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中国の政権交代報道に見られる偏見について(2002.11.28)

 中国の政権交代は、やはり江沢民の政権残留というというかたちで決着した。これは当初予想された路線であったが、李瑞環の実質上の失脚など、やや意外な面もあった(日本外務省は、一生懸命、李がファンである伊達公子まで動員して李との「関係づくり」につとめたが、空振りにおわった)。しかし、今回の政権交代をめぐる報道については、たとえば李瑞環の失脚を、江沢民との関係がよくないという点だけで説明するなど、人間関係、人脈、人的履歴などだけで説明する傾向が目立った。これは、中国政治は人間関係で動いている、それだけに不透明、といった意識を背景に有する、一種のオリエンタリズムではないかと感じる。無論、中国政治を分析する際に、人的ネット-ワークは有用な分析視角である。だが、それだけですむであろうか。

 今回の人事について大切なのは、要するに今後五年間、十年間の中国にとって何が重要かということである。それは、第一に、テロや独立運動、あるいは宗教運動をふくめた反政府活動を防ぎ、共産党指導下で中国としての一体性をたもつ「国家統一の維持」であり、第二に経済発展の維持と地域的不均衡などを調整する「富の再分配」である。この二点は、経済発展と「中国」に求心力をもたせる上での強国化という点での「富強」、共同幻想としての「恢復中華=ナショナリズム」、共産党の指導性の維持という意味での「革命」などといった正当性の調達と密接に関わる。共産党の総書記、あるいは国家主席は、こうした正当性を調達するうえで重要な役割を果たす。そうした意味で、胡錦濤はうってつけの人材である。胡の業績は、要するに西蔵における独立運動、反政府運動の鎮圧、経済発展のおくれている西部における省マネジメントである。これは、上記の二点をそのまま体現するものであるともいえる。

 だが、この胡錦濤人事を毛沢東、鄧小平、江沢民人事と同様のものと考えるのには無理がある。中国では、文化革命の影響で、50代のリーダー不在が顕在化している。そうした意味で、40代から50代初めくらいの人材が各所で「領導」となっている。中央政府も、それにならった刷新をおこなったわけであるが、この新しい世代はリーダーシップのありかたが異なる。つまり、カリスマ的な支配というより、あるいは抜きん出たトップが全体を総攬するというより、ある種、調整型のリーダーシップということになる。つまり、胡錦濤は、恐らく、国家の根幹となる部分を担当しつつ、そのほかは専門的なキャリアを有した幹部たちに任せ、自らはその間を調整するリーダーになるのではないかということであり、そうした調整を想定した場合、冷静で実行力があるとされる胡錦濤は、適任だということになるのである。
 しかし、人民解放軍は、こうした「調整」型リーダーシップを受け入れていない、すなわち世代交代をすることに老幹部たちが納得しなかったのではないか。江沢民残留を、江の権力欲だけで説明するのは難しい。人民解放軍は、80年代後半以来、急速に「近代化」しているとされるが、そうした中で専門性の強い、40代から50代初めの職業軍人リーダーが育っていないということを示すのではないだろうか。

 2002年11月28日付け『人民日報』は、中央軍事委員会が主催した「紀念羅栄桓同志誕辰一百周年」座談会の模様を一面で報じた。羅は中国人民解放軍創設期の功労者である。この紙面、江沢民が写真入で大々的に露出、胡錦濤はその座談会に出席したという見出しにとどまる。これはまるで、今後も江沢民と胡錦濤の位置づけを明確にするがために、ひとつの元勲のための座談会を大々的に報じたようにも映った。

 人間関係というよりも、中国それじたいの政治に即した説明ができればと考えながらも、結局システムというより、人の話になってしまったことが情けないが、ネポティズムだけの説明よりは、多少はましなのではないかと思う。ちなみに、今度の政権における「外交」は遠景にある。もちろん、「全球化」は中国に大きな影響を与えるであろうが、あくまでも内政の中に位置づけられるものである。内政の延長なのではなく、内政の中にあるものである。そうした意味で、外交部長は党政治局員である必要はない。外交部は単なる実行機関でよい。外交部は意思決定をおこなわないのである。

 最後になるが、http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/2461963.stmで人的要因の禊を受けて欲しい。リーダーのパーソナリティですべてが決まるような錯覚を受けることだろう。

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