厦門・鼓琅嶼小遊
 
川島 真
 
 
新年は厦門で過ごした。
厦門は3年ぶりだろうか。前回は外務省の派遣で、中国課の方々と厦門
大学を訪問し、台湾問題について議論するという生々しいものだったが、
今回は比較的余裕をもっての厦門滞在となった。厦門はアヘン戦争後に
開港された中国沿岸部を代表する都市である。現在も海外からの投資
が多く、たいへん綺麗な街である。日本からも、ANA、JALともに直行便が
ある。
 
厦門には汕頭からバスではいった。4時間近く高速道路を走ったのが、・・
・このようなことを書くと多分台湾人に怒られるが・・・景観的には台湾の中
南部によく似た風景の中を走っていた。田、果樹(バナナ、マンゴー)、そし
て園芸用作物など。村は山村。バスは汕頭から厦門で100元程度。高速
道路網が整備されるにつれ、高速バスネットが中国を網羅していくのであろ
う。
 
厦門市内についてしばらく散歩をしたのだが、店の雰囲気、言葉、いずれを
とっても台湾にいるような錯覚におそわれた。それも90年代初頭の台湾の
ような感じである。道の歩道は例のごとく建物の一部にとりこまれたように
なっていて、歩道ががたがた。小吃や果物生ジュース店が点在する。台湾と
中国の経済一体化がこのような変化を沿岸部にもたらしているのか。「三通」
は実際にはそこまで効果が出ていないから、これはみな香港経由の影響か、
などと考えてしまう。しかし、厦門としては「台湾」という資源を上海や北京に
わたしたくはない筈である。ここは福州とならんで台湾への窓口であり、また
台湾人にとっての大陸への窓口であったのだから。
 
実は20世紀前半、台湾が日本の統治下におかれていたろ、富裕な台湾商人
たちは、厦門に競って洋館を建てた。それも租界にである。その租界が著名
な小島、鼓琅嶼(コロンス島)である。汕頭もそうだったが、イギリスという
国は開港場の湾口にある小島を拠点にすることが多かった。汕頭でもそう
した島にいったが、厦門のコロンスは規模が大きい。実は厦門という都市そ
れじたいも島であるが、コロンスはそれに付属する小島である。
 
そこには厦門市街から船で行く。決して綺麗とはいえない海。片道二元の
フェリーでいけば5分ほどの船旅であるが、行きはモーターボートで行った
ので1分で着いた。小金門が見えるかと思ったが、方位が悪く見えなかった。
このコロンス島にはいまでも洋館が立ち並ぶ。鼓琅嶼賓館(現在改修中)は
風格ある人気のホテルである。この島にある洋館をめぐると、19世紀末から
20世紀前半の「植民地建築」に数多く出会える。興味深いのは、台湾人を含
む「華僑」の建てた洋館が多いことである。現在の厦門市博物館もまた、台湾
人の豪商林家のものである。保存状態がいいかどうかは議論があろうが、
それぞれ番号がふされていて、誰のものであったかはわかるようになっている。
 
また、この島は「ピアノの島」としても知られている。
ここは「文明」を中国にもたらす島だったのかもしれない。だが、そのピアノをひ
いたり、聞いたりしたのが誰かということになると難しい。無論西洋人ということ
もあるが、やはり華僑たちがそうしたものを日常化していた可能性も見逃せない。
台湾人も含めて、彼らの多くは「登録民」あるいは「(台湾)籍民」などで、中国人
たちとは「身分」が違った。つまり不平等条約を締結している外国の国民の浴し
ている特権を享受できる立場にいたのである。それを証明するように、彼らは富
だけでなく、「文明」もまた身にまとっていたことだろう。解放後(厦門が完全に解
放されたのは49年ではなく50年−51年と考えられる)、中国は租界の財産を同盟
国、枢軸国の如何に関わらず強制収用した(補償はない)。この島の華僑たちも
、彼らの財産も中国から追放され、おそらくは上海資本どもども香港に逃げこん
だのだろう。いま、その資本がまた厦門に流れ込み、現在の発展をささえているの
だろうか。ホテルで食事をすると台湾人のほかに、シンガポールやマレーシアの
ひとたちが目立つ。(厦門にはフィリピンの総領事館がある。マニラが福建華僑
の拠点だからであろうか)
 
厦門の空港には福建華僑の拠点からの直行便がどんどん着いている。クアラ
ルンプールなどはその代表である。飛行場の管理体制はまだまだ地方空港の
域を出ないのだが、次が楽しみになる厦門訪問であった。