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馬関条約と下関条約 ―日清講和条約の呼称問題―(2004.2)

 以前から気になっていることがあって、山口大学に出張した合間をぬって下関に行った。

 95年だったか、台湾にいるときに張啓雄先生から「中国ではどうして馬関条約と言い、日本では下関条約と言うのか」と聞かれたことがある。どうも、テレビのクイズ番組か何かの問い合わせが張先生のところに廻ったものらしい。実のところ、そのとき、筆者はこの問いに応えることができなかった。

 下関条約という呼称は、おそらく「朕明治二十八年四月十七日下ノ關ニ於テ朕カ全權辨理大臣ト清國全權大臣ノ記名調印シタル媾和條約及別約ヲ批准シ茲ニ之ヲ公布セシム」というように、条約公布時に「下ノ関」という地名が公的に使用されたことに由来しよう。では、清朝がどのようにこれを「公布」したのかという問題が生じるのだが、この点については、そう簡単に確定的なことは言えず、一層の史料の探求が必要である。だが、それにしても、馬関条約という呼称をどうして清が用いたのかということがよくわからなかった。それどころか、下関と馬関という地名の関係さえも不明であった。現在の感覚では、清が「馬関条約」と呼んでいることが奇妙でさえあるからである。

 今回下関行って、この馬関と下関の関係については多少「線索」をつかむことができた。まず決定的なことは、1895年当時、下関市という自治体はなく、赤間関市であったということである。赤間関市は1888年の市制施行にあわせて設けられた山口県最初の「市」であった。下関市と改称したのは、1902年のことである。条約が結ばれた市名を採用するなら「赤間関条約」が正しいのである。だが、赤間関と並んで、下関や馬関も別称として多く用いられていた。下関は、山口県の東端にある上関に連なる地名であったし、馬関は伝説的には春帆楼裏の山の社に馬のかたちをした岩があったことなどに由来する地名であったとされる。また、下関のほうが馬関よりよく使用されていたわけではないようである。1901年、山陽本線が神戸からこの地まで開通したときには、駅名は「馬関」であった。そして、1902年6月に下関市になった際に「下関」駅となったのである。また、幕末の四国艦隊による下関砲撃事件も、「馬関戦争」と言うほどである。そうなると、下関条約という呼称も、馬関条約という呼称も、地名という観点では、ともに1895年の時点では決して十分に権威付けられるものとは言えないのである。逆に言えば、馬関を清側が地名として認識したことに、決して奇異なことはないのである。それどころか、1902年に下関市となって以降、歴史的な事件を「下関」を使用して表現することが通常になっていった側面もあるのであろう。そうした意味で「下関条約」という呼称を今一度相対化してみることが必要かもしれない。

 ただ、馬関条約については、それがなぜ清側で「馬関」と通商されるようになったのかということは、まだわからない。档案や上奏文を見ながら解明していかねばならないだろう。(了)

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