不平等条約改正史にみる中国近代史の歴史ディスコース

 

川島 真(北海道大学大学院法学研究科副教授)

 

筆者は、「国民政府廃除不平等条約六十週年紀念」学術討論会(台北陽明山、中国国民党主催、2002年10月18日〜20日)に参加した。筆者は、19日午前に自らの報告をおこなったあと帰国したので会議の全貌は知らないが、18日晩に開かれた「不平等条約的定義問題」に関する座談会は大変興味深かった。畏友である唐啓華教授の「『不平等条約』定義及相関問題引言大綱」はもちろん、そこでの議論全体が筆者にとっては大変印象深かった。以下、その議論による啓発を契機とした不平等条約改正史に関する問題点について記してみたい。

そもそも不平等条約とは何か。不平等条約改正史を研究対象とする場合、如何なる切り口がありえるのだろうか。本来なら、中国における不平等条約改正史も、国際法史や他国の歴史との比較の中で論じられるべきであろうが、ここでは主に中国史における不平等条約改正史について、その外交史的アプローチの可能性から考えてみたい。

 不平等条約改正史というテーマは極めて複雑な背景を有している。第一に、これは国家や政権の独立、存立基盤と関わるため、不平等条約を誰がどのように改正していったのかということが、正当性を調達するリソースになりえるということがある。従って、政権を奪取せんとする勢力、奪取した勢力などにとって、不平等条約改正は「運動」「宣伝」「動員」などといった詞と関連する存在であった。こうしたことから、第二は、不平等条約改正は「運動」としてあり、これは必ずしも外交史的なコンテキストとは一致しないということである。第三は、上記の二点からわかるように、同時代を体験した、あるいは後世の歴史教育を受けた者にとっての「記憶」は、ほとんど「宣伝」「運動」の論理の中にあったのではないかということである。第四に、こうした状況をこれまでの学界も影響をうけ、中国の外交史を「宣伝」「動員」「運動」の中にあるそれと同一視してきた様子があるように感じる。

 無論、同時代人であれ、後世の人間であれ、それぞれの歴史意識や時代観は実に重要であり、それぞれ相対化しながら究明すべき内容である。だが、一方でいわゆる「外交史」的実証は、史料にもとづいて淡々と史実を述べる中で、そうした「(創られた)記憶」に一定程度の反論を試みることができると思われる。外交史のような無味乾燥なジャンルがなぜ存在意義をもつかといえば、価値や判断が優先しがちな外交の世界において、一定期間を経た後にそれらを相対化するコンテキストを外交史が提起できるからではないか。

 他方、不平等条約という場合、その内容において当事者間の得る(額面上の、あるいは実質的な部分で得る)利益において差異がある際に、それを不平等条約だとする見解が見られる。これは昨今の「全球化」(グローバリゼーション)の中で、たとえばWTO関連の諸条約が不平等条約などとする、ある意味でナショナリズム的な言説の中に見られるのが、条約が一種の契約である以上、またある政治的な判断の結果として、双方合意nうえでなされるものである以上、時に当事者間において内容が対等でないことが充分にあっても、それは不平等条約とは通常よばれない。

 また、不平等条約の問題性を、政治や軍事、あるいは経済のパワーで説明しようとする向きもある。強国と弱国の間の力関係であると。武力をもつ強国が弱国との間で結んだのが不平等条約であるという理解である。これは一面で真実であるし、砲艦外交はなやかなりし19世紀の後半に中国でおこったことを想起すれば、戦争による敗北と不平等条約の締結を結びつけて考えるのは当然のことかもしれない。しかし、戦争の敗北によって締結される条約における賠償規定などは、欧州諸国間でもあることであるし、一方で日本のように決して戦争に負けずとも不平等条約を締結した国もある。他方、強弱で以って不平等条約を理解していると、自らが「強国」になって初めて不平等条約が改正できるということになる。これも一面で真実なのだが、これだけで説明できるかというと、たとえばシャムが「近代化」を評価され、また領土を切り崩して改正していったことを考えれば、「強弱」だけで説明できるわけではないことがわかるだろう。

 では、不平等条約とは何か。これは、外交史的な観点では、一般的に以下のように説明される。ウェストファリア以来の主権国家体制が世界に拡大する中で、いわゆるFamily of Nations の構成員にどのような「国」がなりえるのか、そしてそれらは対等なのかという問題が浮上し、次第に文明国と非文明国の弁別がなされ、両者間では主家国家間の平等という原則に反した「不平等」な条約を締結する可能性が開かれた。ここでは、キリスト教国以外に主権国家体制を拡大していく際の新たな基準である「文明」という観念が重要となる。無論、植民地化や戦争を通じた侵略を正当化するために、あるいは自らの市場を拡大するために、このような「文明」という基準をつくったという面もあるのだが、外交史の観点からすれば、不平等条約はこのような観点から位置づけられたものだと言える。そして、不平等条約をつきつけられた諸国は、「文明化」することによってこの不平等条約を克服できることになる。だが、現実的に不平等条約の改正は、大枠としては文明国化によって達成されることになるのだが(日本・シャムなど)、このほかにも革命外交(トルコなど)、そしてこれは慎重な議論が必要だが文明国とされる国の直轄植民地となることなどにより達成されることがある。そして具体的な過程は、文明国化に向けての国内における基盤整備を背景とした、条約改正交渉、条約破棄通知・新条約締結、戦争や国際会議などにおける国際地位の向上などとして現れていく。これは外交史と国際政治史の接点であろうし、後述のように、中国において不平等条約改正史と国権回収運動史が一緒に論じられてきたことの背景であろう。

 不平等条約の定義もたいへん難しい。条約内容が不平等だということならば、前者のように不平等条約の範囲が拡大しすぎる。逆に、「文明国」「非文明国」という面だけから説明しようとすると、治外法権は法制整備、関税自主権は税行政、租界もまた法制などの生活保障能力などの面から、その存在理由が説明可能なものの、勢力範囲設定とか借款契約ともなると、一種の契約としての要素もあり、説明が難しくなる。

 他方、不平等条約の内容を見れば、治外法権や関税自主権、最恵国待遇などが問題となるが、こうした内容が条約文にあれば直ちに不平等条約だと認じていいというわけでもないだろう。つまり、たとえば1871年の日清修好条規のように双務的に治外法権を認め合えば「平等」条約であり、最恵国待遇も現在の中米関係で問題になるように、双方が認めれば「平等」である。関税自主権については、一般的に主権国家が有するものだが、これも片方だけが喪失すれば不平等となる。

 不平等条約というものは、厳密に定義していくと、これまでの歴史で語られてきたコンテキストとはずれていいってしまうことがわかる。これまでの中国外交史では、いわゆる列強と締結した条約の殆どが不平等条約のように考えられてきたのであるから。外交史的な面から見れば、不平等条約は2国家間、あるいは複数国家間に締結された条約などの取り決めで、当事国の一方が「文明国」で一方が「非文明国」であることを根拠とした、文明国にのみ特権を認めるもの、だということになる。具体的には、片務的治外法権、片務的関税自主権、片務的最恵国待遇、一方的な租界設置などがその内容となろう。

 では、これまでの中国における理解とのギャップはいったいどこにあるのか。ここで、不平等条約とは別の、主権侵害、あるいは国権侵害という考え方を想起してみたい。独立自主の中国の主権が侵害されている条約をすべて国権や主権を侵害された条約だと考えると、上記のような不平等条約にまつわる問題性をクリアすることができる。すなわち、たとえば当事者である中国側のある政権が鉱山利権などを担保として外国あるいは外国企業と借款契約を結んだ場合、不平等条約的な観点からすれば単なる契約に見えるが、国権侵害的な観点からすれば、これも明らかに国権回収の対象となる条約となる。

 だからこそ、国権回収のコンテキストと不平等条約のそれが必ずしも同一ではなく、従って運動の局面でも、前者の回復をねらう国権回収運動と後者の不平等条約改正運動は同じではないということになる。このズレは、たとえば旧租界の外国財産問題となってあらわれる。つまり、第二次世界大戦の終結にともない、敗戦国である日本の在華財産が戦勝国である中国に接収されることは当然だが、他方、租界の英米仏財産については、租界回収にあわせて、彼らの財産を普通の所有権などに切り替えなければならない。だが、このような考え方は不平等条約改正的な考え方のようであり、実際には在華外国人財産は殆ど保障されないまま中国政府に全て接収されてしまった。これは、国権回収運動的な観点から導かれる結論だろう。つまり、「もともとは中国のものであった」という点が、「法的手続き」よりも優先するのである。

 中国では、国権喪失過程と国権回収という観点が強く、民国期における代表的な外交史のテキストである『外交大辞典』が不平等条約の定義として「強国脅以武力,在弱国取得利益,由条約規定弱国所履行之義務,此等条約,即謂不平等条約」[1]と述べているように、強弱が強調され、従って主権侵害に属する条約が、如何に強国が弱国に強いるかたちで締結されたのかということが問題になり、さらには弱国である中国が強国になることによって、この不利な状況が克服されると考えられたのであろう。これはもしかしたら、治外法権と関税自主権の改正を国内法の整備や文明国化によって実行しようとした日本のそれとは異なるもののように思えるし、同時に革命外交とも異質なもののように思える。

 では、中国において文明国化の志向が無かったのかと言われれば、それもまた否である。歴史的なコンテキストから考えれば、清末民初の時期は国内制度の整備と外交交渉によって問題を解決しようとする不平等条約改正的なコンテキストが比較的強く、国民政府期になってから国権回収運動を自らの正当性の源としてナショナリズムを喚起して国民統合に利用するようになったのであろう。無論、国民政府期初期に強調された革命外交もあるが、革命によって従前の条約などを継承しないで新たな平等条約を結ぶといった成果は殆ど見られず、実際には北京政府期以来の修約外交による成果を継承するかたちであった。だが、革命外交が修約外交が決定的に異なっていたのは、国民に状況を訴え、国民の愛国心や国民意識を動員しようとする点である。

 では、改正という点に眼を転じてみよう。一般的に中国の不平等条約改正の完成は、第二次大戦中、連合国が国民政府に、枢軸国(日本)が汪精衛政権に諸特権を返還したことを指。しかし、たとえば王建朗をはじめとする大陸の研究者は必ずしもこれと同じ立場をとらない。そこには、中ソ友好同盟条約もまた不平等条約ではないかとする視点や、国民政府や汪精衛政権が接収しきれなかった利権がそこにはあるとする視点がある。国権回収という観点から言えば、香港・マカオの返還までそれが継続していたということになろうし、上記のような外交史的な観点から言えば、中ソ友好同盟条約は文明国・非文明国という背景で結ばれたものではないであろうから、中国に不利益な諸条項を全て撤廃してしまった1943年がひとつの区切りになるように思える。

 ただ、どちらの立場をとるにせよ、中国は「文明国化」することによって不平等条約を改正し、国権を回収したわけでは、必ずしもないということ、あるいはそういったコンテキストでのディスコースが形成されてきていないということに注意しなければならないだろう。中国史におけるコンテキストは、外交史というよりも、国権回収運動史であり、国際法的というより、パワーバランス論に依拠した国際政治史的であった。これは、中国が第二次大戦において連合国の主要メンバーとなり、戦勝国となることが確実視された時点でその改正を実現したという歴史過程それじたいに対応しているという面もある。そして、現在の中華世界に大きな力をもっている大陸と台湾がともに、「近代性」よりも「ナショナリズム」「富強」を自らの正当性の源としてきたからではないかと考えられる。無論、共産党より国民党のほうが「近代性」を歴史的に重視してきたが、それよりも「富強」「ナショナリズム」で自らを位置づけた面が強いのではないか。それは中華民国が台湾に移ってから、日本による植民地統治との対比の中で、すなわち日本のもたらせた「近代性」との比較の中で、中華民国が台湾社会に如何なる「近代性」をもたらせたのかという問題にもつながる。そして共産党政府が、大陸においては昨今「革命」にかわって、「富強」「富裕」「ナショナリズム」だけでなく、ある種の「近代性」を共産党が自らの正当性として調達するケースも見られる中で、この不平等条約改正史を如何に位置づけるかという問題にもつながろう。中国では「文明」という詞を昨今よく使う。この「文明」は日本語の文明とは意味がことなるが、現代中国的な文脈での「近代性」を示すものであるとも思える。

 そして外交档案にもとづいて「外交史」を語るということは、単に中華民国北京政府に文明国化への志向、近代性の重視が見られたという埋没した歴史的コンテキストを発掘するだけでなく、中国史の語り口それ自体を問い直していく、歴史的ディスコースの相対化の意味もあるように思うのである。



[1] 「不平等条約」(外交学会編『外交大辞典』中華書局、1937年、P.82-83)