愛知大学北京シンポジウム
中国における「国際的地位の向上」
−中国外交に通底する課題−
昨今、中国外交史研究において、従来から言われてきていた「侵略と抵抗」「弱国無外交」といった側面から事象を説明することは稀である。現在中国が急速に国際社会にコミットメントを深め、同時に研究の面でも外交文書が中国でも台湾でも公開される中で、新たな中国外交への視線が形成されつつある。
こうした外交史研究は、歴史的に見た近代以来の中国外交の特徴を導き出しつつある。それは以下のとおりである。第一に、侵略された国権を取り戻し、これ以上主権を侵害されたり、利権を奪われたりしないようにすること。第二に、外交を制度面、政策面で「近代外交化」していくこと(制度面などでの国際標準の受容、第一と重なるが不平等条約改正など)。第三に、文明国として国際標準を受け入れ、役割を果たす中で国際社会の中で一定の地位を占め、その国際的な地位を向上させ、ひいては大国として認知されるようにしていくこと。そして、第四に周辺諸国との協調を図り、自らの安定的な成長のための環境を整えようとすること。
このうち、昨今特に重視されるのが第三と第四の点であろうが、中国外交史から見た場合、これらは必ずしも昨今の傾向というわけではなく、ある意味で19世紀以来一貫した方針だと考えることもできる。特に第三の「国際的地位の向上」については、清末以来、中国の外交担当者たちが腐心してきた問題であった。そこで本稿では、その経緯を紹介し、そこにおける問題性、議論のありかなどについて検討していくことにしたい。
1.胡錦濤主席の国際連合での演説
2005年9月14日、胡錦濤主席は国際連合成立六十周年の席で「普遍的な発展を促進し、共同の繁栄を実現する」(「促进普遍发展 实现共同繁荣」)と題した演説をおこなった。そこで胡主席は以下のように述べた。
中国是最大的发展中国家。当前,13亿中国人民正在中国特色社会主义道路上开拓前进,继续为提高发展水平和人民生活水平而奋斗。我们将坚持以以人为本、全面协调可持续的科学发展观统领经济社会发展全局,坚持以经济建设为中心,坚持以提高人民生活水平为发展的根本目的,大力建设资源节约型、环境友好型社会,走生产发展、生活富裕、生态良好的文明发展道路。中国将坚持对外开放的基本国策,建立更加开放的市场体系,在更大范围、更广领域、更高层次上参与国际经济技术合作和竞争,同世界各国广泛开展平等合作,积极推进利益共享、互利共赢。中国将切实履行加入世界贸易组织的承诺,继续降低关税,扩大开放领域。中国经济的稳定长将继续对世界经济长作出重要贡献。
安保理の常任理事国である中国が、国際社会の一員として、国際社会との協調の下に、その発展に貢献していくことが切々と述べられる。これは、さきに挙げた、中国近代外交における政策目標のうち、これまでの歴史で看過されがちでありながら、昨今、中国が強調し始めている第三の点、すなわち「文明国として国際標準を受け入れ、役割を果たす中で国際社会の中で一定の地位を占め、その国際的な地位を向上させ、ひいては大国として認知されるようにしていく」側面に通じるものである。この文脈では、胡錦濤が国連で強調したように、中国が周辺諸国に脅威を与えていくものだとは(中国的には)認知されない。
2.歴史の中の「国際的地位の向上」(1)−第一回海牙和平会議−
外交史的には「国際的地位の向上」として描かれる、この側面は、国際社会の中で一等国(文明国)として認められること、本来の「中国」の姿を取り戻すこと、不平等条約改正など実際の国権回収交渉などを有利に進め、国権喪失を防備することなどに関連する重要な政策目標である。明治期以降、三等国、二等国、一等国などといったことに腐心した日本外交を想起すれば、理解が可能であろう。日本は、自らが一等国として認知されていく過程で、目標を欧米に定め、中国を反面教師としてきた面がある。自分が文明国で、中国は非文明国、これが日本の近代外交の基調であった。
だが、中国もまた日本と同様に国際的地位の向上をはかり、二等国、一等国となろうとしていたのである。中国も、単に富国強兵、殖産興業だけでなく、ハーグ平和会議などの国際組織の一員となり、世界標準にのっとり外交活動するとともに、相応の負担を負う中で、国際的地位の向上を追求したのである。このような地位の向上は、やがては「大国化」「列強化」にもつながる重要な局面である。中国の「国際的地位の向上」は何も抗日戦争の勝利だけによって達成されたわけではない。中国が国際連合の形成期に大きな役割を占められたのは、何も主要戦勝国だったから、ということだけではないだろう。そこには、ハーグ平和会議から国際連盟へといたる国際主義、あるいは数々の国際的な平和会議などの、清末以来の文脈があったのである[1]。
中国が最初に所謂国際会議に参加したのは、一八九九年の第一回ハーグ平和会議ことである。このときには二十六の主権国家が会議に参加した。中国は、不平等条約体制下にあったのではあるが、基本的に他国と平等な主権国家として参加した。しかし、このときの中国は実質的に傍聴者であった。特に積極的に発言することもなく、「ハーグ陸戦条約」以外の二条約(「国際紛争に関する平和的処理に関する条約」など)に調印した。ハーグ陸戦条約に調印しなかったのは、中国に近代的な陸軍が形成されていない状態で、この条約に調印することに無理があったからである。ただ、極めて興味深いのは、同年開かれた万国郵便会議においても見られる一つの現象である。それは、中国が経費負担の面で、自らを「頭等国家」=「一等国」であると認識して、相応分の経費の負担などを申し出て、認められている点である。分担金は日本よりも多い。一八九九年は、戊戌変法が失敗におわり、政治が急速に保守化、もっとも伝統回帰が進んだ年だとされている[2]。中国が本来持っていたい自画像としては一等国、ということになるのであろうか。この点はいっそう深く研究しなければならない重要な論点である。
また、ハーグ平和会議でサインした条約は、結局義和団事件の混乱の中で批准されずに持ち越されてしまう。しかし、日露戦争に直面した中国は、「国際紛争に関する平和的処理に関する条約」の批准をおこない、ハーグ平和会議加盟国として、すなわち一つの文明国として日露戦争に対する「国際法上の中立」を実行しようとしたのであった[3]。この結果については問わないにしても、中国が国際的な地位や国際条約を利用して国内で発生した外国間の紛争に対処しようとした点で重要である。
3.歴史の中の「国際的地位の向上」(2)−第二回海牙和平会議−
第二回のハーグ平和会議は、日露戦争後の一九〇七年に開催された。この時には、この会議の重要性は、少なくとも外交官には認知されていた。ハーグに派遣された陸徴祥公使は、各国が大使級の代表を派遣する中で、自らが公使であるため立場上不利になることを切々と本国に訴えていた。会議が開催されてから、中国にとって大きな問題となったのは、国際司法裁判所における判事の任期に関する問題であった。判事について、欧州六カ国とアメリカ、日本は任期期限なしの常任となったが、他国は非常任、すなわち任期が付されたのである。この任期について、十年任期と四年任期の二種があり、それぞれが二等国、三等国に該当していた。中国としては、当然二等国扱いになるであろうと考えていたところ、日本を筆頭として、南米諸国なども、中国には領事裁判権が設定されていること、近代的な司法制度が整備されていないことなどを理由として、三等国として扱うように主張、会議はその方向に流れていくことになった。中国は国際司法裁判所関連の条約についても、サインすれば多くの義務を負うことを恐れ、調印を控えたまま、結局辛亥革命前後の混乱を迎えることになった。
第二回ハーグ平和会議で日本が中国を三等国だと主張したことは、二〇世紀の最初の十年に多くの留学生が来日し、また日露戦争の日本の勝利が中国の政治変革に影響を与えたとされる言説からすれば、奇異かもしれない。しかし、外交史的には決して理解に苦しむことではない。明治以来、文明国化、条約改正を目指す日本にとって、欧米は目標ではあったが、中国は否定的目標であった。これは近代日本のアイデンティティ形成やアジアからの衝撃論などとも関わるが、外交史的には当時の条約改正交渉において、日本が条約改正をおこなえば、中国もまたそれを要求するであろうことが、欧米諸国から極めて危険視されていたということが重要である。従って日本は殊更に自らを文明国として表現し、中国を野蛮国家として宣伝したのである。一八七四年の「台湾出兵」における日中交渉で、日本側が中国のある官僚の「化外の民」発言を利用して、自らの行動を英字メディアなどで正当化しようとしたことなどは好例である。また、日露戦争における日本の勝利がアジア諸国の民族運動や立憲運動に大きな影響を与えたという言説があるが、相当に割り引きながら考えるべきものなのである[4]。日本の勝利がアジアの民族主義や立憲運動に影響を与えてないとまではいえないが、一九二〇-四〇年代のアジア主義、大東亜共栄圏の形成期、たとえば一九三五年の日露戦争勝利三十周年前後に、過度に強調されたものと考えられるのである。
また、この第二回ハーグ平和会議についていま一つ注意すべきは、国際社会における「中国の文明国化」、「中国の国際的地位の向上」における敵手としての日本が、すでに日露戦争直後に現れ、中国側にもそう認識されていたということである。中国の歴史観では、日本近代は一貫して中国への野心をもっていたとするが、それが激化した時期として、日清戦争とともに二十一ヵ条が挙げられ、日露戦争は看過されがちである。実際、中国における反日運動なども、二十一カ条条約以後激化する。だが、このハーグ平和会議のときに、中国の外交官たちは日本という「敵」が眼前に出現していることを強く意識していたのであった。
4.歴史の中の「国際的地位の向上」(3)−国際連盟の成立−
中華民国成立後、袁世凱は、一九一四年に開催が予定されていた第三次ハーグ平和会議に向けて準備を命じ、準備委員会が設けられた。周知のとおり、第三次ハーグ平和会議は、第一次世界大戦により開催されないのだが、中華民国はあくまでもハーグ平和会議という場(会議というよりも国際組織としての場)を利用していくつかの外交政策を展開しようとしていた。その第一は、不平等条約改正に向けての包括的な原則を提出しようとしていたことである。領土・主権・行政権の尊重などがその一つである。第二は、国際的な地位の向上である。国際機関に相当するような場におけるパフォーマンスによって、中国の国際的な地位を上げることは、中国の外交官のひとつの目標であった。第三は、個別具体的な問題をこの場で解決することであったが、この点については列強間のバランスもあり、常に困難であった。第三次ハーグ平和会議は開催されなかったものの、中華民国は一九一七年にあらゆるハーグ平和会議関連の条約に調印、批准、そして第一次世界大戦に参戦したのであった。中国は、そうした国際標準にのっとって、ひとつの文明国として敵対国の財産を処理するなどしたのであり、戦勝国の立場でパリ講和会議に参加することになったのである。そして、そのパリ講和会議で顧維鈞らが提起した内容こそが、第三回ハーグ平和会議向けに準備されていた内容でもあったのであった。
第一次大戦は、対ドイツのヴェルサイユ条約(中国調印せず)、対トルコのセーブル条約(中国調印せず)、対オーストリア、サン・ジェルマン条約などにより終結するが、中国はサンジェルマン条約に調印し、その第一条の条文に基づいて、中華民国は国際連盟の原加盟国となった。パリ講和会議では五四運動との関連が有名であるが、実際には五月四日以前に中国代表団は不調印の方向を決めていたのだが、調印しないと国際連盟に加盟できないと考えられたため結論が保留されたのだった。そして、サンジェルマン条約に調印すればいいことがわかり、ヴェルサイユ条約には調印しない方向付けがなされていく。五四運動それじたいは政策決定にそれほど大きな影響を与えない。だが、このパリ講和会議で重要だったのは、講和条約に調印するか否か、ということだけではない。実は、国際連盟の規約制定会議がパリ講和会議で開かれていたのである。その場こしが中国外交には重要であった。顧維鈞らは、日本がアジアを主導し、アジアの問題はアジアで処理するということになる可能性をもったアジアモンロー主義が容認されないように、モンロー主義的な国際行動を批判する条文を規約にいれ、また非常任理事国の選挙制度においては、東欧、南米諸国と競合することを避けるため、アジア洲、南アメリカ洲など、洲別に非常任理事国枠を設ける分洲主義(地域主義)を規約に挿入することに成功するのである。他方、人種平等案件などについては、日本と協調する側面もあった。
しかしながら、パリ講和会議における全権代表数などを見れば、当初五名(一等国)を期待した中華民国も、結局与えられた議席は二席というように、依然として三等国待遇は続いていた。これは中国代表団には大きな衝撃ではあったが、それでも国際連盟規約の策定段階など重要な局面で存在をアピールすることができた。
国際連盟における分洲主義の採用は、非常任理事国が「アジア」の中から一国選ばれることを意味した。当時、常任理事国に拒否権がなかったことを考えれば、非常任理事国になることは重要である。実際、中国はイランやシャムと調整をおこない、初代の非常任理事国となり、その後連続して選出された。一九二一年には、理事会で中華民国代表の顧維鈞が議長を務めるなど、従来の国際会議では考えられなかった状況になった。また、連盟の負担金も、時に日本を上回る額を負担するなど、存在感を示そうとした。無論、当時の中国の国内状況から考えて、国際社会の中での「責任ある大国」になるのには無理があった。実際、一九二三年の非常任理事国選挙では、中国国内の排外運動、外国人襲撃を取り締まれず、外国人保護が問題となった臨城事件の影響もあって落選、分担金は財政破綻により払えなくなる。しかし、それでも国際司法裁判所判事などを中国は送り続け、一定の「国際的地位」を維持した状態で、一九二六年には非常任理事国に返り咲く。
蒋介石らの北伐の結果、一九二八年に南京国民政府が成立する。この政府の外交は、革命外交をスローガンとするが、基本的に北京政府の外交政策を継承した。違ったのは、ナショナリズムに依拠した宣伝と動員に長けていた点である。その南京国民政府を国際連合は歓迎したわけではない。一九二八年には非常任理事国選挙に落選、中国では連盟脱退論が生じる。だが、一九三一年に非常任理事国に選出され、北京政府が背負った負債(連盟分担金の未納分)についても、中国への援助に切り替えることを条件に国民政府が負担に応じることになった。国際連盟の衛生部長ライヒマンが中国を訪れるなど、国際連盟と中国の「蜜月」が現出される。満洲事変はまさにこうした時期に発生したのであった。確かに、国際連盟は日本の対中侵略を阻止することはできなかった。そうした意味では、中国でも国際連盟は否定的に捉えられがちである。しかし、中国が非常任理事国でなかったらリットン調査団をめぐる審議をあのように運ぶことができたかどうか、疑問が残る。
こうした中国の連盟での地位は、国際連合の成立時にも見られる。それは、五大国のひとつとなったという国際政治的な成果だけではなく、顧維鈞らが国際連合規約制定に深く関与したことにも見ることができる。国際連合規約に分洲主義、人種平等などは中国側の主張で規約に盛り込まれていく。日本が国際連合安保理の非常任理事国に選出される際にも「アジア枠」から選出されることを考えれば、この国際連盟時に中国が努力した「分洲主義」採用の影響は、戦後は日本に及ぶことになった。
中国では国際連合のことを「連合国」と呼ぶ。これは中国でも台湾でも共通している。中国は米英ソに告ぐ「大国」として、国際連合召集の呼びかけ国家となったのであり、それが第二次世界大戦の連合国の主要国家であったことに由来することを考えれば、この呼称は自然であろう。いずれにせよ、台湾に逃れた中華民国が「大国」とは言いがたい状態になり、西側国際社会において実質的なパワーを失っても、一九七一年まで国際連合における象徴的とも言える五大国の地位を維持できたのには以上のような経緯があったのであった。だが、中国の(実質的な意味での)国際的地位の上昇という課題は、その後に持ち越されていくことになったのである。
中国の外交史を見る場合、このような国際社会における地位の向上という不断の「努力」について看過するわけにはいかないだろう。これは必ずしも強権的に推進されたものではなく、制度を策定、利用し、また外交交渉によって実現していったものと言っていいだろう。だが、国際的地位の向上の先にあるものが一種の大国化であることは否めない。これは「和平掘起」(国際的な協調の下での大国化)という中国の昨今の政策にも通じるものなのかもしれない。そして、この国際的地位の上昇のプロセスにおいて、日本が頻繁に否定的な存在としてあらわれることもまた、重要な論点である。
[1] この点については、前掲拙著『中国近代外交の形成』でも論じているが、最近の論考として唐啓華「清末民初中国対『海牙保和会』之参与(1919−1928)」(『政大歴史学報』23期、2005年5月)参照。唐には、『北京政府與国際聯盟(1919−1928)』(東大図書公司、1998年)もある。
[2] 坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、一九七三年、四六三−四六四頁)
[3] 拙稿「日露戦争と中国の中立問題」(軍事史学会編『日露戦争−国際的文脈−』(一)、錦正社、二〇〇四年所収)
[4] 拙稿「『日露戦争と中国』をめぐる議論の変容」(日露戦争研究会編『日露戦争研究の新視点』成文社、二〇〇五年所収)