中国外交史研究会第1回会合
2003年5月10日(土)於:早稲田大学COE−CASオフィス


【報告原稿】

中国外交档案の保存公開に関する現況―昨今の研究動向とからめて−

 

川島 真

北海道大学大学院法学研究科

shin@juris.hokudai.ac.jp, http://www.juris.hokudai.ac.jp/~shin/)

 

 

 本報告では、中国外交档案の保存・公開に関する状況につき、昨今の中国外交史研究の研究動向と絡めながら述べていくことにしたい。欧米や日本の外交文書からのアプローチに対して、中国外交档案に基づいて中国外交史研究をおこなうことは、日本ではこれまで一般的ではなかった。だが、80年代後半以降急速に公開が進んだ外交档案による研究には多くの可能性がある。ここでは中国・台湾に分散している外交档案の所在状況、档案を公開している档案館の利用状況、档案が分散するに至った経緯、そして外交档案の史料としての特徴、扱う上での注意などについて述べていく。なお、欧米や日本の外交文書を利用して中国外交史に迫る手法は、当然ながら現在でも極めて有効な手法であるし、中国外交档案と併用することで大きな効果を発することができると思われる。だが、例えば日本外交文書だけを用いて「日中外交史研究」と言うようなことには疑問が残るし、中国外交史を研究するのに中国外交档案を見ないで、外国の文書だけで研究を進めるということにも、些か偏りを感じることもまた事実である。本報告では、時間の都合もあり、欧米日本の中国関連外交文書については割愛し、中国側の外交档案、そしてその公開を含むさまざまな政治社会状況の変容によってうまれてきた新たな外交史研究の潮流について述べてみたい。

 外交档案とは何か。坂野正高「政治外交史――清末の根本資料を中心として」(坂野正高[他]編『近代中国研究入門』東京大学出版会、1974年所収)などにあるような、「外交文書」の定義を適用すれば、それは外交機関および在外公館などに蓄積された文書だということになる。そして、「外交」それじたいが、様々なアクターに担われる多様なものとして認識されるに従い、外交文書のみを使用した外交史研究の手法が相対化されてきてはいるが、外交史を研究する場合には、やはり外交文書をきちんと閲覧することが方法論上の基礎として位置付けられることは現在でもかわりはない。

 しかし、中国外交史研究においては、中国の外交档案の公開が遅れたこともあって、欧米日の外交文書を使用することが通例となり、また戦後になって「外交」が当時の政権の正当性にとって「敏感」なイッシュ−になったことから、特に孫文や蒋介石などの個人史料を用いて研究をおこなうことが通例となった[1]。他方、中国における文書は「信用できない」、「真実でない」といったような言説もあり、「その档案が存在することをその時代が許容した」という理解がなされないことが多かった。

 だが、中国の外交档案が一貫して封じ込められていたというわけではない。実は20世紀前半の民国時代は外交档案が編纂され、公開された時代であった[2]。この時期には、北京の故宮博物院において一定の手続を経れば外交档案の閲覧は可能であった。だが、1930年代初頭、それらは一部が南京に、一部が洛陽に移され、日中戦争のさなかに更に移動し、最終的には大陸と台湾に分散することになったのである。

 このような状況の中、1980年代後半になって両岸の外交档案は一斉に公開され始めた。大陸は改革開放の、台湾は「台湾化」と「民主化」の影響によって档案が公開されはじめたのであった[3]。しかし、日本の学会はなかなかこれに反応しなかった。確かに、坂野正高は「中央研究院近代史研究所の外交档案」(『東洋学報』43-4、1961年、『近代中国外交史研究』に補正加筆の上、再収録)の中で中央研究院近代史研究所の档案をいち早く紹介したが、それを利用した研究はおこなわなかった[4]。こうした档案の公開を同時代でキャッチしていたことを示す論考としては、久保亨「中国民国文書史料の紹介と検討」(東京大学東洋文化研究所東アジア部門編『中国朝鮮文書史料研究』汲古書院、1986年所収)があるが、そこで念頭に置かれているのは、久保の専門を反映して経済方面であり、外交は特に触れられていなかった。

 92年に筆者が大学院修士課程にはいった当時、これらの外交档案を使用した研究は、日本ではほとんど無かった。筆者は、中国外交史研究を志した関係上、この外交档案を求めて各地を歩くことになった。その外交档案の分布状況作成の作業の結果をまず述べ、そのうえでその経緯、そして档案の性格などについてもあわせて述べていきたい。

 

1.                    中国外交档案の分布状況(⇒ホワイトボード図示)

 

 外交史研究が基本的に外交文書に依拠するべきことは言うまでも無い[5]。外交史研究者にとって外交档案へのアクセスは一つの課題である。中国の外交機関は、清朝総理衙門・外務部・中華民国外交部・中華民国国民政府外交部・中華人民共和国外交部に分かれる。中国・台湾では「外交档案」を総理衙門から現在の外交機関の機関档案として位置付けているのである。総理衙門の性格については、外交機関か洋務機関かでは議論のあるところであろうが(拙稿「総理衙門」天児慧[他]編『岩波 現代中国辞典』岩波書店、1999年)、台湾も中国も、また1912年に成立した中華民国もまた総理衙門から中国における外交機関が成立したと考えている。

 档案の調査が必要であったのは、第一に、前述のとおり中国の外交文書が大陸(北京・南京)と台湾に分散し、所在状況が不明であり、第二に、各文書館が公刊目録等を発行していなかったために、実際に現地に行ってみなければ状況を把握できず、第三に、各地の文書館の情報が国内で還流していなかったからである。

 こうした外交文書所在状況に関する調査結果を、筆者は「中華民国外交档案保存・公開の現状」と題して発表した[6]。想定される文書の所在を確認していく作業は、パズルを埋めていくようなものであったが、文書の移転経緯を含めて文章化することができた。ここでは、たとえば民国前期の外交関連档案について、外交部档案であれば南京第二歴史档案館と台北の中央研究院近代史研究所、国務院であれば南京のみなどと機関別の表を作成し、さらに在外公館についても档案所蔵状況の表を作成した。また、民国前期については、外交案件別の表も作成した。

  だが、この調査には重大な欠点があった。それは、南京第二歴史档案館の内部目録を閲覧していないということ(筆者が見たのは外部向け目録のみ)である。だが、台北の外交部内部にある外交部档案資訊処にアクセスすることができ、従来見ることのできなかった史料群を把握し、問題の一つを漸くクリアすることができた[7]。この結果、これまで所在が不明であった対日借款関連文書や抗日期の主要外交文書の所在が明らかとなった。現在のところ、北京政府期の外交文書の7割以上が台北にあり、国民政府期(1945-49含む)でも過半数が台北にあると確信している。また対日関係の文書が特に台北に多いことも特筆に値する。ただ、総理衙門なら半分あるいはそれ以上、外務部期は7割が北京にあると思われる[8]。なお、地方の档案館には地方の交渉署の档案などを保存しているケースもある。

(具体的状況 ⇒ 口頭説明)

 

2外交機関における文書行政(同時代史的状況)

 

 このように档案が分散していった背景には、義和団以来の国内の動乱及び抗日戦争などの外国との戦争による混乱の影響が大きいが、他方で財政難のため、政府官僚が資金獲得を目的に文書を売却したこともある。因みに文書の購入者の多くは日本人であった。義和団前後のことについては、事件の翌年の光緒二十八年三月二十八日の外務部司員王履咸の呈文に「前年の京師の変の際、他の各衙門の档冊(档案を綴じたもの)が焼かれてしまい本来の姿を失ってしまったのだが、幸いにして本部(=総理衙門)の档案は日本兵によって封守されたので、遺失しなかった」とある[9]。清朝は歴史編纂のために、あるいは前例検索のために文書を保存していたが、特に外交文書は交渉の際の証拠となすためにしっかりと保存されていた。義和団事件の時には規律よく名をはせたとされる日本軍が総理衙門文書を守ったというのは、後の抗日戦争時に大量の文物、史料を略奪、損壊したことと対照的である[10]

 民国成立後の1913年8月、北京政府外交部は「外交部保存文件規則」を定めた[11]。これによれば、現在使用している「文書」を「文件」とし、他方結束した案件に関する「文書」を各科が整理して写しとり、冊子にして冒頭に概要を付したものを「档案」と呼ぶとのことであった。「現行文件」すなわち「現用文書」は、編列記号などが施された上で、各科で綴じられて「専档」となる。毎年末、各科で編まれた「档案」或いは「档案」化する必要がないと判断された文書が档案庫に送られ保存された。他方で、総理衙門・外交部期の文書(=「旧档」)は档案庫で「档案」化されていたが、この「旧档」も民国成立以来の「新档」も担当部局別に登録され、保存年限別に保管された。保存年限には、永久保存・3年保存・1年保存の3種があり、満期になると焼却された。

  民国成立時にはまだ独立した文書科がなく、文書整理は各担当部局がおこなっていた。しかし、現在残されている外交档案は、部局別に整理されているわけではなかった。この後になって、制度が変更されたのである。1914年11月、外交部は「外交部編档案辧法」を定め、档案庫に編档科と編纂科の2科を設置、各々が档案の整理と編輯作業に当たることとなった。また、各部局には文書担当者が置かれ、両科との連絡に当ることが定められた。編档の際には、各部局の職掌を基準とし、零件については似た文書を集めて綴じることとしている。1案1档を基本とし、文電は時間配列で整理され、各文電に「案由(=事由)・件数・担当部局」を明記し、冊の冒頭に目録を付し、その上で編纂課に送られる。編纂課では、これを更に最要・次要・尋常、そして門類別に分類、他方で不要なものを取り除くなどの整理を施し、「専档」を作成し、各档案部局の長の許可を得て、この「専档」を決定稿とし、「抄档(写本)」を作成した[12]

 

3 民国北京政府外交档案の整理状況−史料批判への糸口

 

  北京政府期の外交档案群は、国民政府期の外交档案群と大きく異なる。卑近な言葉だが、よく整理されすぎているのだ。国民政府期の文書には日常の業務の跡が見えるのに対し、北京政府期の文書は非常によくまとまり、まるである一つのストーリーを描いているようである。北京政府の国権回収への努力を後世の歴史家に描かせるがために編まれているような印象さえ与えられる。この文書群は一体いつ、誰に編まれたのであろうか。

  北京が北伐軍に占領され、北京政府の機能が停止し、南京政府が名実ともに国内における中央政府となった後、北京外交部は外交部駐北平辧事処に改組された。この辧事処は、駐北京各国公使館との連絡を主たる役割としていた。1928年7月24日、この辧事処は档案の整理・保存を主たる役割とする北平档案保管処となり、辧事処処長の}鵬がそのまま保管処処長に就任した[13]。この保管処には、北京政府の外交官僚数名が正式職員あるいは臨時雇員のかたちでそのまま勤務した。南京国民政府が成立してから、多くの旧北京政府の外交部職員が南京に行き、引き続き外交部に勤務した。だが他方で、完全にドロップ・アウトしてしまった者もいた。北京に残って文書整理できた人員は、トップの}鵬を除くとその後のポストを保証されていなかった。

  旧北京政府の人員が北平に残り档案を整理したのは外交部だけではなかった。国民政府内部では、1933年に内政部などを中心に「文書档案改革運動」が起こるが、北平では清代以来の文書が旧北京政府官僚によって着々と整理されていっていたのである。さて、この外交部档案保管処では、「外交部北平档案保管処暫行辧事簡則」などの規則に基づいて档案の整理をおこなっていた。具体的な整理方法は、全体を3期(総理衙門期・外務部期、外交部期)に分け、民国外交部期を優先して条約司・政務司・通商司などの部署別に整理し、清書して「清档」を作成し、南京外交部に送られた。当初、1928年8月に整理を完了するという目標が設定されたが、これは達成されなかった。同年9月、条約司・政務司の档案整理が完了し「清档」が南京に送られている。「原档」はそのまま北平に残されたようである。通商司の文書は「門類が多く、複雑」であったので、整理が遅れたのであった[14]

  疑問なのは、この短期間に本当に「清档」が作成されたのかということである。南京に送られたのが全て「清档」だとするのなら、現在台北に残されているのは、北平に残された档案を大量に含んでいるということになる。確かに関東大震災や排日運動の档案には「清档」が多いが、「原档」も多く含まれているのである。

  1933年1月、華北情勢の緊迫化に伴い外交档案の疎開が計画される。移転先や方法は、北平の官員が決めた。場所は洛陽の河洛図書館、方法は鉄道と定められた。移転は、1月から3月にかけて実行に移された[15]。この時、外交档案以外の档案も北平に保管されていたが、外交档案は特に早く難を逃れた。洛陽に運ばれたのは、当時の遷都計画と関係が有るものと思われる。

  1935年12月から36年4月にかけて、北平では財政部档案大量流出事件が起きる。南京政府に命ぜられて清代以来の文書を北平で保管していた旧北京政府官僚が私的に档案を禹貢学会や日本人に売却したのである。この中には、戸部档案、度支部档案、財政部档案などが含まれていた。事態を重視した国民政府が回収を図ったが、回収率は全体の3割強に止まった。これによって、国民政府に対する学術界の抗議が強まり、清代及び北京政府期の文書を故宮博物院などの学術機関に移管することが定められた。外交文書は、この時既に洛陽にあった。

  外交档案は、南京と洛陽に二分された。洛陽には職員も移り、整理は継続されたものと思われる。だが、この洛陽文書が南京の文書と合流したのか否か、合流したとしたら何時なのかということは明らかではない[16]

 戦後、国共内戦時に文書がかなりの余裕をもって計画的に台北に運ばれたようである。北京政府期の文書について言えば、南京に残されているのは外交部内の行政文書が主であり、対外交渉の際の証拠となるような文書は殆ど全て台北に運ばれている。国民政府期についても、対日交渉、賠償関連文書などが台北にある。南京第二歴史档案館にある国民政府外交部文書が3500余巻。北京政府期は500余巻。台北では、中央研究員近代史研究所档案館所蔵の北京政府期外交部文書が約2500巻(函)、国史館の外交部文書が16000余巻(北京政府期・国民政府期・台北政府期)である。ここに、近々外交部から更に12000余巻が移管されている。確かに「巻」なる単位の中身が同じでないことは確かだが、これほど大きな差があれば状況も自ずから明らかであろう。

 このような経緯を踏まえて注意すべき点は、第一にこの档案群が、南京政府成立直後に正規職員として採用されなかった旧北京政府外交部員によって、それも北平に於いて比較的自由になされていたという事実である。これはまだ実証されたわけではないが、旧北京外交官僚が自己正当化を図ったり、あるいは自己の業績を美化しようとした可能性も否定できない。北京政府期の外交档案は、先に述べた『清季外交史料』同様に中華民国の近代外交の展開、特に不平等条約改正への努力を軸に据え、「北京政府も様々な困難に直面しながらも外交には努力していた」というストーリーを投げかけてくる。第二に、その後の政府によって様々なかたちで史料の保存操作がおこなわれた可能性である。第三は、こうした様々な経緯を経て、現在残された外交档案が同時代に作成された档案の総体とは大きく異なっている可能性である。この点は『政府公報』や『外交公報』との比較によって克服できよう[17]

 

4.档案の性格および整理の上での特色

 

 この档案群にこめられた意味については上述のとおりである。档案群を後世に残すというその行為じたいが、将来に対する自己の存在証明(説明責任)である部分があり、そこに同時代人の語りたかった「時代」が現ることになるのだろう。だが、こうした点とは別に、外交档案群それじたい、および整理方法の有する特徴もある。

 決定的なのは、中国の外交档案では原則として決済文書保存がなされ、審議過程を残すという発想に乏しいということである。档案は、後世への参考用として残されるというよりも、歴史編纂のために残されるという要素が強い。従って、どのようにその政策が決まったかということよりも、どのようになったのかという結果の方が重要になっているように思える[18]

 次に、外交档案の整理法そのものについては、一応時系列的に整理されているものの、各司の文書が混在しているという問題もある。そして档案には、「原档」「清档」「抄档」が含まれている。原档は使用された決済档案であるので、決裁者や中途の修正がわかるだけでなく、時間的な確定をしやすくなっている。清档は確かに読みやすいのだが、決裁者、修正過程などが不明なだけでなく、決済時間、档案の発出時間等がわからなくなっている。档案とは言っても、実質的に活字化された公刊史料とあまりかわらない価値しかない[19]

 そして、顧維鈞などをはじめとした個人档案と比べても、外交档案の内容が一般的ということは決して無く、むしろそうした属人的な史料の相対化ができるようになっている。だが、中国の外交档案は、「中国の外交」を反映していないという意見も存在する。これは、結局のところ中国人外交官たちは「あたりまえ」の「日常」は書かないのであり、現在のわれわれが知りたいのは、むしろこの「日常部分」や「当たり前」として捨象されたのではないかという考えに由来する。この考え方でいけば、中国の外交档案を使用するよりも、たとえばイギリスの外交文書を使用したほうが、そうした現在の研究者の要請にかなっているということになっていくのである。結論的に言えば、この点は、今後の検証の中で明らかになることだろう。

 

5.可能となる研究と昨今の研究動向

 

  このような档案を使用することの意味は、次のとおりである。第一に、档案群全体を閲覧し、同時代史的な感覚と、当事者性の感覚をよびもどすということがある。コレクション全体を把握してはじめて当時の外交官僚のおこなっていることの総体が見えてくるのである。第二に、政策決定過程研究がかなりの程度まで実現できることになろう。たとえば、これは筆者が既に明らかにしていることだが、パリ講和会議と五四運動の関係について、パリ講和会議の中華民国の全権たちは1919年の4月末には条約に締結しないという方向で模索をはじめており、決して五四運動でヴェルサイユ調印を思いとどまったのではない。こうした外交過程を紡ぎ出すことが可能なのであり、こうした外交档案を使用する研究は、90年代以降、中国でも台湾でも「普通」になりつつある。

 だが、こうした「档案」の公開は、中国と台湾の中国外交史研究の変容にとっては一つのスパイスに過ぎなかったのかもしれない。90年代には、両岸の双方において中国外交史研究をとりまく環境が大きく変化したのである[20]。台湾では、唐啓華をはじめとして、多くの若手研究者が中外関係史研究会に集い、唐啓華『北京政府与国際聯盟(1919〜1928)』(東大図書公司、台北、1998年)に代表される多くの成果を生み出していった[21]。これらに共通する特徴は、第一に外交档案等の一次史料を駆使していること、第二に従来の中華民国外交史のイメージを払拭すべく、これまで顧みられなかった部分にスポットをあてていること、第三にかつての国民党史観的な教条主義的議論の影響を受けず、むしろそうした政治言説を批判し修正したり、また現在の台湾の状況を反映して、独自の立場で自由な議論を展開している点に求められよう。唐は中華民国北京政府の修約条約や国際連盟におけるポジティブな外交を評価し、張啓雄は中華世界秩序原理を提唱、また張力や許は国際連盟・汪政権を扱い、これまでマイナスのイメージで捉えられていた対象を実証的に捉えなおし、大きな問題提起を学界に投げかけている[22]

 他方、中国では、「外交史」それじたいに対するタブーは以前ほどではなくなった。それは対外開放と軌を一にする「各国との交流史」だけではなく、おそらくナショナリズムを支える言説としての外交史が必要とされたためであろう[23]。そして外交官の回想録や外交史のテキストが公刊されるほどになってきている。中華民国時期を見ても、例えば石源華『中華民国外交史』(上海人民出版社、1994年)、趙佳楹『中国近代外交史』(山西高校聨合出版社、1994年)、呉東之主編『中国外交史 中華民国時期』(河南出版社、1990年)など。これらの研究は、外交档案こそあまり用いていないものの、従来の北京政府=軍閥傀儡、反動といった図式を払拭して記述されている[24]。また、中国における動向として、1998年の黄丹・唐婁彝脚本による『我的1919』という映画が印象的であった。この映画は、パリ講和会議のときの顧維鈞を主人公とし、その「愛国心」と世界を舞台とした苦悩と活躍を描く。従来、売国奴の外交、弱国に外交無しと言われ、五四運動の蔭に隠れていた外交を位置付けなおそうというのである。映画の最後には、ヴェルサイユ条約に調印しなかった顧維鈞らの外交について、「これこそ中国が世界に最初にNO!と言った時であった」というスーパーが流れるのである。「愛国」「ナショナリズム」の下に外交史が再構成されているのである。

 川島自身のおこなっている研究(出版予定=近刊の内容について口頭説明)。

 

おわりに

 

 上記述べてきたように、中国外交史研究は、外交档案の公開もあいまって多いに進展してきている。だが、そこには様々な問題があるのも事実である。無論、方法論的に、外交档案を使用し始めたばかりという「後発」性もある。だが、ここで強調したいのは、「中国外交史研究のための外交档案データアーカイブ作成」の必要性である。筆者がこれまでおこなってきた外交档案の所在状況などの情報、これらについてはこれまで史料紹介などで何度も紹介してきた[25]。こうした情報、档案の分布状況、可能なら档案目録の一部でもウェブ上でデータベースとして公開できないかということである。結局、個人にのみ情報が蓄積してしまうのでは、議論の前提が形成されにくいのである。

 外交档案は、それぞれの政府の存在証明として残されてきた。筆者は、こうした当時から後世へのメッセージは重視すべきであると考えている。しかし、この档案の消化の次に、隣接領域の成果をとりいれたかたちでの新しい領域を開拓し、一方でそれをオーソドックスな外交史(各内閣の外交年表、治外法権、関税自主権などをめぐる外交過程史)に落としていく試みをしていきたいと考えている。(了)



[1] 特に不平等条約改正史や日本との外交史がその対象となった。これは反帝国主義や反日が大陸・台湾の双方にとって政権の正当性と密接に関わったためである。拙稿「従廃除不平等条約史看『外交史』的空間」(『近代史学会通訊』第16期、中国近代史学会、台北、2002年12月、P.11-14)参照。

[2]民国前期には外交史料の編纂が進められたが、そこでは如何に侵略されてきたかということに重点がおかれ、自然とそれらを回収しなければならないという結論が導き出せるようになっていた。その代表格が『清季外交史料』の編纂である。この史料集は、王彦威・王亮の編になり、父が筆者したものを息子がまとめたのものである。ほぼ民国前期が編輯時期にあたり、1931〜1932年に刊行された。これには単純な史料集というだけでなく、ところどころで解説が加えられるなど、編纂意図が強く紙面にも表れるという特徴がある。また、『籌辧夷務始末』が同じ私撰であっても同時代的に編纂されたのに対して、『清季外交史料』は民国前期に光緒宣統年間を振り返って編纂している点に特徴がある。

  清季以来、欧米は政治経済の力を強めて極東に侵入し、一方で日本がその三島に勃興し大陸政策を発展させてきた。列強は「得寸思尺」の如くその欲望の止まるところを知らず、中国側の衰えも底を打つということが無かった。当時、国政をあづかる者は体制を見るに疎く、列強への対応に窮していた。そして1860年には外興安嶺及びウスリー河以東をロシアに割譲し、1871年には日本に琉球県を建てられ、1881年には新疆西北の地を再びロシアに占領され、1885年にはヴェトナムをフランスに奪い取られ、1886年にはビルマをイギリスに譲り、1895年には台湾と朝鮮を日本のために失うに至った。このように辺境を失うこと、四百万里に達するであろう。藩封がすべて失われ、今度は腹地が危なくなり、東北四省は既に日本に占領され、外蒙古も有名無実であり、新疆ではイギリスとソ連が覇を競い、雲南の南部では英仏が争い、イギリスはチベット・西康を蚕食し、日本は長城の各出口とチャハルをうかがっている。このような状況になっているというのに、依然として彼らのなすがままになっている。内政は多くの問題を抱え、民生は憔悴し、外国の手のついていない土地など無くなってしまった。国家の尊厳は次第に衰落し、交渉をおこなうのも益々困難になっている。このような問題が発生した経緯は、まさに今日に至るまで1日でできあがったわけでも、ある一つの事件によるのではない。この点こそ、国人が外交を研究するのが望ましい理由であり、深く注意を喚起したい点なのである (「清季外交史料術略」『清季外交史料』術略、一)。

『清季外交史料』は被侵略史のための史料集という色彩を強く帯びているのである。そして、光緒年間で最も重要であるのが清仏戦争と日清戦争であるとしている。このような記憶づくりは、ナショナルヒストリーの形成や国民の形成には大きな意味をもっても、『清季外交史料』に依拠してそのまま研究すれば、編纂者が意図したとおりの外交史ができあがるという意味で、研究者としては実に注意しなくてはならない点である。

 また本稿の主旨に即して言えば、『清季外交史料』の編纂は、不平等条約改正の際に必要な帳簿づくりとして進められたのであり、まさに文明国化のための外交を展開する時期に相応しい作業がおこなわれたとも言えるのである(だが、『籌辧夷務始末』とて1930年代に公刊され、これによって中国外交史研究は「近代外交史」の仲間入りを果たすのである)。他方、『清季外交史料』の術略部分に以下のような興味深い記述がある。

  諸史を顧みるに、みな紀伝を重んじ、外交の事跡は僅かに四夷あるいは外国伝の中に見られる程度である。最近『清史稿』が脱稿されたそうだが、ここで始めて「邦交志」という項目が作られ、前史の欠を補っている (「清季外交史料術略」『清季外交史料』術略、二)

『清史稿』をひもとくと、巻一五三(志一二八)に邦交という項がある。

  中国は古より邦交を重ねてきた。清の盛時には諸国が朝聘し、みな礼に従っていた。しかし、海道が大通してから、局勢が一変した。それはポルトガル・オランダに始まり、僅かな土地を手に入れると、そこに移ってきて貿易を始めるべく、広東の東部にやって来た。そしてイギリス・フランス・アメリカ・ドイツなどの大国も袂を連ねてやって来るなど、多くの国々が集まってきたが、その目的は通市をすることだけにあった。しかし、道光年間の己亥の年にいたり、アヘン禁止政策が反発を招き、慌しくするうちに戦争となり、イギリスに香港を割譲し、五口で通商することになった。次いでフランス・アメリカ・スウェーデン・ノルウェーとも相次いで条約を締結し、ドイツ・オランダ・スペイン・イタリア・オーストリア・ポルトガル・ベルギーはみなイギリス・フランスとの条約に基づいて条約を結び通商を始めた。これから海疆に事件が頻発することになった。ロシアは康煕二十八年に条約を締結しており、他国に先んじている。日本は同治九年に条約を結び、他国に比べると最後の方に条約を結んだことになる。中国は追い詰められ、受禍も大きくなった。このほかペルー・ブラジル・コンゴ・メキシコなどの小国と条約を結んだが、これらの国々は大国の後尾にくっついてきただけで、特に目的があったわけではない。

この邦交という項目は、「守夷守境之謂何」について「後人之考鏡」とするために書かれているという。そこでは、「本来は中国に劣り、礼を以て朝聘していた」国々が、如何に中国を不条理にも侵入してきたかということが記されている。『清史稿』の「邦交志」は、それ以後出版される中国外交史関係書物の底本となったことが予想される。この邦交部分の執筆者は、李家駒・呉広霈・劉樹屏らであった (「清史稿刻記」『清史稿』)。李は、1907年に出使日本国大臣・考察日本憲政大臣などに任じられた法政官僚である。

 しかし、『清史稿』にはこの「邦稿」のほかに「属国」の項目もある。「邦交」に挙げられているのは、上記の引用部に表れた諸国であり、朝鮮・琉球・越南・緬甸・暹羅・南掌・蘇禄・グルカ・コーカンド・坎巨提などは属国に属している(『清史稿』「列伝・属国」巻526〜529)。ここで言う属国が前述のような李鴻章・袁世凱の言う「属国体制」の属国なのか、あるいはそれ以前の属国なのかは不明であるが、明らかなのは「交」する対象である「邦」と、「属」である「国」の分離である。これは、第三部で述べる宗主と主権に関わるようなテーマである。また、南米・アフリカ諸国を小国と位置付ける点などは、国連における中華民国の大国志向と重なる傾向である。『清史稿』の内容については、ここでは簡単に指摘するにとどめ、詳細な検討は今後の課題としたい。

[3] このような台湾における歴史的タブーの変容、また「過去」の認識の変化については、拙稿「台湾における史料公開状況:外交部档案資訊処・国防部史政局を中心に」 (『近代中国研究彙報』19号、1997年3月、P87-108)参照。

[4] フェアバンク門下の研究者の中で、この外交档案を利用した研究者が出てきていたが、それは一部に限定され、結局のところその学統は後につながっていないという印象を受ける。外交档案を利用した研究には、Madeleine Chi, China Diplomacy,1914-1918,Harvard University Press,1970.がある。

[5] 台湾では複数の研究者によって、経済関連文書の所在状況がまとめられた。林満紅主編『台湾所蔵中華民国経済档案』<档案調査報告1>(中央研究院近代史研究所、1955年)。

[6] 拙稿「中華民国外交档案保存・公開の現状」(『東北アジア近現代史研究会 NEWS LETTER』6号、1994年)

[7] 現在、中央研究院近代史研究所档案館に「外交部保存之逾期档案目録」が置かれ、外交部内部の档案保存状況についても明らかになっている。

[8] なお、台湾における档案の公開状況については、随時HPに調査結果を公開している。http://www.juris.hokudai.ac.jp/~shin/

[9] 中央研究院近代史研究所所蔵外務部档案(02-14、14-2、「各項条陳」)。

[10] ただ、呉成章『外交部沿革紀略』(民国二年)によれば、義和団事件によって档案は大いに乱れ、外交部の時代になって清档房が設けられても、それを専属で扱う官僚がいなかったため、荒れ放題であったとのことである(二四−二五)。

[11] 以下の記述は『外交年鑑』などに基づく。

[12] この点を考えると、総理衙門期・外交部期の文書綴の表紙に「旧档」と記されていることや、「案由」にも文書作成時に書かれたものと後で書かれたものがあることなどが理解できる。だが、北京政府期の文書が整理されたのは、むしろ国民政府期に入ってからであった。この点は後述する。

[13] 民国17年9月25日外交部総務司収、北平档案保管処}鵬ヨリ摺呈「条陳籌議保管辧法並職員名冊」(国史館所蔵外交部档案、0440-2330.「技巧部北平档案保管処案」)。

[14] 民国17年9月25日外交部総務司収、北平档案保管処}鵬ヨリ摺呈「摺呈辧理接管档案情形」(同上文書)。

[15] この時、図書は上海経由で南京に運ばれた模様である。1938年1月に日本軍が南京で接収したという外交部図書5万2千冊に、北平から運ばれた図書が含まれていた可能性もある。

[16] 中央研究院近代史研究所の『外交木當案目録彙編』を見ると、その整理が内容別になされていることがうかがえる。条約司・政務司・通商司などの部署別に文書が整理されているわけではない。上記の国民政府期初期の整理法に合致しないのである。実は、戦争中、重慶政府内部で外交史料の整理委員会が設けられている。この整理委員会での整理が現在の保存形態に決定的な影響を与えている可能性もある。この委員会についての档案は国史館に僅かに残されている程度であるが、今後の課題としたい。「戦後外交資料利用研究」(民国32年1月〜12月、国史館、0600.09/6322.01-01)

[17] 外交档案以外に同時代に編まれた外交関係の史料には、中華民国外交部『外交年鑑』(外交部、1920年/東洋文庫所蔵)、中華民国外交部『外交文牘華盛頓会議案』(外交部、1923年/東洋文庫所蔵)、中華民国外交部『外交公報』(外交部、1921年/東洋文化研究所所蔵)などがある。

[18] だが、総理衙門档案などと比べると、外務部、外交部と進むにつれて、決済に際してサインを得るべき官僚の数が次第に減少し、案件を迅速処理できるようになってきていた。

[19] 公刊史料については、大陸と台湾で発行されている外交関係の史料集の殆どが活字化してしまっているか、清档をリプリントしている。ただ、中央研究院近代史研究所の史料集のうち、『澳門専档』だけが原档のリプリントとなっており、利用価値が極めて高い(だが档案ファイル名を記していないという問題を抱えている)。

[20] 拙稿「日本における民国外交史研究の回顧と展望(上)―北京政府期(国民革命期を除く)」(『近きに在りて』31、1997年5月)、同「日本における民国外交史研究の回顧と展望(下)―国民革命期から戦後初期まで」(『近きに在りて』34、1998年11月)参照。

[21]拙稿「書評・唐啓華『北京政府與国際連盟(1919〜1928)』(『東洋学報』82‐1号、2000年6月、P.147‐154)参照。台湾では昨今、本書をはじめ中華民国政治外交史関連の興味深い著作が公刊されている。唐の著作のほかに、張啓雄『外蒙主権帰属属交渉』(中央研究院近代史研究所、1995年)呉令羽君『美国與中國政治(1917−1928)−以南北分裂政局為中心的探討』(東大図書公司、1996年)、張力『国際合作在中國』(中央研究院近代史研究所、1999年)、許育銘『汪兆銘與国民政府 1931至1936年対日問題下的政府変動』(国史館、1999年)などがその代表であろう。

[22] こうした傾向は、若手研究者による注目すべき一連の修士論文、林孝庭『外交家伍朝樞與近代中國』(國立政治大学外交研究所碩士論文)、廖敏淑『巴黎和会與中国外交』(國立中興大学碩士論文、1998年7月)、黄文徳『北京外交團與近代中國之研究』(國立中興大学歴史学系碩士論文、1999年6月)などをみても、一層強まってきているように感じられる。

[23] 対外関係史は、政治外交的な「外交史」と「友好」を支える「交流史」によって構成されている。

[24] またシンポジウムについても、2000年度には顧維鈞をめぐる国際シンポジウムが上海で、今年2003年には中華民国北京政府期の外交史についての国際シンポが同じく上海で開催予定である。

[25]具体的には以下を参照。 @「中華民国国史館所蔵档案の概観」(『近きにありて』25,1994 年5月,P.95-107 )、A「中華民国外交档案保存・公開の現状」(『近現代東北アジア地域史研究会 NEWS LETTER』第6号,1994年12月,P.15-38 )、B「台湾における新公開档案:1920-40年代国民政府・国民党档案を中心に」(『中国研究月報』50-4,1996 年4月,P.23-46) 、C「戦後台湾の行政文書・党務文書公開の現状」(若林正丈監修『台湾における台湾史研究:制度・環境・成果  1986-1995』交流協会、1996年、P.23-46 )、D「“新公開”された戦前・戦後台湾行政文書および党務文書」(『アジア経済』38巻1号、1997年1月、P.488-62)、E「台湾における史料公開状況:外交部档案資訊処・国防部史政局を中心に」 (『近代中国研究彙報』19号、1997年3月、P87-108)、F別枝行夫・貴志俊彦・川島真編『台湾・国史館典蔵行政院賠償委員会档案目録』(平成13〜16年度日本学術振興会科学研究費補助金、研究成果中間報告書、2002年6月)