28/NOV/02
台湾(政治)思想史の必要性
川島 真
台湾のことを勉強していて物足りない感じがすることに、(政治)思想史の実質的不在ということがある。思想史確立の試みはあるのであるが、どうも歴史や文学に比べると、勢いが無い。まして哲学ともなれば尚更である(「台湾哲学」が成立するかどうかは別問題だが)。たとえば、戦後台湾のアイデンティティ問題をかんがえるとき、
→植民地下で醸成された台湾人意識
→ 二二八事件でかたちづくられたナショナルな「台湾」「台湾人」
→ 日本ついでアメリカでねられていった「台湾」「台湾人」
→ 美麗島事件などに代表されるように党外運動に取りこまれた「台湾」「台湾人」
→ 台湾化が進むなかで体制イデオロギー的になった「台湾」「台湾人」
→ 大陸との関係等の諸変化の中で新たな変容を迎えている「台湾」「台湾人」
といった流れがあるように思うのだが、こうした中で語られてきた「台湾」「台湾人」についての政治思想史的変遷が充分に議論されていないような気がしてならない。たとえば、美麗島事件のときなどに用いられた「台湾人」概念と李登輝の言う「台湾人」は同じでなかったろう。では、これらはそれぞれ、日本やアメリカで多様にねられた「台湾」「台湾人」概念のどの系譜に属しているのか(あるいは独立しているのか)ということが不分明なのである。だが、こうしたことができないということも無理は無い。テキストが無いからである。政治思想史構築のためには、やはりテキストがなければならないだろう。それは書物であることもあるし、編集された講演録であるかもしれないが、いずれにしても議論の土台が必要である。そのためにはまず限りなく政治史に近い歴史をつくり、そのうえで私用した史料をテキスト化することなどが求められていくであろう。
筆者が個人的に考えているのは、台湾における「支那」「中国」論の変遷である。無論、テキストを定めていくことは難しいのだが、これを少しずつ進めていくことで、アイデンティティ論などにかかわる思想史の誕生に貢献できればと考えている。
台湾では、国家史としての台湾史が、また国文学としての台湾文学が、それぞれうまれてきているが、そこでは一種の「踏み絵」的な雰囲気が出てくる面もあるという。つまり、台湾ナショナリズムへの賛否がその学問領域への参加資格をとうような雰囲気があるということなのだろう。無論、そうでない研究者も、そうでない場もたくさんあるのだが、一度そうした雰囲気に出会うと強烈な印象となって外国人研究者の心に突き刺さることになる。台湾政治思想史が、開かれた学問領域として形成されていくことを期待するものである。(了)