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台湾旅行(2003.3)

 久しぶりに台湾にゆっくりと滞在した。二週間だが、ここ数年一週間以内の滞在が多かったので大変新鮮な時間を過ごすことができた。台湾社会は、経済不況にくわえ、政治的にも「選挙」が日常的空間にも進出し、常に踏み絵を迫るような雰囲気が出てきているようである。陳政権は、当初から人材不足が指摘されていたが、人材不足のみならず、制度やシステムなど全体が硬直してしまっている感さえある。日台関係は、新たな対日工作組織がつくられるなど、新たな方向性が模索されつつあるがまだまだ未知数である。

 中央研究院内部も相当厳しい状態にある。特に人文科学系の研究所のおかれている状況は厳しいものがある。研究所の撤廃、研究員たちの離散、研究所の合併、東北亜プロジェクトと東南亜プロジェクトの合併(=亜太研究中心の設立へ)など、様々な「消息」があった。台湾は学術の情勢も政治状況に大きく左右される。どこの国でもそうしたことがあるが、台湾はその関係がヴィヴィッドである。

 さて、今回は台北に拠点を置きつつも、わずか二週間の間に、台南・高雄・台中を動きまわった。基本的に「歴史散歩」であったが、あらためて物事を考えさせられる空間に出会うことになった。

1.牡丹社
 ここは、日本の「台湾出兵」がおこなわれたところとして知られる。牡丹社事件といえば、日本近代史では重要な事件として知られる、西郷従道の指揮下に日本軍が組織され、漂流して殺された「琉球人」の弔い合戦がおこなわれた(西郷自身は長崎にいた)。それが「近代国際法」といかにかかわるかということは、今後も議論しなくてはならないが、少なくとも日本側が国際法を用い、清側が旧態依然としていて国家・国民(臣民)を理解せず、「化外の民」として殺害者として位置づけられたパイワン族を位置づけたなどという説明は、あまりに日本近代を正当化する歴史言説として今後は相対化されていくことになろう。この牡丹社へは、高雄から少なくとも車で3時間はかかる。目指すは石門古戦場である。そもそも、牡丹社行きは、大阪市大の土屋礼子先生が台湾出兵に同行した日本最初の従軍記者である岸田吟香を追っており、その関係でぜひとも「現場」をというところから始まった。高雄から蓮霧などをつまみ、台湾海峡を望みながら海岸線を南下した。車は北大を卒業した学生とその御兄上が手配してくれたレンタカーである。車窓から見える海の波は比較的穏やかだが、それにしても遠い。高雄が以外に北側にあり、牡丹社が殆ど懇丁と同じ位置、すなわち台湾の最南端にあることを改めて実感した。そして漸く日本軍が上陸したところに程近い車城を左に曲がり、山の中にはいっていく。周囲は玉葱畑が広がる。日本にも輸出されている名産品である。このあたりは有名な温泉地でもある。いくつもの湯宿が並ぶ中をはいっていく。・・・古戦場への案内は何気なくたっていた。一応駐車場はある。養蜂用の箱を右手に見ながら、階段をあがっていくと、石碑がある。新しい。後から接いだものである。そして一部は塗りつぶされている。そして、土屋教授が本当の「参道」を発見。歴史的遺物は、どうも国民党政権によって位置づけなおされていたらしい。当時の面影を残しているのは「台座」だけであった。しかし、「石門古戦場」として描かれる「石門」(山と山に挟まれた谷状の地形、その谷のところで戦闘があったとされる)の光景をみて、ル・ジャンドルの写真やのちの牡丹社事件をめぐる表象を「現場」で知見することができた。このあと、古老に話をきかんと、牡丹社の学校、郷公所、派出所方面に行くが、週末だったので派出所しかあいていない。いろいろ聞いていると、先の石碑の本物は「日本人が持ち去って、どこかの博物館にあるらしい」とのこと。文化遺産をなぜ・・・というのが彼らの不満。もしそれが本当なら確かに問題である。また、小学校の校舎には「石門古戦場」の絵が描かれている。土屋教授から、「これは石門として後に日本などで描かれた構図と同じ」と指摘。「抗日精神」のために描かれた絵ではあるが、表象としては連続しているようだ。このあと、古老に話を聞こうとしたが、結婚式でみな家にいなかったのと、あまりに突然であったこともあって、出会ったパイワン族のかたがたから「昔のことは忘れた」というコメントしか得られなかった。いくら古老とはいっても、1874年の牡丹社事件のことを覚えている人はいるわけがない。こちらはそれがどのように村に伝えられたか知りたかったのだが。このあと、東へ東へと向かい太平洋にでた。外洋、さすがに波が荒い。ここから上陸するのは無理だったと納得。このあと、もとの道をたどって高雄に戻った。

 台北に戻ってから、中央図書館分館(本館は国家図書館と改称している)で、牡丹社事件跡の日本統治時代の石碑の写真の入った本を見たが、その石碑は今回みたものとまったく別のものであり、また参道も土屋教授が指摘したとおりの位置にあった。他方、今回のことを許雪姫教授にはなしたところ、このような日本統治時代の「碑文」の45年以降の行く末こそが重要であり、今後開拓されていくべき分野だとのことであった。

2.緬甸街
 今回は本当によく旅行をした。たとえば西螺。台中から東南に二時間弱いったところにある。ここは、醤油と西瓜の街として知られる。濁水渓にかかる橋も有名だ。西螺で使用している大豆はすでに輸入物、国産ではない。それから鹿港。ここは有名だが、淡水-福州、台南-厦門とは別の福建へのルートを実感できた。

 緬甸街。ここは台北から捷運で30分もかからない。駅で言えば南勢角から歩いて五分程度のところにある。緬甸はビルマのこと。では、なぜ台湾にビルマ街があるのだろうか。南勢角を下り、場所の確認をはじめるが、どうも地図では場所が判然としない。同行していた林玉茹さんが、おもむろに老人に尋ねる。その老人は国民党旗の傘をもっている。その老人はそこを右に曲がって、二つ目の信号を左、などと大陸訛で応えてくる。これは林さんよりもこちらのほうが聞き取れる。横に居た老人も口を挟んでくる。来ているジャンパーには「八二三戦役戦友会」の字。街中にはいってみると、ビルマ文字が踊る。ここは、ビルマからの「引揚者」が集まるところなのである。ビルマからの引き揚げと言っても、華僑というわけではない。雲南や四川から国共内戦期にビルマやタイ北部に逃れ、少なくとも1960年代までは現地で共産党に抵抗していた人々が、中華民国が大陸反抗を放棄して以降、異郷の地である台湾に「引き揚げ」てきたわけである。この地域には現在4万人が住むという。面白かったのは、新聞。「老兵」たちの消息の載る新聞がスタンドにならぶ。きわめてマイナーな地方紙である。また、仏像が奇妙だ。明らかに東南アジア系統の仏教の仏像が目に付く。台湾の民間信仰からするとまったくの異次元空間だ。こういう人たちのことも組み込んだ「台湾史」がありえるのか。考えどころだろう。

 台湾は複雑だ。2004年3月の選挙に向けての前哨戦が各地で見られる。今回の「旅行」でもまさに多様な台湾を実感することができたが、確実に言えることは「中華民国」はもはや殆どないということである。国号として中華民国を用いるのかどうかということは別問題として、少なくとも台湾の台湾化は動きがたく、それと同時に中華民国は限りなく希薄化している。

 現在、人口の5パーセントにあたる100万人が大陸で働いている。大陸から台湾に来ている女性も10万人を超えているという。このような両岸の結びつきの強化と、中華民国の希薄化が同時に進んでいる。「両岸」は、「中・中」でも、「国・共」でもなく、「中・台」になる。これは次の選挙の結果がどうであろうと動かないのではないか。(了)

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