する。ここでは途上国のGNP成長率を7パーセント、ODAの対GNP比率を0.7パーセントとすることなどが目標付けられた(最終的には1パーセントを目指す)。

  ■ 国際連合の位置の相対化、NGOの登場

しかし、1980年代には国際経済援助において国際連合の果たす役割は限定されており、次第に世界銀行、OECDのDACなどに中心が移っていった(90年の第四次計画は殆ど注目されていない)。また、80年代には非政府援助団体NGOが、単なる「草の根」ではなく、主要なアクターとして認知されるようになってきた。

  ■ 累積債務問題の発生

  石油危機、一次産品価格の低迷、国際金利の上昇等により、途上国の財政悪化。

1982年には、メキシコがモラトリアム宣言

1983.            ナイジェリア、フィリピンの返済難

     債権国側の対応(パリクラブ)

■ 構造調整貸付

    世界銀行のプロジェクト。

■持続可能な開発、内的発展などがテーマに。

 

(7)グローバルな問題の先鋭化(1990年代)

 東西緊張緩和、冷戦終結などにともない、グローバリゼーションが定式化し、問題は共有されるようになってきている。急速な人口増、貧困などといった問題、地球環境への負荷の急増、さらには衛生問題、エイズなどの問題の深刻化などがあげられる。

   1996年のDAC上級会合は2015年までに最貧困生活者を半減させ、初等教育を普及させること、持続可能な開発戦略をあらゆる国家で実施することなどを提唱、また98年に世界銀行は「新たなパラダイムに向けて」を発表して、開発とともに社会変革をもおこなうべきだとしている。そうしたところから、民主化支援が位置づけられるようになってきている。

 

  しかし、9.11に見られるように、開発のひずみ、また社会変革を求める開発の価値的な問題などが、テロなどの新たな動向を生み出すようになってきており、開発はまたあらたな局面を迎えてきている。

 

                                                            

 

2.日本のODAの系譜

 

【問題関心】

(1)日本のODAは、戦後賠償とどのような関係にあるのか。

(2)日本のODAは、どのような背景の下に実施されているのか。

(3)日本のODAには、どのような問題があると考えられ、どのように改善されてきたのか。

(4)日本のODAには、ほかの国と比べた場合、どのような特徴があるのか。

(5)日本のODAは、国際社会、また対象国からどのように評価されてきたのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北京日本学研究センター拡充計画

実施年度

平成13年度

供与限度額

8.5億円

案件概要

北京日本学研究センター(以下「センター」)は、中国における日本語・日本研究、日本との交流に携わる人材の養成を目的として、国際交流基金および中国教育部双方の協力により、1985年に設立された教育・研究機関である。(前身は1980年に創立された「日本語研修センター」(通称「大平学校」))●このセンターは、これまで修士課程終了者約300名、博士課程修了者約40名、日本語研修生約300名を輩出し、中国における日本研究の中心的な役割を担っており、センターの卒業生は現在中国各地方の日本語教師などとして活躍している。●センターは、北京外国語大学の第2教学楼内に1950年代に建設された建物を使用しているが、老朽化が著しく、また、中国で最も多く日本関係図書を所蔵する図書館の安全性にも不安があり、新施設の建設が強く求められていた。●このような状況の下、平成11年7月の日中首脳会談(小渕恵三元総理訪中時)において、日中の知的分野での交流を促進することが合意された。●本件は、センターの教育・研究環境の向上と、学術共同利用機関としての機能の強化のため、日本語や日本文化を学ぶ学生のための自習室やコンピュータ室、一般の方にも開かれた図書情報資料館、センターの活動を対外的に示す場としてのホールなどを備えた、日本学研究の中核としてふさわしい施設を建設するものである。●本件実施により、中国における日本研究の充実、日本を理解する人材の育成、日中の知的交流の深化が期待される。