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研究計画と方向性に関するメモ

JFE21世紀財団・2005年度アジア歴史研究助成・共同研究
2006年2月1日/ 於北海道大学公共政策大学院

川島 真

1.新たな秩序形成過程としての東アジア「近代」史
敵対、戦争に向けての東アジア近代史から新たな秩序構築、あらたな国際公共財への対応/創出過程として近代史を捉えなおす。ハードな政治外交史からのアプローチからもありえるが、これまでの研究状況を考慮して、主に国際行政面に注目する。その際には、近世にあった秩序がいかに変容したのか、あるいは植民地がいかなる位置づけになるのか、大東亜共栄圏など日本の「侵略」が何を意図したものか、国際公共財の主要な提供者としてのイギリスの位置、戦争による秩序破壊と戦後の再形成など、幅広い視野が必要になる。なお、この国際行政史の領域におけるアクターは、(国際とは言っているが)国家には限定されない。それは下の論点と深くかかわるからである。

2.制的な制度史研究から動的なガバナンス史研究へ
従来の歴史学研究は、歴史事象の変容過程を(法を含む)制度の変容から捉えようとした。これはいわば歴史的な変容過程を静的に捉えようとするものであり、東アジアの秩序などについても、結局のところ、多様だとか、重層的だとか指摘するにとどまってしまう。問題は、何かしらの問題、案件、災害などが発生した場合にそれをどのように解決し、あるいはそうした問題をいかにして発生しないようにしていくか、それをどのようにルーティーンワークの中で、それもローコストで実現するかということにあるのではないか。そうした点で、従来の制度史研究も確かに重要なのだが、制度変容の過程をおうというよりも、問題のありようの変容とそれに対するガバナンスの変容過程として従来の制度史をその中に含みこむようなことができあいだろうか、というのがひとつのモチーフである。他方、このような方向性をとった場合、国家の制定した法や制度だけでなく、企業集団、団体、個人などをさまざまな主体がそこに関わることができるようになる。
(★実は近代の条約というものは、こうした国際行政の領域に関してそこまで詳細な内容を定めていないため、いわゆる条約改正の時期に、たとえば港湾での荷物の積み下ろしにおける倉庫の利用方法などの点で、少しずつ権利を回復していくということがあった。)

3.事例に満ちている東アジア
1840年代からの数十年間で各地に「開港場」が形成される中、従来の漂流民の回送システムはどうなったのだろう。また貿易をするにしても、税関、臨検はいかにおこなわれ、そして倉庫はいかにつくられ、管理され、その使用規則はどう形成され、機能したのか。港湾施設は誰が管理し、貿易船の曳航はどのようにやり、燈台や気象情報はいかに管理されたのか。疫病などへの対処も問題となるが、これには海関ネットワークなどの研究史がある。貿易と言う面では一隻の貿易船が神戸から上海に行くと想定して、その姿を想像していくと多重的な問題に気づく。関税にしても従価税の場合、誰がいかに価格を決定したのかと言うことも大問題である(これも研究史がある)。このほか、人の移動に関わるパスポート、人的管理、犯罪人引渡。商売をする場合の様々な障壁などがある。
このように、ヒト・モノの往来を支えた秩序と規範の形成過程、標準と地域性などについて考える。これは。最終的には規範形成者に誰がなるかというパワーの問題につながる。だが、19世紀後半はイギリスとそれを受け入れた日本、中国、また新たな日中関係の形成という観点もまた成立する。事例としては、海事、港湾、衛生、税関、会計、疾病、商標・特許、倉庫(貨物の積み下ろし)、パスポート、郵便、電信、犯罪人引渡など。
こうした標準形成が見えてくると、逆に『支那省別全誌』など「地域性」を強調する史料集の存在が浮かび上がる。標準に対する偏差、当時における「国際化」の意味などがわかるのではないか。

4.事例研究から全体研究への方向性
「全体史」がそう簡単に書けるとは思わないが、事例研究だけにならないように。幾つかの事例を重ね合わせることまではしてみたい。

JFE21世紀財団・2005年度アジア歴史研究助成・共同研究
2006年2月1日/ 於北海道大学公共政策大学院

[事例1] 19世紀末から20世紀初頭の東アジアにおける犯罪人引渡
明治廿九年七月 「日清両国間ニ犯罪人引渡条約締結方提議ノ件」
明治二十九年七月十四日接受 「罪人引渡条約締結ノ関シ伍廷芳ノ来談ニ口答ノ次第申進ノ件」
清国ト壌地ヲ接シ居リ国々即チ英仏露等ハ清国ト締結ノ条約或ハ約定ニ於テ罪人引渡ノ規定有之。法ヲ正シ秩序ヲ維持スルニ於テ双方ノ必要上ヨリ成立シタルモノニシテ我国台湾ニハ数百万ノ清人種棲息シ此輩ハ一年前迄清国統治ノ下ニ在リ、風俗言語仍ホ清人ト同一ニ付一葦帯水ヲ航シテ清国内地ニ◆通スルハ容易ノ事ニ有之。◆テ潜匿ノ方法モ許多可有候折柄何等取締ノ道不相立候テハ台湾ニテ犯罪シタル者福建等省ニ遁逃セバ法網ヲ免カルヲ得ルト同様ニ福建等省ニテ犯罪シタル者台湾ニ遁逃セバ是亦法網ヲ免カルヲ得ベク両国相対シテ逋遁ノ淵藪ヲ扣ヘ居リ候ハ行政上又交際上何レモ不可然候事、此際罪人引渡条約或ハ約定ノ締結ハ必要ノ義ト存候。過般通商航海条約商議ノ節張全権ハ外国条約ニ效テ罪人引渡ノ個条ヲ条約名かニ挿入ノ議ヲ◆提出セリトイエ共本使ニ於テ是ハ別ニ一条約トシテ締結スベキ義ニシテ清国政府ニ於テ必要ト認メラルレバ我政府ニ向ヒ公然御申入可存事ト答置ノ処本日附機密第四拾
八号信ヲ以テ申進ノ通リ通商航海条約ノ商議モ先ツ了結ノ場合ト存事◆並一昨二十九日伍廷芳来館罪人引渡条約ノ商議ノ申入ハ張全権ヨリ林全権ニ申入ルベキ歟総署ヨリ林公使ニ申入ルベキ歟抑モ在東京裕公使ヨリ直チニ日本政府ニ申出サシムベキ歟ト御尋候ニ付、裕公使ヨリ東京ニテ申出ラルル方最モ都合ニ然ト答覆◆◆該条約ハ本使ニ於テモ固ヨリヒツヨウト申合候ニ付前述ノ通リ張全権ニ答置候得共勿論締結ニ応諾シタルニハ無之云
右申進敬具
明治二十九年七月一日
特命全権公使 男爵 林董
外務大臣侯爵西園寺公望殿
(日本外務省保存記録、2.8.1 5 「日清犯罪人引渡条約締結一件」)

[事例2]19世紀末から20世紀初頭の東アジアにおける知的財産問題
「清韓両国ニ於ケル発明意匠商標及著作権ノ保護ニ関スル日米条約締結一件」(2.6.1. 16)
2.明治37年8月23日 大臣ヨリ在北京内田公使、在上海小田切総領事宛
「清国ニ於ケル登録商標侵害者処罰ニ関シ問合ノ件」
China Gazetteという新聞におけるChinese Patents and Trade Marksという記事。英独仏伊の各公使が、登録商標を侵害する自国臣民を領事裁法廷で処罰するなどとあるが、これが本当か。
China Gazette, 2nd Jul., 1904(Sat), Chinese Patents and Trade Marks.
Messrs. W. P. Thompson and Co., of Liverpool, write that an inquiry has been made by His Majesty’s Minister at Peking whether the Chinese Government have taken any steps to establish a Patent Office as provided in Article 10 of the America treaty, but the reply has not been obtained. Hitherto China has been dead against patents of all kinds, and the history of China and Japan shows remarkable instances of the advantage and disadvantages of a patent law. In China and in Japan, until a patent law was established, invention stopped at the point where it was no longer profitable to an individual to invent, as he could not keep the matter secret.
In matters of manufacture the Chinese and Japanese recipes for compositions had nearly reached perfection, but anything which could not be worked without the public being alone to copy was not invented. Japan passed a very liberal patent law about 20years ago, and its progress since then has been remarkable, while China has stagnated. The present Chinese Government, however, is now convinced that it must go in for modern improvements; hence this patent law.
In the British treaty with China, signed at Shanghai, Sept.,5, 1902 the article in regard to trade marks has been substantially reproduced in the United States treaty. Through the kindness of the Marquis of Lansdowne we have received the following information:- A working scheme for patent and trade mark protection is now being evolved, and in the meantime a provincial registration office for trade marks has been established at the Customhouse at Shanghai, and the Chinese Courts will presumably afford, as they have done in the past, substantial protection against counterfeiting trade marks on the part of Chinese subjects. The French, Italian, German, and English representatives have mutually arranged for the punishment in the Consular Courts of France, Germany, Italy and England of subjects of these countries who infringe registered trade marks, and in all profitability the remaining Western nations will shortly do likewise.
5.明治37年9月12日接受
在清特命全権公使内田康哉ヨリ小村外務大臣宛 「清国ニ於ケル登録商標侵害者処罰ニ関スル件回答」
イギリスは1899年枢密院令で既に決定。独仏伊らとも外交文書交換で約定。従って、新聞記事は事実。

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