第四回中国近代外交史研究会のお知らせ

  • 2005年11月20日

各位

第四回中国近代外交史研究会のお知らせ

第四回中国近代外交史研究会については、11 月18 日(金)―20 日(日)に札幌コンベンションセンターにて開催される国際政治学会・東アジア国際政治史分科会とするとのご連絡はすでに申し上げているとおりです。
その日程とプログラムは以下のとおりです。

11月20日(日)セッションD(9:30~11:00)
D-5 東アジア国際政治史 (責任者:川島 真)
≪中国近代外交史研究の新展開―清末を中心に≫
報 告 「清末の在外公館と出使日記」(仮)      京都府立大学 岡本 隆司
報 告 「薛福成と中緬関係」(仮)          京都大学大学院 箱田 恵子
討論者                         北海道大学 川島  真
討論者                          筑波大学 片岡 一忠

●経費について
研究会のメンバーの方がお越しになるに際しては、小生の科研費をご使用ください。ただ、無尽蔵にあるわけではないので、お早めに廉価な航空券を予約いただければ
幸甚です。19日の晩に簡単な懇親会が開ければと思います。参加・不参加を小生まで教えていただければ幸甚です。経費の支出についても、一定時間が必要ですので、お早めに北海道大学法学部の高田直子助手までご連絡ください。ntakada@juris.hokudai.ac.jp

●岡本さんが書かれた趣旨とお二人の報告者の報告要旨を以下に添付します。
《趣意書》
 「中国近代外交史研究の新展開――清末を中心に」
 1880年代から90年代は、国際情勢が東アジアにおいて大きな変動をみせ、清朝中国では対外的危機が高まりながらも、なお相対的な安定を維持した時代であった。中国史の文脈から、そうした歴史経過を分析し、それが持つ意味を問い直すことは、中国近代史のみならず、国際政治にかかわる隣接領域に対しても、少なからぬ意義のある作業だと考える。
 このたび、そうした作業の一環として、また当該時期にとりわけ重要な問題として、清末の中国外交の性格をとりあげることにした。この問題はすでに、伝統と近代
がきりむすぶ局面を中心に、図式的あるいは実証的に研究蓄積がすすみつつあるものの、なお手つかずのままになっている課題も少なくない。清末の外交体制を構成した要素の分析などは、その最たるものであろう。外交制度のなりたち、それを動かしたメカニズム、人物、そして現実にあらわれてくる外交政策、それら個々および相互の関係を解明することは、清末ひいては民国の政治や対外関係を論ずるうえで、不可欠の作業となる。
 今回の分科会はその第一歩として、清末の在外公館と外交官の存在と役割について報告を提示し、議論を深めてゆくなかで、上述の課題にせまろうとするものである。

《岡本報告要旨》
清末の在外公館と出使日記
京都府立大学 岡本隆司
 外交史というものを考えるうえで、外交を担う外政機構の解明は必須である。ところが中国史の文脈では、外交史そのものがさほど盛んな研究領域ではないし、なかでも外政機構への関心は高くない。とりわけ在外公館の研究は、緒についたばかりである。
 在外公館をあつかう場合、好むと好まざるとにかかわらず、使わねばならない史料が、在外使節の書き残した出使日記である。それらはこれまで、清末中国における「世界観」研究の主要史料になってきた。しかし外交官の任期中の著述である以上、外交と切り離せない。まず外交の文脈でその史料を位置づけ、しかるのちに「世界観」を追究するのが、あるべき順序であろう。そうした視点からふりかえると、出使日記の外交史的検討は、不十分なままなのである。本報告ではまず公使館にしぼって、その課題にとりくみたい。
 日記をつけるだけなら、それはある意味で、読書人のたしなみであり、「出使」にかかわらず存在しうる。出使日記と区別されるものがなぜつくられるか、といえば、それは第一に、出使大臣に義務づけられた報告・復命の一形態だということにある。たとえば『郭嵩燾日記』と『使西紀程』、『曾惠敏公手寫日記』と『使西日記』の出入は、明らかに「出使」という特殊な情況を意識し、遠からず特定の人にみせることを前提にした処置で、通例の日記とは異なる配慮の存在をあらわしている。まもなく「出使章程」がそうした位置づけを確定するが、その目的は何よりも、ガイドブック的な役割を期してのことであった。初期の段階では、その色彩がいっそう濃厚であって、初代出使大臣郭嵩燾・副使劉錫鴻の「出使」日記は、�!�章程」以前にできて読まれたものである。そして関係者・後任者に影響を与えるガイドブックなればこそ、日記をめぐる二人の確執もおこったとみられる。それは外政機構と「出使」人員に対し、「出使」という行為を、換言すれば公使館の存在をどう位置づけるか、という外交次元の問題でもあった。
 出使日記が「回し読み」されるガイドブックにすぎないのなら、それは外交当局に限ったものであって、必ずしも公刊を要しない。本国で公刊される、ということは、外交当局にとどまらない効果をねらったといえる。そうした公刊の経過を通観すると、いくつかの論点をひきだすことができよう。『使西紀程』公刊の挫折によって、「出使」を外交当局以外にも公開しようとした総理衙門の試みは失敗に帰し、以後、外政機構の手による刊行は行われなくなった。しかし流布した『使西紀程』をうけて、曾紀澤の日記・メモが在任中にちがった形で公刊されたのを経、薛福成の『出使英法義比四國日記』にいたって出使日記の体裁が形を成し、本格的な公刊もはじまる。かくて出使日記は本国で定着し、戊戌変法期の対外関心の急�!�な高まりとともに、奔流的な刊行がおこなわれるのであった。
こうした本国の経過は、じつは公使館における対外態度の変容と対応している。公使館の対外交渉、とりわけ「公法」「藩屬」に対する態度は、ヨーロッパでの曾紀澤の任期中、1880年代を通じて変化をみせていた。そのひとつの到達点が、やはり薛福成の外交交渉である。組織編成はなお「揺籃期」でしかなかった当時の在外公館ではあるが、それでも現実に本国の外政機構をリードしていたばかりか、戊戌・庚子で大きく転換する本国の政治情勢にさきがける動きをみせた側面をみおとしてはならない。

《箱田報告要旨》
薛福成の滇緬界務交渉
京都大学 箱田恵子
 清末の洋務思想家、外交家として名高い薛福成が欧州赴任中に携わった外交交渉の中で、特に先行研究の注目を集めてきたものの一つが滇緬界務交渉である。薛福成が英国と締結した国境条約(1894年)は、曾紀澤によるイリ交渉の成功とならび称されるほどの高い評価を受ける一方で、「失地交渉」との厳しい批判も加えられる。従来の研究では交渉の「成果」をいかに評価するかに重点が置かれていたわけである。本報告では視点を変え、日清戦争直前の中国において外交のあり方がいかに変容したかを明らかにしたい。
 雲南・ビルマ間の国境問題は1886年の英国によるビルマ併合に端を発する。しかし当初は西南辺境地域の現状維持が優先されたことから、滇緬国境問題は棚上げされることとなる。この問題を再び交渉の俎上にのせたのが薛福成であった。1890年に駐英公使としてロンドンに赴任した彼は、1886年当時英外務省が曾紀澤に承認した「三端」(①サルウィン川東岸のシャン族の土地の割譲、②バモーの開港と清朝税関の設置、③イラワジ川の清英両国公共化)の存在を知り、この「三端」を根拠に英国との交渉を開始することを本国に奏請した。
 1892年より英国との本格的な国境交渉が始まるが、薛福成はその焦点を「野人山地」の分割問題に置いた。雲南西境に広がる「野人山地」は、緩衝地帯として防衛上の意味を有した。加えて、イラワジ川をもって「野人山地」を分割し両国の国境にすることは、インド・ビルマ方面への通商ルートを中国側に有利な形で確保することになり、その地の天然資源も重視されたからである。また、ビルマに駐屯する英兵が調査と称してこの地に派遣され、原住民との間で衝突事件を起すなど、英国側の侵入に対抗する必要にも迫られていた。
 ただし、「野人山地」をめぐる中英両国の交渉において注目されるのは、薛福成の交渉方針である。彼は、領土主張の根拠を歴史的な統属関係に置くのではなく、「野人山地」を国際法上の「無主の地」と規定し、両国による分割の対象と看做したことである。英兵による侵出が進んでいたことから、国際法に基づくほうが戦術的に効果的であるとの判断であったのかもしれない。ただ、こうした国際法を根拠とした積極的な「拓地」交渉を展開した背後には、欧州での経験から形成された薛福成の国際観、外交思想を認めることができよう。たとえば、地理学を重視したことが挙げられる。彼の『出使日記続刻』の内容は世界地誌ともいうべきもので、滇緬界務交渉時に得た知識も盛り込まれている。彼は西洋の教育や行政が「地�!�学を以て始基と為し、商務を以て帰宿と為す。故に其の風気は皆善く荒地を尋ねて之を墾闢す」と、当時の殖民地開拓に励む西洋列強の姿を肯定的に見る。列強によるアフリカ「開拓」は、「文明化」の事業とみなされた。その一方で、西洋諸国の間で「外交」の果たす役割が増大し、外交官の社会的地位が高いことも彼の注意をひいた。こうした当時における西洋社会の現実の中で、薛福成は、「遠略に勤めず」とのこれまでの清朝の外交方針こそが辺境の喪失、海外華僑の苦境、商務の不振の原因であると批判するに至ったのである。

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