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第11回アジア政治論質問・回答

第11回アジア政治論質問・回答
川島 真

◆【授業の方法について】
◆【第11回目の授業内容】

偉い順番は以下のようになっていると理解して良いのか?
町、市長、市民の位置付けはどこにあるのか。混乱してしまいました。(学部三年)

主席・総理・国家中央軍事委員長
  ↑    
国の全国人民代表大会、人民政治協商会議
  ↑
省の            〃
  ↑
市の            〃
  ↑
県の            〃
  ↑
村長
  ↑
村民・町民・市民 
 ⇒なかなかえぐい質問ですね。次回の授業でやりますが、中国では基本的に「自治」はなく、地方政府は中央から「独立」しています。しかし、同時に中央の指導に従うということもあり、矛盾した状態になっています。ここの上下関係をいかに考えるかが難しいところですが、上下だとして、以下のようになるでしょう。

                           【国家系統】 

                         人民代表大会           政治協商会議
                            国家主席

                             総理                     
      人民法院                人民政府           人民検察院 

  これが中央⇒省・特別市・自治区⇒市⇒県⇒郷鎮までいくということでしょう。総理のところに市長、省長などをおいてみてください。村は少し別です。「村民委員会」なるものが組織され、投票により選ばれた村長がいます。そこには人民代表大会などはありません。他方、このほかに党の組織もあります。党書記のほうが行政のトップより上です。なお、人民代表大会は実質的に常務委員会によって動いていることも忘れないでおいてください。 
                       

 国家主席と中国共産党の対立についてですが、結果的にどちらが強くなったのでしょうか。中国では一つのセクターに権力を集中せず分散させるというお話だったので、どちらかが絶対的に権力を握るということは現在も見られないのでしょうか。どちらが優越しているのかよくわからなかったので、もう1度整理していただけますか。(学部三年)
 ⇒わかりにくかったかもしれませんね。
  中国では国家主席のポストをめぐって「闘争」がありました。要は「党」と「国家」の関係です。毛沢東と劉少奇の関係において、国家主席であった劉をいかに打倒するのかかが文革のひとつの目標でもあったことを考えれば、ある意味で実力が無かった華国鋒が「あなたなら安心だ」と毛沢東に言われて国家主席になったこと(国家主席というポストを無くすことは無理だった)、82年憲法改正で54年憲法の復活をはかりながらも軍事方面の権限を国家主席にもどさず、軍事委員会に留保し、さらにその軍事委員会には国家主席にならなかった鄧小平が居座ったことなどを考えると、両者の微妙な関係がわかるかと思います。軍事委員会には「真の実力者」あるいは「党の実力者」が坐り、国家主席や総理は実務的なことをするトップという意味合いをもたせたわけです。江沢民とて、国家主席・総書記に就任してから、キャリアを積んではじめて軍事委員会も掌握できたわけです。今回も同様で胡錦濤も経験を積まないと軍事方面は管轄できないということになります。他方、昨今、中国は「党」による統合よりも、「国家」による統合を重視しており、総書記よりも国家主席を重んじる傾向があります。そうした意味では、国家主席の地位は以前より上がってきています。国家を強め、その国家を指導することによって、共産党は自らの正当性を確保し、政策の実現をはかっているわけです。しかし、国家主席をはじめ、国家側にすべてを委ねることはしません。バランスの線を国家側に寄せただけです。どちらかという二分法ではなく、以前より国家寄りになったが、しかし軍事委員会の問題など、党が掌握している部分は大きいということになります。

法律はその文化の価値体現であるのだから、アジアは無理やりに西洋化する必要は無いように思える。しかし、個人の権利を保証するためには、国民に法が浸透していなければならない。権利保護を訴えることが奇異の目で見られることなく行動できなければならないのは、ある程度普遍的な価値であるのではないか。訴訟率はその後に比較すべきであろう。制度を改革するときは、他国をそのまま参考にすべきではなく、自国の文化をよく吟味した上で構成を練るべきである。裁判員制度は、その機能よりも国民への法の浸透を目的としているようだが、司法教育を充実させる方が優先すると思われる。
(修士1年)

⇒おっしゃることは最もであると思います。ただ、「法律はその文化の体現」であることは間違い無いものの、一方で「法律じたいが社会の中で、また秩序形成の上でいかなる存在であるかということも、また広義の文化に属する」という考え方はできないでしょうか。「人権」はなぜ保障しなければならないのでしょうか。その理由、原因があるとして、それを担保する手段は「法」しかないのでしょうか。社会規範、明文化されない慣習、賢人による政治、などなど様々な手段が考えられるのではないでしょうか。そうしたものを比較検討して、やはり「法」に勝るものはない、と言いきれるのかという問題があるのではないかということです。アジアにおいて、そもそも「法」なるものが何故存在し、それがどのように機能して秩序形成がおこなわれていたのか。そうした根源的問題にたちかえったらどうなるでしょう。滋賀秀三先生の「情理法」など、参考にならないでしょうか。

◆【そのほか】

今回の講義とあまり関わりがないのですが、中国とヴェトナム、ラオスなどとの国境は定まっていないと言います。国家の政治的統治から言えば、中国において国境の捉え方、及び南部において国境をめぐる歴史などはどのようになっているのでしょうか。(学部4年)
⇒国境が定まっていないということはありません。もちろん、1979年に中越国境紛争(中越戦争、中国軍大敗北)がおきましたが、いまは係争地ではありません。ただ、実際のところの「国境管理」が十分かと問われれば、「否」ということになるのかと思います。国境が外交的な意味で定まっていないのは、インド、ブータン、シッキム付近、およびカシミール方面です。中国における国境の捉え方については、例えば茂木敏夫『変容する近代東アジアの国際秩序』〈世界史リブレット 41〉(山川出版社、1997年)などを御覧下さい。基本的に、近代主権国家的な意味での国家、国民という概念は、19世紀末からあったと考えられます。それ以前、版図・疆域といった考え方がありましたが、域内にひとしなみに支配が行き渡るというよりも、濃から淡へという同心円的支配空間イメージがあったことは看過できません。この点は、濱下武志『近代中国の国際的契機――朝貢貿易システムと近代アジア』(東京大学出版会、1990年)を参照下さい。そして、南方における国境問題ですが、一番混沌としたのが雲南・ビルマ国境です。ここは清末以来、ずっと中英間の抗争地でした。また、澳門周辺も、ポルトガルが盛んに埋め立てをするので係争地でした。当然、中越国境も中仏間で抗争が激しかったところです。シッキム付近については、何度も条約が結ばれましたが、領域の確定は不分明なままです。こうした経緯は坂野正高『近代中国政治外交史――ヴァスコ・ダ・ガマから五四運動まで』(東京大学出版会、1973年)に整理されています。

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