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仁川華僑街散策報告(2002.9.20)

 仁川を歩く目的は、昨今進めている「朝鮮半島における華僑および中国租界」に関し、これまで文献のみで研究をおこなってきたので、朝鮮半島における代表的な中国租界であった仁川を見ることで、文献では見ることのできない姿を感得することにあった。結論から言えば、そのある意味で「さびれた光景」に複雑な背景を感じ取り、またその将来の限界性についても思わざるを得ない状況であった。

 基本的なことを確認しておきたい。仁川は、済物浦条約により1883年に開港、翌年の84年には清国領事館がおかれた。ちょうど袁世凱の朝鮮半島での影響力が強まっている時期である。そして、この領事館設置にあわせて「租界」がここに設けられている。租界それじたいは「日韓併合」後に撤廃されるが、以後も主に山東から流入する華僑がおり、40年代には特に人口が増加したとされる。しかし、ここから先は想像の域を出ないのだが、中華人民共和国は韓国にとって朝鮮戦争における「敵国」であり、それは単なる共産主義圏の国という論理をこえていたものと思われる。朴政権下における華僑弾圧問題なども仄聞する。他方、朝鮮戦争に義勇軍を送り込んだ中華民国が、朝鮮華僑に如何に関わったのかということも大きな問題となろう。そして、92年の中韓国交回復(華韓断交)以後の「友好」ムードの中で、山東省との経済関係が急速に緊密化するなかで、それが如何に変化したのかということも関心のひとつであった。

 韓国は、旧盆として中秋節を休日とし、家族とともに過ごす(「秋夕」=チュソク)。台湾や中国でも中秋を大切に過ごすから、東アジアで中秋をきちんと祝わなくなったのは日本だけということである。今年は9月22日、仁川を訪問したその日は中秋休みにはいったときであった。そのため、ソウルから仁川への小一時間の鉄道の旅でも、出会うのはこれから帰省しようという家族ずれや、ソウルに仕事に出ている若い人たちである。興味深いのは、なぜか彼らの手に「葡萄」があること。彼らはどうも葡萄をたいへん好きらしい。

 また仁川と言えば、新しい東アジア最大のハブ空港ができたことでも知られる。だが、この空港は仁川広域市の内部にはあっても、旧市街から近いわけではない。仁川沖の島を、環境保全などの面からの大反対をおしきって埋め立て、それによって築かれた空港である。4000メートル滑走路が四本。だが、この巨大空港が仁川市にどれほどの経済効果をもたらしているのだろうか。このあたりも、成田のことを想定すれば疑わしいところである。

 さて、仁川駅に到着する。この駅は日本統治時期代から駅の位置が変わらない。手元にある昭和5年の地図と今の地図を見比べると、月尾島や松島などの周囲が埋め立てられ、海岸線は一変しているのだが、線路などは基本的にかわっていない。駅舎は、建設時期を確認できなかったが、戦前期といわれてもおかしくない風貌で、外壁だけペンキで塗りなおしている。改札口を出て右斜め正面に大きな「中華街」と記した門がみえる。どうも威海衛市からの贈り物らしい。その門の下にこの中華街の歴史の説明。だが、しっかりと92年以前の戦後の部分が欠落。「正史」は既にいとなまれたらしい。さて、この門の内側がかつての「租界」。山ひとつ分に相当する。しかし、この門の右手にはしっかりと交番がある。派出所よりも大型。パトカー数台をとめられる規模。駅前だからともいえるが、横浜中華街同様、監視の眼がこの中国人居住区に向けられていたことに気づく。その門から坂を数十メートルのぼる。左右に点在するのは、中華料理屋、漢方の薬剤店。だが、店もまばらに展開するだけ。中腹の右手に道があり、そこに中華料理店数店が展開。料理は、餃子などの山東料理、あるいは包子などの天津系。そしてこの地で生み出されたという「炸醤麺」。

 そこから左手に行き階段をのぼると、右手に教会が見える。これは中華基督教会。1922年築とのこと。山東が日本の支配から中国の統治下に戻った年である。そこを抜けて右手にくだると、こんどは旧領事館と人目でわかるような建物があり、その敷地の中に青天白日紅旗が翻る。共産党系ではなく、台湾の国民党系なのだ。やはり、戦後から1992年までの国交のありかたが色濃くこうしたところに反映されている。敷地を右手にまわっていくと、正門があり、それが華僑向けの小学校と中学校であることを確認できる。おっして、その右手には国民党のシンボルを冠した建物があり、そこに青年会などの国民系の組織が置かれている。台湾での政権交代にかかわらず、華僑社会は国民党(それも広東以来の古い国民党)によって束ねられている。ちなみに、ソウルの明洞にある中国大使館もいまでは当然大陸系であるが、その門のまん前には国民党系の組織が居を構えている。こうした配置にも韓国華僑の難しい一面があらわれている。

 そしてそのまま坂を下る。すると今度はこの地域の役所が出現。この山は警察と行政機構にしっかりと囲まれている。そのまま平地におりると、数件の中華料理屋がある。そこで簡単に食事をするが、前述のような典型的な北方料理。実は、ここまで街中では中国語を聞く機会は無かったが、このレストランの厨房から北京語が聞こえるので、店員に北京語で話してみたところ、明らかに「習った」中国語で対応してくれた。

 左手に「山」を見ながらふもとを歩く。この山にはマッカーサー像、韓美修好100周年記念碑や、一種の迎賓館であった文化院などがある。また、ふもとの部分にも、旧第一銀行仁川支店、仁川郵便局などといったゴシック、ルネッサンス様式の建築物がある。この「租界」、いまではすっかり韓化しており、「観光地化」を目指すとされているが、観光資源にするにはあまりに寂しい状態である。中華料理屋とて、ばらばらに20軒ある程度ではないか。人口も恐らくは1000人いないであろう。では、彼らは92年以降の大陸との交流の担い手ではないのか。この点は充分な調査が必要であるが、月尾島など沿岸部の波止場のそばには数多くの中国系企業が事務所を構えていた。恐らくは華僑社会が二重構造になっているのであろう。

 このあと、仁川市博物館に行く(電話032-833-2602)。ここには「租界」と韓国人居住区を分けた礎石などがあり、興味深い。それほど厳密な教会がなかったということか。博物館の展示、特に近代史の部分は、ナショナリズムと文明が軸。日本統治時代などほんの僅か教科書がある程度で、あとは19世紀末の文明開化の様子が強調される。巨文島史の語り口と似ている。また、仁川上陸作戦記念館の展示は、朝鮮戦争の展開や、参加各国の様子がわかり興味深い(電話 032-832-0915)。朝鮮戦争といえば、米韓/中朝という構図で語られがちだが、南側はあくまでも連合軍。アジアではタイやトルコが参戦、アフリカでも南アが、欧州ではオランダなどが加わり、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドも参戦している。韓国にとって、このような「友好国」のラインがあることは興味深い。ちなみに、義勇軍を出したはずの中華民国のことは当然何も記されていない。

 以上、駆け足であったが、華僑居住区を中心として仁川を歩いてみた結果である。このほか、休みで入ることができなかった仁川図書館(恐らく日本語蔵書がある)、旧日本人街などまだまだ調査対象はあるであろう。次回は、仁川華僑について、より調査を進めた上で聞き取り調査などをおこなってみたい。(了)

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