中国現代史研究会・2003年度総会

中華民国前期の不平等条約改正史

 

川島 真(北海道大学法学研究科)

shin@juris.hokudai.ac.jp

 

中国の近代外交史を考察する上で、不平等条約改正史は重要な課題である。そもそも、不平等条約とは何で、それを改正するとはどういうことかという定義の問題がある。また、その改正過程をいかに描くかということが政権の正当性との関係と密接に関わるということも大切である。これは、パリ講和会議を「中国が最初に世界にNOと言った瞬間」として捉えた映画「我的1919」が、中華人民共和国の新たな正当性構築に関わることからも見て取れる。だが、本報告では、こうした政治的なコンテキストから敢えて距離を置き、外交档案に基づいて可能な限りその過程を明らかにしようとした。具体的には、第一に、清末における不平等条約改正史について、何時ごろ改正すべきものとしての「不平等条約」を認知するのかという問題を提起し、「有利・不利」は坂野正高の指摘するように同治年間に、また条約改正の理念は黄遵憲『日本国志』などにあらわれ、最終的には義和団事件の後の光緒二十八年に締結された有名なマッケイ条約(続議通商行船条約)の第十二款に条約改正への可能性が示され、光緒三十三年の第一回万国和平会議において清が三等国に列せられるに至って政策化されたとした。中華民国北京政府は、基本的に清朝の外交政策を継承し、不平等条約改正を企図した。「文明国として受けるべき権利を享受すること」が中華民国の建国の精神に盛り込まれていた。具体的方策としては、まず国内で法・制度を整備して西欧化し、国外では国際的地位の向上に努め、条約の有効期限が来て再締結する際に可能な範囲で不平等性を払拭していくという方式をとった。これは修約外交と呼ばれた。交渉手法としては、欧米日とは国際会議で交渉をおこなって二国間交渉をさけるのに対し、南米やアジア諸国あるいはドイツなどの敗戦国とは二国間交渉をおこなって平等条約を締結しようとする、というものであった。民国初年には、チリ条約などが結ばれ、限界があったにしても一部の条約を改正し、無約国国民については、中国人と同様に扱うこととなった。他方、第一次大戦後には、欧州の新独立国との条約締結と条約が結ばれたが、ここでは不平等条約を締結しようとする東欧諸国と激しい応酬となったが、将来への改正の可能性を担保した状態で条約を結んだ。このような北京政府の外交は、基本的に南京国民政府に継承され、「革命外交」というスローガンと相まって、中国の近代外交の根幹を成していった。